第七話

 志々間しじまの里の共同墓地は、阿仁川を見下ろす、眺めのいい場所にある。

 秋の深まるこの季節は特に、真っ赤な紅葉が目に鮮やかだ。羽州の秋は短い。足早に通り過ぎてしまうから、一日いちにちを見納めと思って、目に焼き付けることにしている。

 墓石にそっと水をかけ、こびりついた土埃や苔を、手のひらでこすって落とす。花と胡麻餅の包みを供え、手を合わせ、目を閉じた。

 

 ―――母っちゃ、お蔭さんで、こっちゃ元気にやっとります。

 今年はお天道さんの機嫌が良ぐて、山の実りも畑の実りも上々です。


 無口な銀作だが、墓前で母に日ごろのことを報告するこのひと時だけは、声には出さずに饒舌になる。今より舌が滑らかだった子供の頃に戻るのかもしれない。


 ―――父っちゃは夏の気分が脱げねぐて、夜中に布団蹴っ飛ばして、また腹ァ下しました。良い歳して、未だにでがぇ童子わらすのようで、全ぐ困ります。


 とりわけ父については何気ないことの一つ一つもつい取り上げてしまう。困ったように眉を垂らして笑う母の顔が見えるような気がした。


 一通り近況の報告を終えると、目を開けて、ふーっ…とため息をついた。本当はもっと伝えたいことがあるような気がしたけれど、下手に話し出すとたががはずれて、がらにもなく女々しい言葉を吐いてしまいそうだ。ご先祖様も一緒に眠るこの墓の前で、みっともなく甘えるようなことは憚られた。


 近頃、狩猟隊レッチュウの面々が口をそろえて言う言葉―――「銀作も、ゆくゆくは統領シカリになるんだがらなァ」―――を思い出すと、どうにも肩の上の空気が重くなるような気がする。

 シカリは狩猟隊で最も実力がある者が務めるものだから、別に世襲と決まっているわけではない。しかし、銀作の家は代々優秀なシカリを輩出してきた。それは、シカリを務めるに足る素養が血とともに受け継がれたからかもしれず、あるいは、ならざるを得ないという無言の圧力が先祖たちを発奮させ、シカリたる実力者に育ててきた結果かもしれない。いずれにせよ、祖父の次は父・金五郎が、その次は銀作が後を継ぐことが自明の理のように言われていた。


 マタギの仕事が嫌いなわけではない。皆が期待するならば、いずれはシカリになれるよう努力するつもりもある。

 しかし、銀作には自信がなかった。ただ鉄砲が上手ければいいわけではない。巻き狩りでは全体を把握しながら的確に指示を与える必要もある。のみならず、熊や狼などの獣の脅威ばかりでなく、雪崩や吹雪など数えきれない危険のある山の中で、全員の命を預かるのである。

 だからこそ、シカリには圧倒的なカリスマを持ってレッチュウの面々を統率する義務がある。ひとかけらでも不信や軽侮の感情を抱いてしまえば、血気盛んな男たちは反発し、従おうとしなくなるだろう。勝手がってな行動を許してしまえば、規律は乱れ、いざというときに彼らを護ることもままならなくなる。


 今は祖父・鉄五郎が現役で踏ん張っているが、既に還暦を越えた今、いつ引退してもおかしくはない。金五郎は、我が父ながらどこか子供っぽいところがあり、鉄砲よりも槍や相撲が得意だなどと公言するような男だが、あれはあれでなかなか人望がある。情に厚く、偉ぶった所もなく、それでいて熊を前にしては槍一本で先陣をきる豪気さもあるので、若者たちに敬愛されているのである。やや細やかさに欠けるところはあるが、そこは聡明なる親友の玄馬が参謀として支えればよい……口にこそ出してはいないものの、レッチュウの皆がそう考えていることは何となく伝わってくる。

 そんな、祖父や父に匹敵するような何かを、この先自分が身につけられるような気がしなかった。


 ―――ユノジガタラヌ、ユノジガタラヌ。


 どこからともなく聞こえてきた声に、銀作はハッとした。

 見ると、墓石の影に先ほどの小鬼が隠れて、ニヤニヤと笑っていた。


 瞬間、銀作の脳裏に、幼き日に親しんだ手習い所の文机と、墨で真っ黒に汚れたおのれの手のひらとが浮かんだ。

 母が亡くなる少し前、銀作は村の手習い所で、毎日せっせと、ある文字の練習をしていた。言葉には力があるというから、「病気平癒」の文字を書いて枕元に置いてやれば、母の苦しみも少しは和らぐのではないかと思ったのだ。


 ――母っちゃの病気さ治す言葉

   教えてくださいたんしぇ

 

 その頃、手習い所の師の一人を務めていたのが、数馬の父・玄馬だった。彼は昔、毛皮の行商に出た折に、得意先の主人に目をかけられ、一時期 町で学んだことがあった。

 玄馬は銀作を優しい目で見つめ、丁寧にお手本を書いてくれた。当時、まだ、かな文字を習い始めたばかりだった銀作には難し過ぎる言葉だったが、止めるような野暮はしなかった。

 銀作はそのお手本を見ながら、毎日、毎日、練習した。最後の「癒」の字だけがどうしても難しく、なかなかうまく書くことができなかった。

 学ぶべきことは他にも山ほどあり、一つの言葉ばかり練習しているわけにもいかない。貴重な紙を無駄にし続けるのもはばかられ、銀作は「病気平ゆ」と最後だけかな文字で書いて、ひとまず練習を終えることにした。


 その矢先、母は病に負けて死んでしまった。




 ……あの日、最後まであきらめずに「癒」の字を書いていたら、母は死ななかったかもしれない。


 人が聞けば一笑に付すような思い込みだが、銀作は子ども心に、なかば本気でそう思っていた。おのれの不甲斐なさが山神様に咎められたような気がしてならなかった。

 その心を読んだように、妖しのものは「ユノジガタラヌ、ユノジガタラヌ」と唱えては銀作を嗤うのだ。銀作がおのれの無力さを感じて落ち込むたびに、何度でもその言葉は蘇った。


 かっと頭に血が上り、拳を振り上げた。小鬼は「ひェ…っ」と気弱な声をあげ、墓石の影に身を隠す。

 しかし、すぐに銀作はおのれの行動を恥じた。憎むべきはおのれの弱さだ。小鬼はそこにつけ込んで、銀作をからかったに過ぎない。小鬼をぶつのは八つ当たりだと悟った。

 握った拳をゆっくりと開き、おのれの頬をぱちんと叩けば、少し気持ちが静まった。

 後悔と自責の念に囚われてそこにとどまっていても、死んだ人間はもう戻らない。怖くても苦しくても、残された者には、ただ前を向いて歩いて行くことしかできないのだ。……たとえ、光明ひとつとしてない暗闇が、どこまで続くか知れないのだとしても。


 小鬼は墓石の影からこっそり顔を出し、黄色いまなこをまん丸に開いて、不思議そうに銀作の顔を見つめた。

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