第三話
昔話の類型の一つに、「
しかし、月乃を妻にと望んだあの”叢雲”は、どう見てもそれとは性質を異にする「モノ」であった。恋する相手を純真に求めるというよりも、ひどく陰湿な、悪意に近い執着を感じさせるものがあった。
あの「モノ」に娘を渡してはならない。渡せばきっと恐ろしいことになる―――第六感とも言うべきものが、千衛門にそう告げていた。
愛娘を守るために、千衛門は奔走した。妖異を調伏し得る者を探したのである。
一人目は歴史ある神社の神主。彼は家の四方に札を貼り、厳粛な儀式を執り行い、「もう何も心配ありません」と告げて、意気揚々と帰って行った。しかし、その背を見送る千衛門の耳に、嘲笑うような”叢雲”の声がケタケタと響いた。儀式は何の用も成していなかったのだ。
二人目は、巷で有名な陰陽師。こちらも自信満々の様子で大仰に
三人目は―――三人目は、実は、よくわからぬ。
その者はおぼろ堂の店の前にぽつねんと佇んでいた。
白い頭巾に、墨染の法衣という
性や老いというものを超越したもの―――そういう存在のように見えた。
尼僧は亀のごとき眠たげな半眼でおぼろ堂をぼんやりと眺めていたが、千衛門が見ているのに気づくと、くるりと背を向けてさっさと歩きだしてしまった。尼僧の佇まいにただならぬものを感じた千衛門は、慌てて後を追った。
「随分とまぁ、業を重ねたもんだね。これほど入り組んだ呪いは、そうそうお目にかかれるもんじゃないよ」
馴染みの茶屋に連れ込んで話を聞くと、尼僧は懐から取り出した煙管に刻みを詰めながらそう言った。見た目に反し、酒に焼けたようなかすれ声で、口調も態度も随分と蓮っ葉である。
千衛門は一瞬たじろいだものの、すぐに気を取り直して畳に両手をついた。
「どうか、あなた様の法力で払ってはいただけませぬか。娘が
畳に額をすりつけ懇願する。少なくともこの尼僧には、物の怪の姿が正しく見えているのだ。現状、他に頼れる者はいない。
「あたしの手には余るね」
尼僧はにべもなく首を横に振った。煙管に火を入れ、うまそうに大きく吸い込んで紫煙を吐く。
千衛門は顔を上げなかった。
ここで引くわけにはいかない。血がにじむほど強く、畳に額を擦りつけた。
「どうか、どうかお願い申し上げます。娘をお助けくださいませ。せめて、お知恵だけでも授けてはいただけないでしょうか。私の身はどうなってもかまいません。命も、身代も、何もかも差し上げます。どうか、どうか、娘だけは……」
尼僧は煙管をふかしながら、目の前の土下座する男を、不思議なものでも見るような目で、しげしげと眺めた。
「……あんた、娘のことが本当に大事なんだねぇ」
こみあげてくるものに胸が詰まった。
月乃が生まれた日のことを思い出した。初めて立った日のことも、言葉を発した日のことも……。
笑っても、泣いても、可愛くてたまらなかった。熱でも出そうものなら、おのが身を焼かれるように辛かった。ただただ健やかに、幸せに生きてほしいと、一晩中でも神仏に祈ったものだ。
その未来を、諦められるわけがない。この先あの子が、得体の知れない怖しいものに苛まれて生きていくなんて、許せるはずがないではないか。
尼僧はかすかに語気を強めた。
「相手はそんじょそこらの
「鬼にも修羅にもなりましょう」
「地獄に落ちる覚悟はあるかい」
「無限地獄に落とされようともかまいませぬ。ですからどうか、娘を、娘を……」
最後は言葉にならなかった。
畳の上に、ぼとぼとと涙が落ちた。
尼僧はしばらく千衛門の姿を眺めていたが、やがてすっと目を細めた。
「……よかろう。それほどまでに思い詰めているのなら」
天から降る声を聞いたような気がした。
それが、目の前の尼僧から発せられた声だと気づいた時、千衛門はハッとして、涙に濡れた顔を上げた。
カツンと煙草盆に煙管を打ちつけて灰を落とすと、尼僧は懐から紙と矢立てを取り出した。そして、なにやら地図のようなものをさらさらと書きつけ始めたのである。
「『孫娘が十七になれば嫁にやる』……先代と
「はい」
「この取り決めをなくすことは難しいだろうね。けれど、あんたと娘が
「はあ……」
理屈の上ではそうだ。しかし、月乃は既に十四。あとたった三年で十七になるのだ。泣こうが喚こうが、何者にも時の流れを止めることなどできはしない。
尼僧は筆を置くと、書いた地図を千衛門に向けて置いた。
「
「時を、遅らせる……」
「要は、年を取らなくなるということさ。ただし、いいかい……救いというのは、本当に必要な時に、必要な分だけ与えられるもの。この水を飲ませていいのは、あんたの娘、一人だけ。他の者まで我も我もと口にすれば、たちまち水は効力を失くすよ。欲をかかず、ただ一心に信じて待ちなさい。さすれば、いつかは妖を討ち倒すものも現れるだろうさ」
「一年につき、一杯、
千衛門は尼僧の言葉を咀嚼するように、ぶつぶつと何度か繰り返した。
やがて、言葉の意味を呑み下すと、はたと何かに思い至ったように眉をひそめた。
「し、して。それは一体、いつまで続ければ……」
尼僧は口をすぼめて湯呑の茶をすすると、天気の話でもするかのようにのんびりと視線を遠くに向けて言った。
「さァてね……いつまでだろうね。十年、二十年ならまだいい方か……何しろ、『その者』はまだ、『生まれて』すらいないかもしれないのだからね。ま、気長に待つことだね」
あまりに途方もない話に、千衛門は頭を抱えた。
要するにこれは、ただの時間稼ぎではないか。現時点で妖に敵う者はいないから、その者が現れるまで妖を騙し、契約の期限を引き延ばす。しかし、『その者』はいつ現れるのか、そもそも本当に現れるのか、何のあても保証もないのである。おまけに、『若返りの水』とは一体なんだ。そんな夢のようなものが、本当に存在するというのか……
聞きたいことはいくつもあったが、尼僧は「話は済んだ」と言わんばかりに茶を飲み干すと、さっさと店を出て行ってしまった。
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