第九話

「あれ……?」


 不意に数馬が足を止め、林の奥に目を向けた。

 銀作も立ち止まり、視線の先を追う。まだ日は高く、明るい林の中は遠くまで見通せる。耳に届くのは、近くを流れる小川のせせらぎや、鳥や虫の声。風にささめく木の葉の声ばかりで、心を騒がせるようなものは何もない。


「なした?」

「いや、あっちの方にな……」


 数馬が何事か言いかけた時、それは起こった。

 ドドッ……と何かが崩れ落ちる音。ほぼ同時に、くぐもった獣の吠え声。

 イタズの声だ。断末魔の叫びに似ていた。

 二人は一瞬顔を見合わせ、ほぼ同時に音がした方向へと駆け出した。平時のことゆえ、鉄砲も槍も持ってきてはいない。護身用の小刀コヨリが一本あるきりだったが、何かおぞましいことが起こっているという予感が、二人の足を急がせた。


 その光景を目の当たりにした時、隣で数馬が「ウッ」と息を詰まらせた。

 一面の赤い落ち葉の中に、ぽかりと口を開けた落とし穴。その中に、太い丸太や大岩が積み重なっている。底には、押しつぶされた熊の体の一部がわずかにのぞいていた。既に絶命している。ぴくりとも動かない黒い毛皮に、しみ出した赤い血がじわじわと広がっていく。


 獣の匂いにも、血の赤にも、なんなら内臓の味にも慣れっこになっているはずの二人のマタギが絶句したのは、その場にもやのごとく残り漂う、人間の悪意を感じたからだろう。それは、マタギが持つものとは性質を異にする、歪んだ冷酷さをはらんでいた。


「銀作。こえだば……」

「ああ……」


 銀作は、ごくんと唾を呑み込んだ。話にしか聞いたことが無かったが、実物は想像以上に凄惨なものだった。禁忌の理由を察するには十分だった。


「ナラクオトシだ。一体、誰が仕掛けたんだべが……」


 ナラクオトシとは、古来より志々間の里に伝わる、大型の仕掛け罠である。

 熊がよく通る道に落とし穴を掘り、被せをした上にどんぐりなどの餌を撒いておく。更に枝でトンネルを作り、その上に重い丸太や岩を乗せておく。

 餌につられてやってきた熊は、まず穴に落ちて逃げ場を失くす。その上に丸太や岩が降ってきて圧殺されるという仕組みである。獲物に大きな苦痛を与え、また、無関係の人間をも巻き込みかねない、危険な罠であった。


 マタギは元来、罠を好まない。獲物との命をかけた勝負を尊ぶためである。畑を荒らす獣を捕らえるためにやむをえず使用することもあるが、それは本来のマタギの流儀には反するという認識があった。

 よって、鉄五郎の数代前のシカリは、ナラクオトシを作ることを禁じた。もし狩猟隊レッチュウの誰かがナラクオトシを仕掛けたとしたら、即刻破門され、隊を追われるという決まりがあった。


「すぐにシカリに伝えねば……」


 呟いて顔を上げた時、銀作は異変に気付いた。


「……数馬?」


 いつの間にか、数馬がいなくなっている。辺りを見回し、木々の間に目を凝らしたが、どこにもいない。

 そうこうする内に、複数人の足音が近づいてくるのに気づいた。


「……そごさいるのは、銀作か?」


 訝し気に声をかけてきたのは、数馬の父・玄馬だった。後ろに狩猟隊の若い衆を数人連れている。

 銀作は玄馬に向き直り、罠を見つけた経緯を話し始めた。




―――


 鉄五郎組の構成員は総勢三十名。

 狩りへの参加人数は回によりまちまちだが、シカリの方針により、寄り合いの際には全員が参加することになっている。暗黙の了解で、おのおの節度をもった振る舞いを心がけてはいるが、発言すること自体は若手であっても特に禁じられてはいない。

 ナラクオトシが見つかったこの日も、シカリの家に―――すなわち、それは銀作の家にという事でもあるが―――集まった一同は、囲炉裏の周りにぐるりと三重の車座になり、老いも若きも盛んに意見を交わしていた。

 

「よそ者の仕業に決まってら」


 怒気を滲ませた声でそう言い切ったのは、佐平というマタギである。年は二十代半ばとまだ若いが、正義感が強く、熱い男である。

 

「ナラクオトシだど!鉄五郎組の縄張りで、そんた罰当たりなもん勝手に仕掛げで!ゆるせねぇよ。見づげたら、ただじゃおがね!」

「んだども、あんなでがぇ罠だべ」


 そういって首をひねったのは、佐平と同年の仁太。小柄でぼそぼそとしゃべる陰気な男だが、非常に俊敏で、獲物を捕らえるまでどこまでも追跡する執念深さも持ち合わせている。「ネバリ」は猟師にとっては美徳の一つである。


「あれ作るには、それなりに時間もかがるべ。おらだつ、代わる代わる山ン中巡回してるがら、よそ者がウロチョロしでだら誰か気づくべし」

「場所もぴったり、熊の通り道だったしなぁ……」


 陽蔵もそう呟いて、ウーン……と腕組みをする。よそ者がそこまで地理に明るいのは不自然だと言いたいのだろう。


 銀作は隣に座る数馬の顔をちらりと横目で見た。

 ナラクオトシの現場から姿を消した後、数馬は寄り合いの席にふらりと現れた。

 青ざめた顔でじっと押し黙り、銀作の顔を見ようともしない。関りを拒むようなその態度を見て、銀作も敢えて声をかけようとは思わなかった。


「……はじめにナラクオトシを見づげた時、何か気づいたことはあっだか?」


 玄馬が言った言葉に、数馬はびくっと肩を震わせた。

 玄馬と数馬は、顔立ちと体格ばかりはよく似た親子だったが、それ以外の部分はあまり似ていなかった。いつも冷静かつ聡明、その上勇猛果敢で、鉄砲だけでなく何でも上手にこなす父とは違って、数馬は気弱でどんくさく、周りの足を引っ張ってばかりいた。

 母っちゃの腹ん中さ、いろんなもん落っこどしできたんだべ―――口さがない者たちからは、そんな風に影で笑われることすらあった。父に話を振られる時、数馬はいつも少し緊張していた。

 委縮する数馬に代わって、銀作が口を開いた。


「仕掛けさ使われた枝ん中に、乾いたもんと、湿ったもんとがあった。渇いた枝は外側に使われたもん。湿った枝は内側に使われたもん。昨日の夜雨さ濡れだ後に切られで、そのまま風の当だらねどごさ使われでだんだど思う。丸太の切り口も全部新しがった」

「だば、仕掛けられたんは昨日の晩か」

「誰が、何か気づいだごどはねが」


 誰も何も言わない。難しい顔をして首をひねっている。

 そもそも夜間は山に入らないものだ。狩猟隊の男たちはみな勇猛かつ優秀な狩人だが、だからこそ山の危険も熟知しているし、軽はずみな行動もとらない。


 結局その日は、「今後も同じことが起こるやもしれぬので、一層注意して見回りをしよう」という事になり、寄り合いは解散となった。

「えれぇごどさなっだなァ」と、金五郎は渋面で腕を組んだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る