第二話

『千衛門どの。千衛門どの……』


 江戸・日本橋の薬種問屋「おぼろ堂」の主人、千衛門は何者かに話しかけられる声を聞いて目を覚ました。

 ともしびひとつで遅くまで帳簿に目を通していたせいか、眉間のあたりに重い疲労がわだかまっている。それでも奇妙なほどに意識が冴えわたり、再び眠りにつけそうにはなかった。

 目頭をつまみながら身を起こすと、闇の中に黒々とした雲のごときものが蠢いている。その雲が、先ほどから『千衛門どの。千衛門どの……』と、繰り返し呼ぶのである。


「どちらさまで……?」


 千衛門は慎重に声をかけた。夢と断じるにはあまりに鮮明で、さりとて現実と見るにはどこかおぼつかない空気がある。

 化生のものか。

 あるいは物盗りの類いか。

 いずれにせよ、恐れや不安を悟られてはならぬと、気を引き締める。

 

 暗雲は千衛門の腹の内を見通したように、くつくつと低く嗤った。  


『我は”叢雲”』

「むらくも……?」

『この家の守り神じゃ。かねてより、先代のご当主とは懇意にしておってな。このおぼろ堂がここまで大きくなったのも、我が力によるものぞ』


 千衛門は眉をひそめた。先代とは半月前に虚しくなった千衛門の父・甚左衛門のことである。傲慢かつ偏狭。その上疑り深く、自分の目で見たもの以外信じようとしないため、商家の主でありながら寺社詣にもろくすっぽ行かなかったような男だ。その父が、「守り神」などというものを信じていようとは、まさしく寝耳に水である。


『甚左衛門どのとは……ま、持ちつ持たれつと言った間柄でな。店を大きゅうするために我が手を貸し、その見返りに色々なものをくれるのよ。しかし、何十年とその調子ではの……やがて美食や美酒にも飽いてくる。そこで、此度こたびは花嫁を所望したのよ。そちの血族に年頃の可愛らしい娘がおれば、それをくれとな』


 背中にぞくりと悪寒が走った。まるで新しい玩具でもねだるようなその口ぶりも不快だったが、そればかりではない。

 甚左衛門の子はおのれ一人で、娘はいない。身近な若い娘と言えば……

 

『甚左衛門どのは言うた。わしに娘はおらぬ。だが、女の孫がひとりおるから、あれが年ごろになったら嫁にやってもよい。月乃が十七になったら迎えに来いと……』

「まさか!」


 それまでの慎重さをかなぐり捨て、千衛門は叫んだ。月乃は数えで十四になる、おのれの一人娘だ。五年前に病で他界した妻によく似た優しい娘で、「目に入れても」という言葉では足りないほどかわいがっていた。


 父・甚左衛門の、歪んだ険しい顔を思い出す。若い頃には厳しくも、まだ話の分かる人であったように思う。それが年を取るごとにひどく頑なになり、隠居する頃には手がつけられないほど偏屈で横暴な老人になっていた。

 いつだったか、理不尽に小僧を殴打した父をきつく諫めたことがある。ただ、茶を運んできただけの小僧に言いがかりをつけ、厳しく折檻したのである。


「父上!あなたは既に隠居なさった身。この家の今の主は私めにございます。使用人を罰するというなら、まずこの私をお通しください!」


 断固とした口調でそう言った時の、あの憎々しげな目は今でも覚えている。

 恐らく、父は自分を嫌っていただろう。だが、まさか、その娘をも……自身の孫娘ですら、妖物に差し出してもかまわないとすら思っていたとは……


 蠢く雲の中心に、一対の目のような光が、ぷかりと浮かび上がるように見えた。光はキュッと細い弧を描いて笑った。


『娘が十七になるまでには、まだ間があろうが、万が一、親父殿に話が行っておらねば、後々面倒なことになると思うてな。今宵はほんの挨拶に参った次第じゃ』

「お、お待ちください!何かの間違いでは……」

『よい機会ゆえ、娘御にも一度挨拶をしておこうかの。楽しみじゃ。楽しみじゃの……』


 身の毛のよだつような哄笑をあげながら、雲はゆっくりと遠ざかってゆく。

 伸ばした千衛門の手は空を切った。




――――


 絹を裂くような悲鳴を聞き、千衛門はハッと目を覚ました。

 夜が明け、部屋の中には眩しいほどの朝の光が満ちていた。


「月乃……!」


 布団を蹴飛ばし、娘のもとへ駆ける。部屋の障子は開け放たれ、女中が一人、その前で腰を抜かしていた。


「どうした!何があった!?」


 尋ねるも、震えるばかりで言葉も出ないようである。

 部屋へ駆けこもうとした千衛門は、異様な臭気に阻まれて思わず足を止めた。

 部屋の真ん中。寝具の上で、蒼白な顔をした月乃が、声も出せずに震えていた。そのやわらかな頬が、寝巻が……そして寝具や、畳、壁や天井にいたるまで、べっとりとした赤い液体で汚れていた。


 血だ―――


 くらりと遠のきそうになる意識を、気合だけでぐっと引き戻し、千衛門は娘のもとにかけよった。


「月乃!月乃……!」


 名を呼びながら、娘を抱き寄せる。

 月乃は両手で口を覆っている。ひどく動転し、震えているが、痛がってる様子はない。

 怪我はない。この血は月乃のものではない。

 しかし、近くでその姿を見た千衛門の身には、別の種類のおぞけが、ぞう……っと走った。

 月乃の頬や寝巻に着いた血は、飛沫と言うより、何か汚らわしい「もの」が這いずったかのように滲んでいた。そして、口元を覆う白く小さな右手の甲に、なにやら不気味な文字のようなものが書きつけられていたのである。


 おめでとう―――


 そう書かれているように、千衛門には読めた。

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