第五話

 庄九郎はその日の内に出立した。表向きは、国元の父が危篤であるという事にして暇をもらったのである。

 千衛門は惜しみなく旅費を持たせてくれたので、駕篭や船など、使えるものは全て使って、とにかく旅路を急いだ。


 隠岐の島にわたってからも、順調にことが運んだわけではなかった。尼僧が描いた地図はひどくおおざっぱで、大体の位置しかわからない。といって、「若返りの泉はどこか」などと尋ね回ったところで笑われるだけである。山々を渡り歩き、おのれの目と足で探し回った。

 葉月に入ると、焦りが募った。

 いつでもよいわけではない。十五夜に泉にたどり着かねば、次の機会は翌年になってしまう。

 十五日。休む間もなく、山を彷徨い続けた。

 ムッとする草いきれのなか、蚊に食われ、触れる木の葉に肌を傷つけられながら、ひたすら泉を求め歩いた。途中、竹筒の水が尽きたが、足を止めるわけにいかなかった。


 日が暮れる頃、とうとう庄九郎はめまいを起こし、へなへなと山道にうずくまった。

 今夜こそ、泉を見つけなければならない。しかし、月が中天にかかるまではまだ間がある。一旦、休もう……ほんの一時だけ休んだら、もう一度歩き出せるはずだ。

 草むらにごろりと横になり、空を見上げた。夕日に燃える空の端から、じわりじわりと夜の色が染み出している。気の早い一番星の光に、いつか、月乃がくれた金平糖を思い出した。


「月乃お嬢さん……」


 その名を呟くだけで、口の中に痺れるような甘味が広がり、胸が苦しくなった。

 彼女はもう、忘れてしまったかもしれない。数いる奉公人の一人と、ほんの一時言葉を交わしたことなんて。

 それでも、庄九郎の中には残っている。あのほんのひと時のやりとりだけで、ここまで来てしまえるだけの力を与えられた。どんなに辛く苦しい時でも、心の中に強く輝き失われない光を与えてくれた。

 

「必ず、泉を見つけて帰ります。ですから、どうか……」


 その先を言う前に庄九郎はことりと眠りに落ちた。口にしかけた想いは言葉の体をなさず、やすらかな寝息に混じって消えていった。



――――


 目を開いた時、最初に目に飛び込んできたのは、真上に輝く満月の光だった。

 その意味を理解する一瞬前、目の前ににゅっと、白くほわほわした餅のごときものが、月光を遮るように現れた。


「わっ!」


 声を上げて跳ね起きると、餅は驚いた様子もなく、小首をかしげて庄九郎を見つめた。よく見ると、それは餅ではなく、ふくふくと太った大きな兎であった。人間の幼子くらいの大きさで、後足で立ち、赤いちゃんちゃんこまで着ている。手には一本のススキの穂を携えている。

 兎は赤い、ふてぶてしい眼でじっと庄九郎を見つめると、幼子のようなあどけない声で横柄に声をかけてきた。


「お前、比丘尼びくにばばが言っていた、おぼろ月の小僧だな」

「えっ?」

「花に水を遣りに来たんだろう?」

「花に水……」


 初めは訳が分からなかったが、花と言われて、一瞬月乃の顔が脳裏に浮かんだ。そして「比丘尼の婆」……千衛門の前に現れた尼僧のことか。そうピンときた。

 庄九郎が大きく首肯すると、兎も頷き、「ついて来な」と四つ足になって駆け出した。慌てて身を起こし、その後を追う。

 

 丸々と肥えているくせに、兎は実に俊敏だった。ぴょこぴょこと毬のように飛び跳ねながら、山の奥へ奥へと駆け入っていくのを、庄九郎は必死で追いかけた。暗闇の中で白い毛皮は目立つものの、走るのが早すぎて、一瞬でも気を抜けば見失いそうになる。踏み込むほどに虫の声が高くなり、足音を拾うこともできない。

 笹薮をかき分けながら息せき切ってかけ続け、遂に開けた所へ飛び出した時には、勢い余って前に転がった。土埃にまみれた鼻先を、水の匂いが軽く湿した。

 そこには、澄んだ水を湛え、中央に月を映した丸い泉があった。その周りを、青いちゃんちゃんこを着た白兎たちがぐるりと取り囲み、手に手にススキの穂を掲げて、踊るように回っている。ススキを大幣おおぬさのように振り、声をそろえて歌い歩く様は、神に祈りを捧げているかのようだった。


兎児爺トゥルイェ。おぼろ月の小僧が参りました。」


 もち兎が声をかけると、手前に立っていた一匹の兎が、ゆったりと振り返った。

 年経た大きな兎であった。赤い、異国風の長衣をまとい、手にはススキの代わりに、銀製の柄杓を携えている。首の周りにふっくらとした肉垂を蓄えているところをみると、どうやらメスであるらしい。

 大兎はにこやかな糸目でじっと庄九郎を見つめると、「ほう、ほう」とのんびりとした声で呟いた。そして、手にした銀の柄杓をついと伸ばすと、泉の、ちょうど満月が映っている辺りの水を救い取り、庄九郎に差し出した。


「遠い所をようお越し。さぞや、喉が渇いたことでしょう。まずは一杯、お飲みなさいな」


 不思議なことに、柄杓に汲み上げられた水は、満月の一部を掬い上げたかのように、黄金色に輝いている。

 庄九郎は喉をひくつかせた。昼間から駆けずり回っていたせいで、唾も湧かないほどに喉が渇いている。

 それでも、甘露のしたたる銀の柄杓に、手を伸ばそうとは決して考えなかった。庄九郎はその場に正座し、きっぱりと首を横に振った。


「私は飲めません。それは、私の大切な方のために、いただきに来たお水です」


 もち兎は少し面食らったように髭を震わせた。いつのまにか、泉の周りの兎たちも踊りをやめていた。ススキの穂を下ろし、興味深げに庄九郎を見つめている。

 兎児爺は厳かに頷いた。


「お前は、よい子だね。正直で、強い心の持ち主だ。その正直さゆえに、人よりも苦しみ、人をより苦しめることもあるだろうね」


 兎児爺は庄九郎の方に、一歩足を踏み出した。

 するとどうだろう。地面に触れた白い足先からするりと長く伸び、兎児爺の姿は、年経た兎から、美しい仙女へと変わっていた。玉をあしらった宝髻ほうけい深緋こきあけの大袖に、浅緑うすみどり。風もないのにふわふわと広がる羽衣。紅をのせた唇はふっくらと甘く微笑み、両頬に点じられた花子かしはえくぼのように愛らしい。

 泉の周りの兎たちも、いつの間にか青い衣に唐扇を手にした仙女の姿に変わっていた。


 兎児爺トゥルイェが細い右手を挙げると、赤い衣を着た唐子髷からこまげの童女が盆を手にしずしずと近づいて来た。ふくよかな頬と、ふてぶてしい目元を見るに、これが先ほどのもち兎であるらしい。


「こちらは、ただのお水だよ。安心してお飲みなさい」


 盆には美しい玻璃の杯と、なみなみと水の入った水差しが載せられていた。

 杯に注がれた水を、庄九郎は息もつかずに、四杯続けて飲んだ。渇いた体に冷たい水がしみわたり、ようやく人心地ついた。

 兎児爺は、別の兎に玻璃の小瓶を持って来させると、銀の柄杓で汲んだ水をその中に注いで栓をした。


「これが月の変若水をちみずだよ。一年につき一杯、一歳。それで花の命は永らえる。……わかるかい?」

「はい」

「毎年、この日にこの場所へ来て、この水を持ち帰る。できるかい?」

「はい。勿論です」


 兎児爺は深紅の瞳で、じっと庄九郎を見つめた。その目は優しくもあり、悲しげでもあり、慈しみと憐みの両方を湛えているようにも見えた。


「お前は、今ここでこの変若水を飲み、私達と楽しく暮らすことだってできるのだよ。どんなに慈しみ、守り続けたところで、花はいつしか色褪せ枯れるもの。……まして、お前のものになるとも限らないものを」


 ずきりと胸が痛んだ。

 熱く浮き立っていた心が、冷水を浴びせられたように急速に冷えていく。

 きらびやかな兎児爺の衣装に、いつか見た月乃の振袖と、花の簪を思い出した。あの日感じた隔たりは、失われることなく今もそこにある。

 兎児爺は続けた。


「お前の選ぼうとしている道は、お前が考えているより、ずっと過酷なものだよ。それでも行くというのかい?お前がその道を選ぶ理由は、一体何だい?」

「……たとえ」


 ぐっと膝の上で拳を握った。胸の疼きをぐっとこらえ、庄九郎は顔を上げ、まっすぐに仙女の顔を見つめ返した。


「たとえ、おのれの手中になくとも、心の内に花を想うだけで……それだけで、十分に生きてゆくことができる。人間とは、そういう生き物でございます」


 兎児爺トゥルイェは微笑んだ。

 身を屈め、手にした玻璃の小瓶を庄九郎の手に握らせると、柔らかな頬を少年の頬に寄せて、そっと囁いた。


「またおいで。……そなたの行く道に、幸多からんことを」  



 

―――  


 気がついた時には、庄九郎は朝日のあふれる山中に、一人ぽつねんと座っていた。

 手の中の黄金色の小瓶だけが、今見た光景が夢ではないことを教えてくれていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る