第二十話

 一八六三年、転機があった。

 当時、秋田のマタギ達は、狩りによって得られる毛皮を藩に上納することを引き換えに、鉄砲を所持することを許されていたが、時の秋田藩主・佐竹義堯さたけよしたかは彼らを士分格に取り立て、「新組鉄砲方」と称した特別部隊を組織することとした。

 ちょうど十年前の黒船来航以来、太平の眠りは覚まされ、国内が大いに揺れていた頃である。訪れる戦乱の気配に軍備増強を図らんと、藩は鉄砲の上手で知られるマタギの力を求めたのだった。

 志々間を含む阿仁や、仙北のマタギの多くが、久保田のお城へと招集された。

 鉄五郎もまた藩士並の身分に迎えられ、二本差しの許しとともに「羽白はじろ」の姓を賜った。



 翌年、霜月のある夜。鉄五郎は銀作を囲炉裏端に呼んだ。


「銀作。お前、一人で羽州より外さ出だごどあったが」


 銀作は首を横に振った。狩猟隊レッチュウの一員として遠征することはこれまでにも何度かあったが、一人でではない。

 祖父はうなずいた。


「今、もとのあぢごぢでいくさ起ごってらのは知っているなおべでらな。今に、日ノ本全部まぎごんだ、大きなでがぇ戦火になるがもしれね。銀作、お前、今の内に旅マタギさ出で、おのれのまなぐで世間見でごい」


 数馬の一件により、鉄五郎組は働き盛りのマタギを既に三人も失っている。今、銀作を外に送り出すことは、次の春熊狩りの時期を迎えるにあたって、大きな痛手になるにちがいなかった。

 それでも鉄五郎は、太平の世が揺らぎ始めた今、やがて起こるやもしれぬ未曽有の戦火を迎える前に、閉じた世界と掟の戒めの中で育ってきた孫に、どうしても外の世界を見せるべきだと感じたのであろう。

 銀作は頷き、速やかに旅支度を始めた。

 


 発つ前にと山神様の社に参拝し、先祖の墓の掃除を済ませ、村長や近所の家を回って挨拶などしていたら、瞬く間に数日が過ぎ去っていた。出立前の最後の一日は、鉄砲をたずさえて、丁寧に狩座の見回りをして過ごした。 

 夕闇の迫る中、足早に家路をたどっていた時、銀作はふと視線を感じて、林の中に目を向けた。


 闇の中に、ミナグロがいた。

 そこにいると確かにわかったのは、その体が夜の闇よりなお黒いからであった。

 切り絵のようにくっきりと浮き上がって見えるその姿を、銀作はしばし、黙って見つめた。

 ミナグロもまた、微動だにせず、銀作を見つめた。

 それは、かつて数馬であったものかもしれないし、そうではないかもしれなかった。いずれにせよ、それが何かを訴えかけていることを、銀作はなんとなく感じ取っていた。


 やがて、ミナグロは銀作に背を向けた。山奥へ向かって数歩足を動かした後、振り返り、銀作を見つめている。

 ついてこいと言うのか……銀作はその後に従った。

  

 しばらく歩くと、山の奥にも関わらず、ちらちらと踊る青い光の群が見えてきた。  

 銀作にはそれが人家の灯りではなく、怪し火の群れであることが一目でわかった。

 山の中で怪し火を見ても、決して追ってはならぬ。怪し火を追えば、帰って来られなくなる―――幼い頃から言われてきたことであった。少し前の銀作ならば、躊躇なく踵を返していたことだろう。


 しかし、この時はなぜか光を追ってみようという気になった。

 数馬が……いや、数馬かどうかはわからぬが、山神様の遣いと言われるミナグロが、銀作に何を伝えようとしているのか、どうしても知らなければならないという気がした。

 川の水が、高きより低きへと流れゆくように、銀作の足は光の方へ向かっていた。

 しばらく歩いてゆくと林が切れ、開けた場所へ出た。



 闇の中、一面に不知火の炎が浮かんでいた。

 緩やかな勾配のあるその場所には、背の高い木々がほとんど無く、まるで大きな匙で山の一部をえぐりとったような形をしている。

 足もとに転がる苔むした石が、自然のものにしては随分と丸く、よく見れば目鼻の刻まれた地蔵の頭の形をしていることに気づいて、銀作は口元を引き締めた。


 恐らく、ここにはかつて一つの集落があったのだろう。 

 そして、何らかの災害により滅びてしまった。

 山肌に寄り添うように暮らすここいらの村民は、昔から大なり小なり雪崩なだれ山津波やまつなみの被害にあっている。歴史の中には、一晩で村ひとつが消えてしまった例さえある。

 この魂たちは、あまりにも一瞬で体から引きはがされた現実を、受け止められずにいるのかもしれない。


 おもむろに、一つの人魂が群れを離れ、ふよふよと銀作のもとへやって来た。

 銀作の顔を覗き込むよう近づき、小首をかしげるように揺らぐ。


『静かだの』


 人魂がそう言った気がした。


『なんと静かな童子わらしじゃあ……

 冷たい泉の水底で、

 青い炎が燃えているような……

 あまりに冷たく、そして熱く、

 わしらには触れることもままならぬ……』


「お前達は、ずっと、こごさいるのが」


 銀作は人魂にそう問いかけた。

 人魂は力なく明滅し、さみしそうにおぼろの炎を揺らめかせた。

 

『我らはかつて、ここに集落を持ち、暮らしていた者の魂じゃ。

 にわかに訪れた災いに呑み込まれ、一息の内にすべてを失ってしまった。

 この世へ生まれ落ちながら、わけのわからぬ内に命をすりつぶされ、

 何を成すこともできなんだことが悔しゅうてならぬ。

 生への妄執が心の目を曇らせ、あの世への道筋を見つけられない。  

 かといって現世を彷徨さまようのも苦しいばかり。

 せめて何か、世のため人のためになることさえできれば、

 生まれてきたかいもあるというものだが、

 生者を羨み恨めしく思う心にとらわれた我らに、

 今更どのような善行ができようか……

 ああ、悲しやの。悔しやの……』


 人魂はそのように語り、むせび泣くように炎を揺らした。周りの人魂たちも、呼応するように震えだす。


 銀作は彼らをじっと見回した。

 あの世への「道」―――それは、人が死して後にあの世へわたり、この世へ戻ってくるための、『輪廻めぐり』のの一部であろうと思った。彼らは『めぐり』から外れてしまった存在なのだ。

 

 幼かったあの日、母の背中を追った時のことを思い出す。

 あの日、雪の中へ消えていった母の魂は、目には見えない『めぐり』の世界に還って行ったのだろうか。

 待ってくれと叫んだ。置いて行かないでと願った。

 しかし、考えてみれば銀作もまた、『めぐり』の中にいるのだ。

 生きていれば腹が減る。物を食う。

 命を食らい、命をつなぐ。

 そしていつか、別の命と交わり、新たな命を産み、育む。

 体が滅びれば魂は見えない世界に還り、そしてまた新たな命に生まれ変わる。

 変わってゆく。流れてゆく。

 生きているものも死んでいるものも、みんな同じ大きな環の中にいる。

 

 しかし時折、その『めぐり』の環から、はじき出されてしまう者がいる。

 何がしかの強い思いに縛られて、その場から動くことができなくなってしまう者たちが。

 おのれにすがって、「置いていくな」と願った、数馬の魂。

 拳で胸を叩き、「ずっとずっと苦しい」と泣いていた、さみしい魂。

 この者たちもそうだ。ずっとそのさみしさの中から抜け出せずにいるのだ。


 目を逸らすことはできなかった。

 それは、きっと銀作自身も、さみしさの味を知っているからだろう。

 

「……おらは、マタギだ」


 我知らず、そう呟いていた。


「山の『めぐり』を守るのも、おら達マタギの仕事だ」


 人魂たちは、不思議そうに銀作を見つめている。

 銀作は腰の胴乱を開け、銀色に光る真円の鉛弾なまりだまを、両手いっぱいに取り出した。


「マタギは山神様の狩座かりくらをめぐり、命をいただき、命をつなぐ者。

 仏の教えは殺生を罪と呼ぶが、身内を飢えさせ殺すのもまた、功とはいえね。

 だば、マタギの仕事は功と罪の境にあるもの。

 その弾はひと時に命を奪い、一方で命を守りもする。

 おらはこれから里を離れて西に行ぐ。

 お前達、行ぐどごなら、おらと一緒に来るが。

 恨みもつらみも燃やし尽くせば、曇りも晴れて、見える道もあるがもしんね」


『……お前は』


 最初に銀作に話しかけた人魂が、静かに問いかけてきた。


『お前は我らが恐ろしゅうはないのか。この世を恨み、仇なさんとする、悪しき魍魎もうりょうであるやもしれぬのに――――』


 銀作は動じなかった。

 宙に浮かぶ魂の一つ一つを見つめ返し、きっぱりとこう言った。


「曇りのねぇまん丸の魂さ込めた弾は、撃つべきものに向かって真っすぐ飛ぶ。

 歪んだ魂さ込めた弾は、当でてはならねものに当だる。

 お前達が歪んだ魂に変じれば、おらにはすぐにわがる。

 勝手はさせね。おっがなぐなどね」


 魂たちは戸惑った様子で互いを見交わしていたが、やがて頷くように大きく揺れた。そして銀作の手元に集うと、一つひとつの弾丸に吸い込まれるようにして宿っていった。


 ―――これでえんだな、数馬。


 銀作は離れたところに佇むミナグロに、そっと視線を向けた。

 ミナグロは、のっぺらぼうの黒い顔を、じっと銀作に向けていた。

 そして、最後の人魂が鉛の弾に吸い込まれるのを見届けると、ゆっくりと銀作に背中を向け、静かに山の奥へと帰って行った。






― 「さみしい魂」 終 ―

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