第二章 まがつ神 ー月乃編ー
序章
まだ先代の大旦那様がご健在の頃のことです。
あの方は大変気性の荒い御仁でしたから、私たち末端の小僧たちは、いつご機嫌をそこねるかと、いつも恐々としておりました。
その日も、私がお茶を差し上げた時、湯呑の中に羽虫が浮いていたと激昂され、ひどく殴打されました。無論、湯呑には蓋をしておりましたし、お部屋に入る前に幾度も確かめましたから、羽虫など入っているはずがありません。きっと、大旦那様が口にお運びになるわずかの間に紛れ込んだものだったのでしょう。
何か別に御腹立ちになることもあったのでございましょう。折檻はなかなか止みませんでした。幾度も打ち据えられ、腹を蹴られ、ののしられました。たまたま通りがかった若旦那―――ご子息の千衛門様が、間に入って助けてくださらなければ、私はそのまま打ち殺されていたかもしれません。
「もういいから、お前は下がりなさい」
若旦那は私を背に庇い、部屋から逃がしてくださいました。ぴしゃりと閉められた障子戸の向こうから、お二人が激しく言い争う声が聞こえて参りました。
あちこち腫れあがった顔をおさえながら、とぼとぼと廊下を歩きました。右瞼の上にこぶができているのか、前がよく見えません。泣くまいと思うのに、だらだらとだらしなく涙が流れて止まらないのです。
早く仕事に戻らねば、年かさの小僧や手代たちになじられる。お仕着せの袖で涙をぬぐいながら歩いていた時、ふと、澄んだ琴の音が耳を打ちました。
てん て てん
てん て てん
同じ音を、一定の拍子で。
まるで誰かに名前を呼ばれたような気がして、私はあたりを見回しました。
てん て てん
てん て てん
音の先をたどると、突き当りの部屋の障子がほんの少し開いていて、そこからぱっちりとした黒目がちの瞳がこちらを見つめておりました。
私と目が合うと、一瞬ハッとしたように目が見開かれ、さっと戸の影に隠れてしまいました。代わりに、白く小さな手がのぞき、ちょいちょいと手招きするのです。
引き寄せられるように障子の前へ来て、しばらく逡巡していましたが、
「入って。誰かに見られたら私も叱られちゃう」
鈴を転がすような可憐な声で呼びかけられ、腹をくくりました。部屋の中に滑り込むと、部屋の主はそっと戸を閉め、にこりと微笑んで見せました。
年頃ばかりは自分と同じほどの少女―――しかし、上等な西陣の振袖に、花の簪、あかぎれ一つない白く柔らかな手を見れば、住む世界が違うお人であることは嫌と言うほどわかります。
竹から生まれてきたのがかぐや姫なら、この方はきっと、花の中から生まれてきたのでしょう。草花が水と日光を浴びて育つように、優しさと愛情だけをいっぱいに浴びて育てられたような……それはそれは、可憐な少女。それが、月乃お嬢さんでございました。
「ごめんなさいね。おじじさまがひどいことをして……」
お嬢さんは、すまなそうにそう言いながら、汲みたての水で手拭いを濡らし、硬く絞って私の目元に当ててくださいました。ひやりとした手拭いが、腫れた瞼の熱を取り去り、心持ち痛みが和らいだ気がいたしました。
「これね、お父様の作ったお薬。とってもよく効くのよ。ちょっぴり沁みるけど我慢してね」
お嬢さんは
「い、いけません!」
「あら、どうして?」
「若旦那が手ずからお作りになったお薬なんて、もったいない。小僧の身でそんなものを恵んでいただいては叱られます」
しかしお嬢さんはきょとんとした顔で首を傾げるのです。
「あら、あなたこの店の小僧さんでしょう?」
「へえ」
「たしか、庄九郎さんというのよね?」
「へえ……え? へ、へえ!」
まさか名を覚えていただいていたとは思わず、驚きのあまり、大声で返答をしてしまいました。お嬢さんは人差し指を唇にあてて「静かに」と示します。
「お
だから、あなたもこの薬を試してみるべきよ。ちゃんと早く怪我が治ったら、それだけたくさんのお客様におすすめしようって思えるでしょう?」
今にして考えても、十歳ばかりの娘御の言葉とは到底思えませぬが、お嬢さんはきっと、私の気の咎めを軽くしようとしてくれたのだと思います。
やわらかい指が顔の傷に触れる間、緊張で声を発することもできませんでした。唇をかみしめてぶるぶると震えていたら、「そこまで沁みないわよ」と笑われました。
お嬢さんの部屋にはたくさんのご本がありました。子供の読むような絵草子ではありません。「一本堂薬選」や「薬籠本草」といった、医者が読むような薬書が何冊も棚に並べてあるのです。
私が唖然としてそれらを眺めておりますと、お嬢さんははにかむように笑いました。
「ほんとはね、わたしもお薬の本を読んだりする方が好きなの。でも、おじじ様がだめって言うのね。女が勉学を積んでもろくなことは無いからって。そんなことより、もっとお琴のお稽古を頑張りなさいって。お
そう言うと、お嬢さんは少し寂しげな顔になって俯きました。そして、改めて私に目を戻すと、どこか眩しそうに目を細めてこう言ったのです。
「あなたはいいわね。これから、たくさんお勉強できるのね。色んな所へ行って、いろんな人にお薬を届けるなんて、素敵じゃない」
部屋を出る時、お嬢さんは「ないしょよ」と言って、懐紙の包みをくださいました。こっそり開くと、星屑のような金平糖が5つばかり。口に入れて大事に舐めると、食べつけていない強い甘味に、ほっぺたの内側がビリリと痺れました。ぶたれた時とは違う痛みに、また一筋こぼれそうになる涙を、歯を食いしばってこらえました。
お嬢さんのやさしさが、その笑顔が……私には甘すぎて、胸が痛かったのです。
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