第一話

「お月ちゃあん、危ないわよ。降りてきなさいよォ」


 木の下で、お千夏ちかが泣きそうな声を上げている。

 月乃は、いま一つ高い枝に足をかけて登ると、額にうっすらと浮いた汗をぬぐい、ほっと溜息をついた。視線の先は、三尺ほど上方の木の又にある、椀型の巣。時折、小さなくちばしや、ぱやぱやとした羽毛が飛び出しているのが見える。あとほんの少し登れば届きそうだ。

 首から下げた巾着の中から、ピールルルッと元気な声がした。月乃は口を開けたままの巾着の中身をそっと覗き込むと、ちょっと微笑み、お千夏に声をかけた。


「あともう少しで届くわ。大丈夫。私、小っちゃな頃から木登りは得意なの」

「だからって、自分でやるなんて無茶よォ。お家の人を呼んできましょうよ」

「みんな忙しいんだもの。お仕事の手を止めちゃ悪いわ」


 というのは半分口実で、本当はその「無茶」というものを、ほんの少しでもやってみたくてやったのである。この所、朝から晩まで稽古事ばかりで、少し飽き飽きしていたのだ。


 月乃は江戸の大きな売薬商「おぼろ堂」の当主・千衛門せんえもんの一人娘。お千夏はそれよりやや家格は落ちるものの、手堅い商売をしている紙問屋の娘である。ともに十四歳で、家が近所。その上、気の合う間柄でもあったことから、子どもの頃から何をするにも一緒であった。

 今日も朝から同じ師匠のもとへ琴と踊りの稽古へ出かけ、つい先ほど帰宅して一緒におやつをつまんでいたところである。不意に、庭の赤松の枝から、ぽとりと何かが落ちるのを見た。

 近寄って見てみると、ヒヨドリの雛であった。まだ羽毛が生え変わる前であり、巣立ちではなく、過って木から落ちてしまったものらしい。

 このまま放っておいては、蛇や鴉に襲われてしまう。かといって、手元に置いて人間の匂いがつけば、親に嫌われて野生に戻れなくなってしまうかもしれない。見上げれば、巣のありかは、手が届きこそしないものの、登れないほどの高所でもない。


「さっさと登って巣に戻してあげるのが一番いいわね」


 言うなり、月乃は手持ちの巾着に雛をそっと入れると、身支度を整えて木登りを始めてしまったのである。その速やかさといったら、すぐ隣にいたお千夏が唖然として、声を出す間もないほどであった。

 

 振袖にたすき掛け。長い裾をしごき帯でたくし上げ、足元は裸足である。年頃の娘が―――それも大店の一人娘が、こんな格好で木の上にいるところを家人達に見られたら、きっと屋敷中大騒ぎになるであろう。見つかる前にさっさと降りるつもりだけれど、想像すると少し可笑しい。

 月乃は次の枝に足をかけた。乾いた樹皮が足裏に心地よく、木肌の匂いがさわやかだった。

 幼い頃にこうして隠れて木に登ったことを思い出す。踊る木漏れ日に目を細めながら、うんと手を伸ばして、右手に乗せた雛を、そっと巣の中に入れてやった。


「さ、お家よ。いっぱい飛ぶ練習して、元気に巣立ってね」


 この高さから落ちても怪我一つせずにいたのだから、きっと運が強い子なのだろう。

 小さな囁きに応えるように、軽やかなさえずりとともに親鳥が戻って来た。繁殖期の親鳥は気性が荒い。刺激しないよう、そっと木から降りようとした時、家の方から悲鳴が上がった。


「月乃お嬢様ァ!ああもう、一体なんてことを……誰か!誰か来てくださりませ!お嬢様がァ……」


 今しがた奥から出てきたらしい女中頭のお鶴が、すっかり狼狽した様子でこちらを見ている。奉公に上がって五十年にはなる、腰の曲がった小さな婆様である。お鶴がよたよたと覚束ない足取りで駆けて行こうとするのを見て、月乃は慌てて声を張り上げた。


「婆や、だめよ!この前、腰を痛めたばかりなのに、走るとまた悪くするわ!」


 急いで木から降りようとした時、ずるりと足が滑った。

 あっと思う間もなく、背中から落ちていく。落ちる先には、鯉が泳ぐ池があった。

 お千夏の金切り声が響き渡った。


 どっ……と何かに受け止められたような気がした。

 次いで、ぐるりと視界が旋回し、ばしゃん!と水の中に落ちる。

 水しぶきが散り、優雅に泳いでいた鯉たちがパッと散った。

 襷でまとめた振袖が見る見るうちに水を吸って重くなったが、思ったほどの衝撃や痛みはない。

 肩と膝裏に、誰かの手のひらを感じた。

 頬に触れた着物から、微かに生薬の匂いがした。


「いてててて……」


 声変わり途中のかすれたうめき声を間近に聞いて、月乃はハッとして目を開けた。

 おぼろ堂のお仕着せを着た少年が、月乃を抱える形で、池の中に尻もちをついている。落ちる前に間一髪受け止めたものの、支えきれずに倒れ込んだものらしい。

 月乃は慌てて立ち上がり、少年に手を差し伸べた。


「大変!大丈夫?ごめんなさいね、私ったら……」


 少年が目を開いた。

 凛々しい眉に、利発そうな黒い瞳。左の目じりに、双子星のように二つ並んだ黒子ほくろがある。年頃は月乃と同じくらいだろうか。元服前の、前髪を残した奴頭やっこあたまだ。

 水滴の散ったその顔を見つめている内に、月乃はふと、以前にもこうして、この少年と見つめ合ったことがあるような気がした。


 少年はしばらくぼうっと月乃の顔に見入っていたが、不意にハッと我に返り、自分の足でざばりと立ち上がった。


「いえ……お嬢さんが無事なら、それで」 


 彼が立ち上がると、月乃の顔に影が落ちた。少年の方が、頭一つ分ほど背が高いためである。少し見上げた所にとがった喉ぼとけが見えて、月乃はなんだかどきりとした。


「お月ちゃん!」

「月乃お嬢様ァ!」   


 お千夏にお鶴、そして数人の女中たちが、大判の手拭いを何枚も手にして駆け寄って来た。

 少年は居住まいを正すと、直角に腰を曲げて月乃に一礼した。そして、ざぶざぶと水を踏んで池から上がると、奉公人用の長屋の方に小走りに行ってしまった。


「まあまあ、一体、なんて無茶をなさるんですか。お鶴はもう、心の臓が止まるかと思いましたよ」


 遠ざかっていくお仕着せの背中を見つめていた月乃を、お鶴は池の外に引っ張り上げ、手拭いを被せて水滴を拭き取り始めた。忙しく手を動かす一方で、一つの傷も見落とすまいとするかのように、注意深く月乃の体を検分している。


「痛い所はござりませぬか?腰や頭を打ってなどいないでしょうね?」

「ないわ」

「いいえ。念のため、お医者を呼んで見てもらいましょう。打ち身が無くとも、風邪でも召したら大変……」

「本当に平気だったら。私より、婆やの腰の方がよっぽど心配だわ。また動けなくなったりしたら大変……」

 

 お鶴の言葉をそっくり返すような言いように、周りの女中たちからくすくすと笑いが起こる。しょっちゅうこのようなやり取りをしているのである。

 はァ……とお鶴は気の抜けたようなため息をついた。皺んだ両手で月乃の頬を包み、幼子にするようにやさしく撫でさする。


ばばは不思議でなりませぬ。お顔はほれ、この通り……亡くなられた奥様そっくりの淑やかな大和撫子でいらっしゃるのに。中身はとんだお転婆でいらっしゃるんですからね。その内、木の上じゃあ飽き足らず、お月様の上にでもポーンと跳ねていってしまわれるんじゃないかと、気が気じゃありませんよ」

「うふふふふ……っ」

「何がうふふですか。全く心配ばかりかけて、もう!」

「ごめんなさい」


 そう言いながらも、全く悪びれずにくすくすと笑う。たしなめられるのも、子ども扱いされるのも、なんだか全部くすぐったい。初めは憤慨していたお鶴も毒気を抜かれたように苦笑して、月乃の頬をわしわしと撫でた。


 その時、おおーい……と、遠くから父の声がした。騒ぎを聞きつけたらしく、こちらへやって来るようだ。

 月乃もお鶴も他の女中たちも、ハッとして顔を見合わせた。 

 こんなずぶ濡れの姿を見せれば、少々親馬鹿の気がある父はたいそう取り乱す事だろう。女中たちも―――彼女らが悪いわけでは決してないが、多少のお小言を頂戴するかもしれない。


「私、着替えてくるわね」


 月乃は着物のつまを取ると、手伝おうとする女中たちをやんわりかわして、そそくさと自室へ向かった。

 お千夏だけが、いそいそと後からついて来た。内緒話をするように月乃の耳元に口を寄せる。


「ね。ね。さっきの人……おぼろ堂の小僧さん?」

「ええ」

「ちょっと暗いけど、なかなか鯔背いなせじゃない?役者みたいな面立ちだったわねぇ……」


 歌舞伎通のお千夏は贔屓の役者の名前をいくつか挙げ、どこそこ屋の誰それに似ていると興奮気味に言った。


「すごかったのよ。たまたま通りがかったみたいだけど、お月ちゃんが危ないって気づいた途端、兎みたいにパッと駆けて来て……ね、名前、聞いておけばよかったわね」


 月乃は曖昧に微笑むだけで、何も答えなかった。



 自室に入って障子戸を閉めると、途端にひんやりとした静寂に包まれた。

 濡れて重くなった帯を解き、振袖を脱ぐと、不意に記憶に引っかかるものを覚えて、月乃は部屋の隅に目をやった。

 しっとりと濡れた襦袢姿のまま、小箪笥に近づく。引き出しを開け、中から小さな薬壺を取り出して、手のひらで包んだ。


「……庄九郎さん」


 ぽつりとつぶやき、薬壺をそっと胸に寄せる。軟膏の匂いがつんと鼻を刺した。


「あなたの名前は、庄九郎さんというのよね」


 忘れていたわけではないのに、気づくのが遅れたのは何故だろう。

 最近、稽古事が忙しくなって、店を覗くことが少なくなったからだろうか。そうは言っても、同じ敷地に寝起きして、正月には顔も合わせたはずなのに。

 ほんの少し目を上げた先にある喉ぼとけ……そう、背が伸びたのだ。幼い頃はそう変わらなかったはずなのに、いつの間にあんなに伸びたのだろう。顔の肉も落ちて、随分大人っぽくなったようだ。なんだか、知らない人のようだった。


「男の人って、みんなそうなのかしら……」


 肩のあたりに、ほのかに熱がこもっているような気がする。そっと手で触れてみて―――それが、庄九郎の手のひらが触れた場所なのだと気づいた時、月乃は覚えず頬を染めていた。


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