第十話

 戸が開いた時、日輪は「あれ!」と一声あげて、まじまじと銀作を見つめた。


「じっちゃ!やんだぁ、どうしたの一体……」

「いやぁ、すまんすまん」


 銀作の背中で、陽蔵は照れたように頭をかいた。


 ナラクオトシが見つかってから、銀作たちの狩猟隊レッチュウでは山の見回りを強化したが、その翌日から思いもよらないことが起こった。彼らをあざ笑うかのように、くくり縄やアマッポなどの小型の罠が、山に……のみならず、里にごく近い裾の辺りにまで、仕掛けられるようになったのである。無論、狩猟隊の誰もが、そんなものは仕掛けていないという。

 くくり縄は仕掛けを踏むと縄が足に絡みつく罠であり、アマッポは矢を放つ危険な仕掛けだ。シカリは村長に進言し、罠を取り除くまで村人に山に立ち入らぬよう呼びかけたが、周知が徹底される前に、子どもが過って罠にかかり怪我をするという痛ましい事故までが起きてしまった。


 この日、陽蔵が発見したくくり罠には、若い牝熊が一頭かかっていた。親離れしたばかりと見える二歳熊ニゼである。ひどく暴れた様子で、縄のからみついた足首の皮膚が抉れていた。

 陽蔵は熊を刺激せぬよう慎重に近づいたが、どうやらそれは捕らえられてから数日放置されていたようだ。空腹で殺気立った若熊は傷んだ縄を引きちぎり、陽蔵に向かって突進した。陽蔵は辛くもかわしたが、急こう配を十数メートルも滑落し、片足を痛めることとなった。足場が悪い場所に罠が仕掛けられていたことも災いした。

 そこへ銀作が偶然通りがかり、おぶって連れて帰ってきたのである。

 

「情けねなァ……マタギが山で足さ挫くなんてよ」


 かまちに腰かけて手当てを受けながら、陽蔵はしょんぼりとうなだれて首を振る。マタギは年老いても血気盛んなことが多いが、陽蔵は銀作の祖父より年上である。年々小さくなる肩を揺らして、痰の絡んだ咳をするところを見ると、流石に寄る年波を感じざるをえない。


「おらもとうとう耄碌もうろくしてきたか……次の春熊狩りは止したが良いかもしんねァな」

「弱気なごど言わねでくださいたんしぇ狩猟隊レッチュウには、まだまだ陽蔵さんさ必要なんだんて」

 

 銀作は眉をしかめてそう言いながら、熊の骨の粉末から作った薬を、陽蔵の足首にたっぷりと塗り込んだ。陽蔵は眩し気に目を細め、「その言い方、若ぇ頃のシカリにそっくりだな」と感慨深げに呟いた。


「どだ、日輪。後のシカリの嫁ってのは。お前なら勤まるべ」

「やんだァ、じっちゃ。滅多なごど言わねでよ。銀作さん困ってらよ」


 陽蔵の軽口に、日輪のみずみずしい白い頬が淡い桃色に染まる。

 俄かに居心地が悪くなってきて、銀作はさらしを巻く手を速めた。力が入り過ぎ、ぎゅっと結び目を作ると同時に、「いでで」と陽蔵が身をよじらせた。


「待って。これ、銀作さんの?」


 帰りがけに日輪が銀作を呼び止めた。差し出されたのは、隅に矢の形の刺繍が施された、一枚の手拭いである。陽蔵の挫いた足に添え木を当てるため、ここに来るまでさらし代わりに使っていたものであった。

「洗って返すわね」と言う日輪に銀作は首を横に振った。

 手拭いの上から日輪の手をぐっと掴んで引き寄せる。顔と顔とが近づき、日輪は面食らって目を見開いた。


「せぎ」

「えっ」

「陽蔵さんのあの咳。いづがらだ?」

「あ……」


 日輪はとまどったように目を瞬かせる。囁くような銀作の声につられて声を低める。


「ええと……二、三日前がらかなぁ。だども、毎年風が冷たくなる頃は、ああいう咳するのよ」 

「早えどご医者さ診せだほうが。雪が降らね内に」


 山また山に囲まれた志々間の里は、医療の手の届きにくい土地である。医者がいる町まで行くには、山越え谷越え丸一日は歩き通さねばならない。マタギだけが知る急峻な近道を通って行けばさほどもかからないだろうが、病人や怪我人には酷な道程であろうし、雪に閉ざされればいかんともしがたくなる。

 そのため、マタギは熊の血や骨、内臓などを用いた薬を独自に調合し、怪我の治療や健康増進のために用いてきた。だが、早めに医者にかかって正しい処方を受けられるなら、それに越したことは無い。

 銀作は日輪から視線を外し、今しも家の中に忍び込もうとしていた疫病神の子どもをギロリと睨み据えた。敷居をまたぎかけていたその小鬼は、「ひェっ」と高い悲鳴を上げ、一目散に逃げて行った。


 日輪はまじまじと銀作の顔を見つめている。


「……銀作さん、前にもそんた顔で、うちのコロさ見てたごどあったわね」


 銀作はぎくりとして日輪の手を放した。コロとは昔、陽蔵が飼っていたマタギ犬の子どもである。


「コロの足に悪い鬼さくっづいでら!なんて言って、ものすごい勢いで追っかけ回しでいだのよね。あの時は、ほんとびっくりどってんしたわ。なんて意地悪な男の子なんだろって思った」


 あの時のことは銀作もよく覚えている。良かれと思ってしたことだったが、そのせいで方々からしこたま説教された。何より、日輪を泣かせてしまったことが、長い間銀作の中では負い目になっており、未だに彼女を前にすると、当時を思い出していたたまれない気持ちになる。

 黙り込んでしまった銀作を見て、日輪はふっと目を伏せた。長いまつげが影を落とし、いつもより大人びた顔に見える。


「……あの後、コロは川に落ちて、溺れて死んでしまったの。まだ小さがったがら、いつもえっかだ水さ怖がって、川になんか近づかなかったのに……まるで、何かに無理やり、足さ引っ張られたみだいだった」


 うん、と日輪は神妙にうなずいた。銀作をまっすぐに見て、にっこりと微笑えむ。


「ありがとう。気にかけてくれて。父っちゃと相談して、明日にもちゃんと、じっちゃをお医者に連れて行くわ」

「……うん」


 人から素直な感謝を向けられるのは、随分久しぶりだ。胸の中がむずがゆくて、銀作はぎこちなく頷きながら、受け取った手拭いを後ろ腰帯に引っ掛けて踵を返す。


 しかし、いくらも歩かぬうちに、また足を止める羽目になった。

 道の向こうから、玄馬が急ぎ足でこちらへ向かってくる。そのすぐ後ろには、息子の数馬の姿があった。数馬は暗い目をして、じっと銀作を見つめていた。


「あれ、玄馬おじさん。こんにちは」

「陽蔵マタギが怪我したって本当が?」


 寝耳に水の報を受けて、玄馬は珍しく動揺しているようだった。勢い余って銀作にぶつかり、銀作が軽くよろけた所を、「すまん」と背中に手を回して支えてくれる。


「ええ。銀作さんが見づけで、連れで帰って来てけだの。くくり縄にかかった熊がいて……」

「また罠か……話せるか?」

どうぞまんず


 玄馬は日輪に招じ入れられ、慌ただしく家の中に入っていった。

 数馬は何故か、父親の後に続かなかった。なんとなく気づまりな空気がその場に流れた。


「……数馬」

「気づがねがったな」


 銀作が口を開きかけたのをさえぎるように、数馬は馬鹿に明るい声で言った。目線はどこか明後日の方に向けられている。


「銀作、日輪さんと、そんた仲えがったんだべか。いづのまにそっだらごど……」

「別に、仲良ぐなんかね」

「そうか?随分、顔近寄せて、ひそひそ話してるように見えだげどなァ……」


 銀作は口を引き結んだ。陽蔵に聞かれないよう、とっさに日輪を引き寄せてしまったが、今になって、軽はずみなことをしたと悔やまれる。

 言葉にすると一層言い訳じみて聞こえそうなので黙りこむ。数馬はちらりと胡乱げな流し目を寄こして、ため息をついた。


「……別にえぇでなァが。好きだって。好みだって言いやァええでねが。そんでなぐたって、あんた可愛いめんげぇによぐ思われてるだば、ちっとは得意げにすりゃええでねが。お前がなんでもねぇ顔してんのが、俺は一番、腹が立つ」


 数馬は重たげな足取りで日輪の家の戸口に向かった。銀作とすれ違う一瞬、肩が触れあいそうなほどに近づく。毒を含んだどんぐり眼が、恨めし気に銀作の目を覗き込んだ。


「お前のそういうどごだけは……俺は昔っから、どうしてもがね」


 何も言えなかった。

 銀作がしたことは、幼馴染が初めてぶつけてきた暗い胸中を、正面から受け止めることだけだった。目を逸らさずに、まっすぐに見つめ返した。

 数馬は自分で言った言葉の苦さに耐えかねたように、顔をしかめて目を逸らした。父親の後を追い、静かに陽蔵の家へ入っていく広い背中に、冷たい風がひゅうと吹きつける。

 枯れ葉の赤が視界の端をかすめ、銀作はにわかに曇り始めた空へと目を向けた。

 空のかなたで、冬の神が、長く重い裳裾もすそを引きずりながらやって来るのが、見えるような気がした。

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