銀ー11
夏の志々間は雨が多い。
幼い頃、外で遊んでいたら急に雨に降られて、自分か銀作か、どちらか近い方の家に慌てて駆けこむという事が多かった。
体が弱かったらしい銀作の母・セツは、昼でも布団を敷いて横になっていることが多かったが、子ども達が土間に駆け込んでくると必ず身を起こして、おやつを出してくれた。
銀作と同じ、切れ長の目をした物静かな人だった。数馬の母親より一周りほども年が若く、
「銀。さっとこっち向いで。鼻水、口さ入るよ」
あの頃の銀作は何故か年中鼻炎気味で、セツは山ぶどうを頬張る息子の
セツの手にある手拭いには、矢の形の刺繍があった。弓矢は火縄銃にとって代わられるまで、長くマタギの相棒を務めてきた武器であり、魔除けの印でもあった。鉄砲が上手くなるようにという願いと、危険から身を守ってくれるようにという祈りをこめて、縫ったものだと教えてくれた。
「いいな。おれも、お守り手拭いほしい。鉄砲、うまぐなりでぇもん」
思わず呟いた言葉にセツは微笑んで、そのあと何かを言った気がする。たしか、数馬のぶんも縫ってやると言ってくれたのではなかったか。
あの後、結局手拭いはもらったんだっけ……思い出そうとすると、何故か雪雲の下に立つ銀作の背中が目の前に浮かぶ。
ほのかに漂う白檀の香りの中、隣に立つ父親の羽織のすそを握って、銀作は泣いていた。顔を真っ赤に、くしゃくしゃにして、溢れる涙を雪の上に落としながら、声をあげて泣いていた。
あんな風に、自分一人の悲しみに素直に身を委ねて泣く銀作を見たのは、あの日が最後だったかもしれない。
――――
胸の辺りに、ずくんと重い鈍痛がわだかまっている。
数馬は低くうめき声をあげると、みぞおちをさすりながらゆっくりと目を開いた。
最近、どうも変だ。
自分が今、起きているのか、眠っているのか、それすら判断がつかない時がある。
考え事をしながら歩いているせいなのか、気がつくと随分遠くに来ていることもある。
かすむ目をこすり、二、三度瞬きをした数馬は、自分が山の中にいることに気がついた。
暗い。既に陽が沈んだあとなのか?
微かに明るく感じるのは月明りなのか?
ひと際重い痛みが胸を刺した後、にわかに視界が開け、はっきりとものが見えるようになった。同時に、目の前に大きなトンネルが口を開けていることに気がついた。
「え……」
ナラクオトシだ。まだ新しい。
中にはまだ何の獲物も捕らえられてはいない。
空腹を抱えた獣のように、大きく口を開けたその喉奥に、熟したアケビの実がたっぷりとばらまかれている。割れた紫色の皮の中に覗く果肉が、生き物の臓物のように見えて、数馬はふとめまいを覚えた。
「ああ……」
後ずさり、尻もちをついた手の傍に、一枚の手拭いが落ちていた。
これは……この矢は俺のものか?
いいや、違う。銀作のものだ。
セツが息子を想って縫いつけた、成長と安全を願う破魔矢の刺繍だ。
「なして……」
なぜ、自分はこんな所にいるのか。
なぜ、銀作の手拭いがこんな所にあるのか。
わからない。わからないゆえに、余計恐ろしい。ここへ来るまでの記憶がすっぽりと抜け落ちている。
最後の記憶は、銀作と日輪の家の前で別れた時のことだ。
あの時、数馬は銀作に嫉妬した。
あんなに顔を近づけて……秘密を共有するように、ひそひそと言葉を交わして……それだけでも許しがたいのに、まるで何事もなかったかのようにケロリとしている銀作の態度に、一層腹が立った。自分のことも、日輪のことも馬鹿にされたように感じた。
焼けるような嫉妬と怒りを覚えたあの瞬間を境に、ことりと意識を失ったような気がする。そのまま長い夢を見て……気がついたらここにいたのだ。
こんなことが前にもあった。最初のナラクオトシを見つけた時だ。
あの時も銀作と共にいた。落とし穴の中で、岩や丸太に押しつぶされて息絶えていた熊を見た時、数馬はにわかに気分が悪くなった。理由のわからない恐怖に襲われて、その場から逃げ出したくなった。
そして、気づいたらシカリの家の前にいた。寄り合いに向かうレッチュウの面々に紛れていた。
いや、そういえば、その前も……その前も?
ああ……頭がぼおっとしてよく思い出せない。
どういうことなんだ。俺は一体どうしてしまったんだ?
「……おい!そご、何があるぞ!」
遠くから近づいてくる足音を聞き、数馬はびくっと体を震わせた。
とっさに近くの茂みに身を隠す。見つかったらきっと恐ろしいことになると思った。
松明を手にやって来たのは、佐平と仁太だった。前回のナラクオトシが夜に仕掛けられたもののようだったから、きっと実直な佐平が仁太を誘って見回りに来たのだろう。
新たな罠を見つけた二人は、しばし絶句してそれを見つめていた。
「……シカリに報告だ」
ややあって、佐平が低い声で呟いた。松明に照らされた顔が、怒りで真っ赤になっているのが夜目にもわかった。
「俺が里まで走る。おめはこご見張ってでぐれ」
「おう。……ん、待で。そこ、何が落ぢでら」
仁太がかがんで拾い上げたものを見て、数馬は息を呑んだ。銀作の手拭いだ。
「……これ、銀作のでねのが。前に
「なにィ!?」
佐平のとがった声が突き刺さるような気がして、ああ……と数馬は耳を覆った。これからどんなことが起こるのか、容易に想像がつくのが恐ろしい。
二人の足音が完全に聞こえなくなるまで、数馬はその場にうずくまって震え続けた。
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