第十三話

「……こんにちは。誰かいらっしゃるすか」


 火縄銃の手入れをしていた銀作は、ほとほとと戸を叩く音に顔を上げた。腰をあげ、板戸越しに声をかける。


「日輪さんか?」

「あ、銀作さん?あのね、漬物がっこ沢山じっぱりできたがら、おすそ分けさ来だの。それから、戸口に手紙みたいのが……」

「横さ回っでけれ。今、じっちゃも父っちゃもいねぇがら」


 年頃の男女が二人きりでいては、たとえ戸口に立ってやり取りするだけでも、妙な噂を立てられかねない。とりわけ、銀作に不信の目が向いている今は、日輪の名誉のためにも戸を開けずにおくべきだと思った。

 日輪は素直に家の横手に回ったが、格子窓からのぞく銀作の顔を見た瞬間、はっと息を呑み込んだ。


「どうしたの、そのほっぺ……」

「どうもしねよ。さっと転んだだげだ」


 とてもそれだけには見えないほど、銀作の左頬はひどい赤紫色に腫れあがっていた。昨日の夕べ、水垢離をしに外へ出た折、里の男衆おとこしの一人に殴られたものである。先日、山に仕掛けられた罠にかかって怪我をした子どもの父親だった。


「お前のせいで、あいづは未だに歩ぐごどもままならね!」


 涙ながらにこぶしを振りかぶるその父親は、駆けつけた金五郎が止めに入らなければ、銀作を殴り殺していたかもしれないほど殺気立っていた。それほどまでに、銀作が此度の騒動の首謀者だという噂は、まことしやかに里の中に流れ渡っていたのである。


 銀作のいいかげんな嘘は何の用もなさず、日輪はすぐに事情を察したらしい。怒りで頬を紅潮させた。


「ひどいわ!なんの証拠もねのに、憶測だけで殴るぶたらぐなんて!銀作さんは、じっちゃを助けてくれたのに……」

「……がっこ、どうもな。ありがてぇけど、あんまりこごさ来ねでけれ。日輪さんにまでとばっちりがいったら、おら、陽蔵さんに申し訳立だねがら」


 漬物の包みを受け取りながら淡々とそんなことを言う銀作を見て、日輪は一瞬、ひどく寂しげな顔をした。銀作はギクリとする。また言葉選びを間違えたかと、今言った言葉を思い返して確認する。

 日輪は格子窓に手をかけて顔を寄せると、しんとした声で銀作に呼びかけた。


「……銀作さん。私もじっちゃも、信じてるから。ううん、私たちだけでねよ。こんた噂なんて馬鹿らしいって、本当はみんなわがってるの。わがってるけど、本当の犯人がわがらなぐて怖いがら、解決したって思いこみたいのよ。背中向けねで。諦めちゃだめやざねよ」

 

 日輪の瞳は澄んでいた。うららかに晴れた早春の、陽の光を浴びるつららのように、きらきらと光っていた。

 美しい――― 素直にそう思った。

 しかしその一方で、銀作は、前にもこんなふうに、日輪が誰かを励ましていたのを聞いたことがあるような気がした。鼻先に、湿った和紙と、墨汁の匂いが蘇った。


『かずまちゃん、きっとでぎるわよ。あきらめちゃやざねよ』 


 半べそをかきながら算盤をいじっている幼い数馬の隣で、同じく幼い日輪が熱心に声をかけている。丸い額と、ふくふくした頬があどけない。


『ほら、四より多い数は、この上の五珠ごだまさ下ろすのよ。……難しい?数馬ちゃん、手が大きいがら、他の珠も動いちゃうのね。だいじょうぶ。すぐ慣れるわよ』


 あの頃、何かにつけてすぐに弱気になる数馬の傍で、日輪は繰り返し繰り返し、そんな言葉を投げかけていた。数馬だけではない。手のかかる年下の子どもたちにも、ちょっと意地悪な悪童たちにも、日輪はいつもまっすぐな言葉を投げかけていた。


 日輪はそういう娘だった。

 そういう娘だったからこそ、数馬は日輪に惚れたのだ。


「……数馬は」


 気がついた時には、口を開いていた。

 出し抜けに飛び出した名前に、日輪は面食らった様子で目を瞬かせる。


「数馬は、早ぐマタギになりてぇって……手柄を立ててぇって、いつもえっかだそう言っでだ。それは多分……いや、きっと、あんたのためだ」


 言ってはいけない、と理性が叫んでいた。

 自分がそれを口にすることが、いかに野暮で、数馬を、日輪をも傷つけることか……それくらいのことは、銀作にだってわかっていた。

 それでも、止められなかった。

 言わずにはいられなかった。

 

「数馬は、日輪さんを想ってる。子どもの頃から、ずっと。……今も、ずっとだ」


 日輪の顔から血の気が引いた。

 頬が強張り、何かを言いかけて口を開いて、閉じて……ようやく絞り出した声は、小さく、震えていた。


「……なして、今、そんたごど言うの?」


 一歩、二歩と後ずさり、ゆっくりと左右に首をふる。


「私の気持ち知ってて、そんたごど言うの……?」


 銀作は何も言わずに日輪の目を見つめた。

 沈黙は肯定だった。

 それが伝わったからこそ、日輪はぐっと唇をかみしめた。

 陽光につよくきらめいていたつららの瞳は、熱く膨れた感情によって瞬時に溶かされ、涙となって溢れた。

 俯くと同時に、それらはほたほたと地面に落ちた。


「……銀作さんには、なんでもわがるのね」


 一瞬、日輪の唇がひくりと動き、ぎこちなく笑みのような形を作った。

 しかし、それも次の一瞬の後には、白い両手に覆い隠されてしまった。


「だども……本当だとしても……知りだぐねごどだってあるのよ……」


 涙声を一つ残し、日輪は走り去ってしまった。 

 銀作は囚人のような気持ちでその背中を見送り、窓の格子にごつんと額をぶつけた。


 知りたくないことだってある……その通りだ。

 いっそ何も見えなければ。知らずにいられればどんなによかったか。

 だからこれは、銀作のわがままだ。

 ただ、自分一人の胸にしまっておくのが辛かっただけなのだ。

 余計なことを言って日輪を泣かせたのは、これで二度目ではないか。


 ずるずるとその場に膝をつき、そのまましばらくうずくまっていた。

 情けない。立ち上がるのがこんなに億劫だと感じたのは久しぶりだ。

 胸に鉛が詰まっているかのように重い。

 自分で思っていた以上に、銀作は此度の騒動で、傷つき、疲弊していたようだ。

 

 胸につまった鉛を吐き出そうと、腹の底から大きくため息をついた。

 同時に、かさりと手の中で何かが音を立てたのに気づいた。

 そうだ、手紙……戸口に挟まっていたものに日輪が気づき、漬物と一緒に渡してくれたのだ。祖父の鉄五郎宛には、別の村のシカリから手紙が届くことがたまにある。

 丁寧に折りたたまれた手紙の表裏を見たが、差出人の名はない。確認のために中身を改めてみて―――銀作は眉をひそめた。

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