第十九話

「……んだすか。あん人、そんたごどまでしましたか……」


 事の顛末を伝えた時、数馬の母・ミネが最初に発した一言がそれであった。

 化粧気のない顔はひどく憔悴していたものの、息子と夫を立て続けに失った女にしては、不思議なほど落ち着いていた。


「あん人が、ずっと前がら胸ん中に色々ため込んでだのはわがってました。気位が高くて……だども、なまじ我慢がきく人だっただけに、吐き出すごどもでぎねがったんでしょ」


 玄馬は昔から、シカリの子である金五郎に張り合う気持ちが強かったようだ。

 頭が良く、鉄砲の腕もよく、手先が器用で何をさせてもよくできた。

 向上心が強く、努力も怠らなかった。

 それだけに、人柄と親の七光りで周囲から慕われているように見える金五郎には我慢がならなかった。有能でありながら、どこかいつも金五郎の影に隠れ、ゆくゆくはシカリとなるであろう親友の下につかねばならない……そんなおのれの未来ゆくさきに、絶望したこともあったかもしれない。


 行商先で目をかけられたことは、玄馬にとっては僥倖であったろう。町の裕福な商家に住み込み、数年にわたり教育を施され、その家の養子に迎えられるという話もあったらしい。

 しかし、玄馬の父はこれを許さなかった。

「マタギの子が志々間を捨でるっでが!」と怒鳴りつけられ、玄馬は再びこの里へ戻って来ざるを得なかった。


 淡い夢を絶たれた玄馬は、逆に不満を押し隠し、ことさらに公に尽くす姿を見せつけることで、自らの存在を周囲に認めさせようとしていたようだ。想う女が他にいる様子もあったのに、よりによって行き遅れの自分を嫁に求めたことも、玄馬にとっては奉仕の一環に過ぎなかったのではなかろうか……卑屈でもなく、ミネは考えている。


 息子である数馬を愛していなかったわけではないと思う。だが才ある者の常で、玄馬はおのれがただ一歩で進む距離が、数馬にとっては十歩にも百歩にもなりうるという事を、本心から理解できないようだった。息子の日々の小さな成長を嬉々として伝えるたび、曖昧な笑みを浮かべる夫の冷めた瞳と対峙して、ミネはいたたまれない思いがした。


 おのれには才がある。

 しかし、運には恵まれなかった。

 息子の数馬に才が受け継がれなかったのも、そのせいだ。


 玄馬の中に膨らむ不満は、やがて先祖代々信奉してきた山の神への不信へと変わり、金五郎父子への嫉妬と苛立ちを募らせていった。


 妻子に対し、直接的な暴力や暴言をぶつけることはなかったが、酔って箍が緩むと際限なく物に当たった。無言で壁に徳利を投げつけ、柱を殴り、蹴り、荒々しく戸外に飛び出し、翌日まで戻らないことが何度もあった。

 怯えてべそをかく幼い数馬を抱きしめながら、ミネは、夫の行く先がおそらく鉱山町の女郎屋であること……そして、妻であるはずの自分には、鬱憤のはけ口にするほどの価値も置かれていないという事実に、どういう感情を持つべきなのかもわからず、ただただ虚しく、涙を流していた。


 数馬は、父親の機嫌が悪いのは、おのれが不甲斐ないせいだと考えていたようだ。

 マタギになれば、父はきっと認めてくれる。

 マタギになれば、これ以上母を泣かせずに済む。

 マタギになれば、日輪に想いを伝えられる。

 マタギになれば、胸を張って、銀作の隣にいられる……

 数馬にとって、マタギになるということは、全ての悩みや苦しみから解き放たれる、唯一の光明であったにちがいない。


「数馬を亡くしてから、あの人は一層様子が変になりました。おっがなぇ顔でぶつぶつ独りごど言っだり、山に行ったまま何日も帰らねごどもありました。いつか、何か恐ろしいことをしでかすんではねぇかとは、ずっと思っとりました……」


 鉄五郎は、玄馬の凶行を止められなかったことはシカリである自分にも責任があるゆえ、今後ミネが生活に困らぬよう助力は惜しまぬことを約束した。ミネは疲れた声で詫びと礼の言葉を述べ、初めて顔をくしゃくしゃに歪ませて涙をこぼした。



 仁太は玄馬に弱みを握られていたらしい。

 数年前に行商で町へ出かけた折、商売女に骨抜きにされてしまい、以来こっそり通っては有り金をつぎ込んでいた。

 揚げ代を稼ぐために賭場にも通ったが大負けし、借金で首が回らなくなっていた所を玄馬に救われたが、それ以来、彼に頭が上がらなくなっていたという。


「黙って手伝えば、借金帳消しにしてけるって、玄馬さんが……それだげでね。ナラクオトシで獲った熊の皮や胆を売れば、女を身請けする金もすぐにでぎるがらって……だから、玄馬さんと一緒によっぴで罠さ仕掛げで、銀作の手拭いさ置きました。佐平は、見回りすっぺと言いやァ、いづでもつき合ってくれたし……」


 銀作に対し悪いと思う気持ちも無いではなかったが、自分よりずっと年下でありながら鉄砲の腕前が認められているのを面白くないと思っていたのも事実だった。

 そこまで語った仁太は唇を震わせ、「ごめんなさい」と子どものようにこうべを垂れた。膝の上で握った拳に、ほたほたと悔悟の雫がしたたり落ちた。


「玄馬さんが捕まった時、もうやめようって思ったんです。だども、すれ違う時、玄馬さんがおっかなぇ目で俺のこと睨んでて……裏切ったら殺されるって思って。そんで頭ん中真っ白になっちまって、あんた馬鹿なごど……っ」


 仁太は狩猟隊レッチュウから破門され、ほどなくして家族ともども村を出て行った。

 一度仲間を裏切り、怪我まで負わせてしまった身では、再びどこかの狩猟隊に加わることなど望むべくもなかった。


 栄助はその後、無事に回復した。刺された傷は深かったが、当人の強靭な体力と、家族の献身的な看病が奏功したのである。

 仁太と親しく、玄馬を慕っていた佐平は、此度のことにひどく落胆したようだったが、騒動が落ち着いた後に銀作を訪ね、「疑って悪かった」と詫びを入れることは忘れなかった。



 銀作は、その後も毎月、数馬の墓の前で日輪と顔を合わせた。


「生ぎ物を殺せね、あの人の優しいどごが好きだったの」


 墓前に手を合わせた後、そこに刻まれた名前を見つめながら、日輪はぽつりと呟くようにそう言った。


「どんた形でも良いがら、生ぎでら内に好ぎって言ってほしかった。……ううん、私が先に素直になってだら……どんた数馬ちゃんでも良いんだって、伝えられでだら……何かが変わってたのかしら」


 銀作は何も言えずに空を仰いだ。

 今日も志々間の里は初冬の曇天に覆われている。本格的な寒気が訪れたら、今年も里は、すっぽりと深い雪に覆われてしまうだろう。


 生まれ落ちたこの場所で生きていくということ。

 先祖代々の家業を継ぐということ。

 そのための努力を惜しまずにいられるということ……

 それらに何の疑問も抱かずに今まで生きてこられた銀作は、自分で思っていた以上に恵まれていたのだと思う。

 マタギ以外の生き方を許されていたのなら、数馬はあんなにも苦しむことは無かっただろう。玄馬とて、おのが才をもっと認められる世界にいられれば、あんなにも憎しみに囚われることは無かったはずだ。

 身動きがとれない世の中は息苦しく、ぶつかり合っては互いの毒にあたることもある。生きよと定められこの世に産み落とされても、ありのままで生きることはかくも難しい。

 

 ―――それでも、生ぎでゆがねばなんね。


 だとしたら一体、自分はいかなる風に生くるべきなのだろうか……

 山に問いかけても、返ってくるのは木霊ばかりだ。

 ならば、その答えは、おのれ自身で見つけ出すしかないのであろう。

 銀作はそっとまぶたを下ろし、今一度、数馬の墓前に手を合わせた。

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