第五話

「そうは言ってもよ。俺も、早ぐ本マタギになりでなァ……」


 そう言って、数馬が重い溜息をついたのは、熊鍋を平らげた後の帰り道のことである。下山には特に決まったしきたりはないので、片づけを終えた後は自由解散となったのだ。

 数馬の隣には銀作が、数歩前には金五郎と玄馬が歩いている。父親たちは、近頃海外から輸入されているという新式銃の噂について、盛んに意見を交わしているようだ。

 数馬はまた一つため息をついて、背中の荷物を揺すりあげた。

 コマタギの修行は厳しい。ただ歩くだけでも難儀する雪道を、二十貫近くもの荷を負うて歩かねばならない。山ではあれこれの雑事を押し付けられ、事あるごとに水垢離を取らされる。銀作たちが所属する狩猟隊レッチュウ・鉄五郎組の面々は、みんな根は良い連中なのだが、それでも、過酷な春山の狩りでは、余裕を失くして言葉が荒くなることが無いとは言えない。理不尽に当たられるのもシゴキの内とされる。

 苦しい日々である。それでも、誰もが本マタギになることを目指し、歯を食いしばって堪えるのである。

 これまでは、レッチュウの最年少は銀作と数馬で、二人でコマタギという立場だった。それが、今日をもってコマタギは数馬一人になってしまった。さぞや肩身が狭いことであろう。


「情げねなァ。何の役にも立だねのに、タダ飯だげは食っでよォ」

「何もしでねなんてごだねェべ。今日だって、陽蔵さんについて、立派に勢子の仕事さ務めたでねが。勢子の働きが無かったら、射手ブッパが何人いたって狩りになんねよ」


 銀作は数馬の卑屈をたしなめるように、あえて語気を強くして言った。コマタギの少年たちは巻き狩りの間、勢子の役につくことが多いのだが、勢子頭の陽蔵は誰にでも懇切丁寧にマタギの仕事を教えてくれる。銀作も初マタギの頃から随分世話になっている。行き過ぎた謙遜は陽蔵の好意まで貶すような気がして、聞き流せなかった。


「なんも鉄砲シロビレ撃つタダクだけがマタギではねぇ。数馬はよぐやってる」

「ウン。……ウン。んだべな、すまね……」


 数馬はそう言ってぺこぺこと頭を下げたが、心から納得してはいないことは、表情でわかる。案の定「だども……」と言葉をつぐ。


「コマタギの内は、嫁コの来手きてもねぇしよ」

「嫁がほしいんけ?」


 反射的にそう返していたが、考えてみればそれはそうだ。銀作とて、いつかは嫁を迎えねばならないだろう。ただ、十六になったばかりの今、数馬からその言葉が出たのが少し意外だったのだ。

 数馬はみるみる内に真っ赤になると、もごもごと何か言い訳した後、無理くり話題を変えた。


「ぎ、銀作はすげぇ奴だよ。勉強だって鉄砲シロビレの腕だって、俺、全然追いづげねもの。流石は統領シカリの孫だんべなァ……」


 数馬はこう言うが、銀作とて決して特別できが良いわけではない。むしろ、ぶきっちょで呑み込みが遅い方だと自分では思っている。ただ、何事も粘り強くこつこつと取り組むので、苦手だったこともいつしかできるようになるというだけの話である。

 対して数馬は地頭が悪いわけではないのだが、いかんせん気が弱く、細かいことを気にしすぎるきらいがある。そのため何をするにも時間がかかり、好機を逃してしまうことが多い。その結果、銀作が数馬の数歩前を行くような形になる。

 なまじ、父親同士、息子同士が同い年のせいで、周りから比べられることが多いが、銀作に言わせれば「どんぐりの背比べ」と言ったところである。


「……一所懸命やるだげだ。それだげしかでぎねもの」


 一体どうしたらそんな風になれるんだ、と尋ねる数馬に、銀作はそう答えるよりほかに無かった。



 その時、不意に先を行く金五郎が右手を挙げて息子たちを制した。眼光鋭い両目が、じっと森の奥を睨んでいる。


イタズだ。でがい。下がって身ィ隠せ」


 普段の明朗さとは打って変わった、槍の穂先のように冷たく重い声音だ。

 その半歩前で、玄馬は既に鉄砲シロビレを構えている。

 たちまち少年たちは表情を引き締めた。音をたてないよう慎重に後ずさりし、雪をかぶった茂みの影に隠れるようにしゃがみこむ。

 木立の合間をぬって、ゆっくりと歩む黒い獣がいる。五十貫はありそうなその巨体は、おもむろに空気の匂いをかぐと、手近な木に前足をついて、後ろの二足で立ち上がった。


「ミナグロか……」


 熊の胸を見た金五郎が、かすかに驚きを滲ませた声で呟く。玄馬は無言でうなずき、銃口を天に逸らした。

 胸に白い三日月模様があるのがツキノワグマの特徴だが、稀に、その模様のない個体と出会うことがある。それはミナグロといって、山の神様の遣いだから決して撃ってはならないといわれていた。銀作も話に聞いてはいたが実際に目にするのは初めてだった。


―――あれは本当に熊なんだべか。


 それが、ミナグロを目にした銀作の、第一の感想であった。

 何しろ、目も、鼻も、口も、何もないのっぺらぼうに見えるほど、全身が黒いのだ。

 まるで、月のない夜を切り取って、熊のかたちに成形したかのような異様な姿で、銀作はその姿から目を離すことができなかった。

 ミナグロはゆっくりとあたりを見回した後、前脚を下ろして四つ足に戻った。そして、そこに確かに存在していることを証明するかのように、さわさわとクマザサの葉を揺らしながら、ゆっくりと山の奥へ消えていった。消えてなおその圧倒的な黒さは、陽炎のように銀作の瞳の中に揺らぎ、長く、色濃く残り続けた。

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