第十五話



 ぼろり。


 足元が崩れた気がした。

 伸ばした手は空をかいた。


 はるか遠くに、逃げてゆく獣の尻が見える。

 羚羊ケラの尻だ。追いかける途中で、雪庇マブを踏み抜いたのだ。獲物を仕留めたい一心で、警戒を怠っていた。


 山の尾根から大きくせり出した雪のひさしは、数馬の体を支えることなく、ほろほろとあっけなく崩れて谷底へ消えた。

 数馬の体もまた、あっけなく落下した。

 落ちる途中で気を失ったのか、その瞬間の衝撃は覚えていない。

 覚えているのは、声だ。必死で自分の名を呼ぶ、銀作の……そして、父の声だ。

 あんなに取り乱した二人の声を聞いたのは、いつぶりだったろうか。


「…………は」


 すとん、とその場に膝をつく。

 降り初めし新雪の上に、跡はつかない。

 痛みはなかった。だから、死んだことにも気がつかなかったのだろうか

 バラバラになった体から千切れて飛んだ数馬の魂は、何を成すこともなく、何に触れることもなく、ただただ故郷の山の中を彷徨っていたのだ。銀作以外の誰にも気づかれることのないまま……


「俺、死んだんか」


 もうわかりきっているはずなのに、それでも言葉はほろほろとこぼれてくる。


「死んだんか。マタギになれねぇまま、死んだんか」


 日輪の顔が目に浮かんだ。小鳥のさえずりのように軽やかな声と、愛らしい丸い目を思い出した。にこやかに銀作に声をかけ、ひとつの墓石の前に足を進める。丁寧に清められた墓石を見て、『考えることは同じね』と銀作に微笑みかける。


 日輪の両親は健在だ。

 祖父母もまだピンピンしている。

 それなのに、日輪はこの一年、毎月この墓石に花を添え、手を合わせている。

 銀作が清めた墓石の前にしゃがみ、銀作が供えた包みの横に、自分の持ってきた供えものを並べて、手を合わせる。

 唇を震わせ、押し殺してなお漏れいづる嗚咽とともに、何度でもその名を呼ぶ。

 数馬ちゃん、今日も来たわよ―――と。


「マタギになったら、言うつもりだったんだ。好きだって。夫婦になろうって、言うつもりだったんだ。ずっと。ずっと、ずっと、ずっとぉ……」


 顔を覆って、吠えるように嗚咽を漏らした。

 涙は出ているのか、それすらもよくわからない。

 なのに、この痛みは、苦しみは一体どうしたことだろう。

 体が無いというのなら、一体どこが痛んでいるのだろう。

 死んだらすべての苦しみから解放されると思っていた。

 安らかな眠りのような世界にいけると思っていた。

 ちがった。

 死は、決して終わりではなかった。

 少なくとも、数馬にとってはそうであった。


 銀作が目の前に膝をつく。

 数馬をまっすぐに見つめ、透きとおったその肩に両手を伸ばしてくる。


「……お前は、優しいやづだがら。ナラクオトシがここにあるぞって、おら達に教えでけでだんだよな。山の獣たちが、むごい死に方をしねぇように。……自分でも、わがってねがったのかもしんねが」


 触れられたのか、そうでないのか、数馬にはよくわからない。

 それでも、銀作は数馬の魂を抱きしめるように腕を回し、力をこめた。


「お前は、なんも悪ぐね。なんも苦しまねでえ。手柄なんがねぐったって、お前の心はもう、誰より立派なマタギでねが。

 これ以上、現世のしがらみにとらわれて、苦しむのは止めでけれ。……見てらんねぇよ」


「でぎねぇよぉ……っ」


 情けないほどに声が震えた。

 幼い子どものように泣きじゃくりながら、数馬は、もうないはずの胸を、こぶしでドン、ドンと叩く。


「死んだからって、なして諦められるんだ。死んだって、ずっと、ずっと、ここが痛ぇんだよ。寂しいんだよぉ。俺だって、マタギになりだがっだ。慰めなんかでなくて、ちゃんと手柄立でて、みんなに認められて、みんなと同じ所に行ぎだがっだ。お前と同じ所に行ぎだがっだ。置いて行がねでくれよ、銀作ぅ……!」


 着実に、一歩一歩を踏みしめて歩む幼馴染。

 自分よりほんの少し先を行くその背中を、数馬はいつも一心に追いかけていた。

 銀作はいつも根気よく待っていてくれたから、焦りはしても、希望は捨てないでいられた。いつかはきっと追いついて、肩を並べられると思っていた。

 けれどもう、二人の差が縮まることは決してない。

 数馬の時は、止まってしまった。

 歩むことはできなくなってしまった。


 黙ってしまった銀作の腕の中で、数馬は泣きじゃくり続けた。

 胸に穿たれた真っ黒い穴から、こんこんと悲しみが湧き出てくる。

 もう動けない。どこにも行けない。

 このまま根雪のように凍りついて、おのれの魂ごと、銀作をこの場に縛りつけてしまえばいいのだろうか。……そうすれば、少なくとも、遠ざかっていく銀作の背中を、これ以上見ないで済む。


 透きとおった己の腕が、俄かにバリバリと凍りついたような気がした。ぐっと腕に力をこめると、銀作の中心に、脈動する青い炎が見えた。

 ああ……これが命の炎だ。この火が凍えて尽きてしまうまで、ただ抱きしめていればいい。

 それは、ひどく甘美な誘惑だった。日輪に向けて抱いた想いと、よく似た形をしている。生き物の根源に近いところにある欲求に思えた。

 更に力を込めると、心の臓に冷気が届き、銀作の体がびくりと震えた。

 しかし、数馬を振り払おうとはしない。数馬の肩口に顔を埋めてじっとしている。

 胸に異様な歓喜が流れ込んできた。

 銀作、受け入れてくれるのか。

 このまま、ずっと一緒にいよう。

 お前と一緒にいられれば、この先ずっと冷たい山の中にいても、きっとさみしくはない――――

 

 しかし、そんな数馬の夢想は、近づいてくる誰かの足音によって、ぶつりと断ち切られた。

 刃物よりも鋭く残酷な現実が、ばりばりと枯れ枝を踏みしめながら、二人に向かって近づいてくる。


 その男を目にした時、数馬の腕から力が抜けた。魂が動揺し、震えてパリパリと氷を砕いた。

 銀作は顔を上げた。数馬の顔をじっと覗き込み、その心が変わったことを察すると、たやすく数馬の腕をほどいて立ち上がった。

 振り返り、自身を陥れようとした男と対峙する。

 黒い両目の奥に、青い光が悲しく揺れていた。


「……やっぱり、あんたが、ナラクオトシを仕掛げでたんだな」


 石のように冷たい無表情で銀作を睨むその男を、数馬は初めて見るような気持ちで見つめた。

 信じられなかった。……信じたくなかった。


「そうでなぎゃえって、思ってたんだがな……玄馬さん」

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