第二話
山というのは、とかく怪異が起こりやすいところであり、山男に山姫、鬼火や狐狸の妖術など、不思議な話には事欠かない。
とりわけ銀作は不思議な「もの」との縁が深かったようで、幼い頃から他の人には見えないものを目にすることがよくあった。それがこの世のものではないと気づいたのは七つの時だ。
病床にあった母が、ある時むくりと体を起こした。
数日前からひどく発熱しており、身を起こすのにも介助が必要であった母が、突然一人ですっくと立ち上がったのだ。濡れ手拭いを絞っていた銀作は、あっけに取られてそれを見つめた。
母はそのまま、何も言わずに土間へ降り、雪の降る外へと出て行ってしまった。冬であったが風は穏やかで、空気を入れかえるために戸は開けられていた。
銀作はあわてて母を追った。うっかり裸足で飛び出してしまい、まだやわらかい足裏を冷たい雪が
「母っちゃア!どご行くだ?待っでけれェ!」
呼びかけても、母は振り返ることなくずんずんと進んでゆく。病人とは思えない足の速さに、銀作の胸に不安がきざす。
にわかに向かい風が強くなった。雪の欠片が頬にぴしぴしと当たって痛かったが、銀作は必死で足を動かした。
「母っちゃア、聞ごえねのか?戻って来でけれェ!置いでいがねでぐれよォ!」
不意に、ぐいと腕を引かれ、背中から誰かに抱きしめられた。
父だった。
「
熊撃ちの父は、自身も熊のように大きな男だった。なにかにつけて人を笑わせ、自分自身もよく笑う、陽気な男だった。
その父が泣いていた。幼い息子をかき抱き、その肩に顔を埋めて声をあげて泣いていた。
みるみる内に肩が重く濡れていくのを感じながら、銀作はふと雪道を見渡し、そこに母の足跡がひとつも残っていないことに気がついた。
家へ戻ると、母の体はちゃんと寝床の上にあった。
息は止まっていた。二度と吹き返すことはなかった。
……あの日見た母の幻影の行方を、銀作は今でも考え続けている。
――――
また、ある時はこんなこともあった。
十一歳の時のことである。足を滑らせて滝壺に落ちたことがある。
滝壺では、水面から川底への下向きの流れと、川底から水面への上向きの流れが対流しており、ここに巻き込まれると、自力での脱出はまず不可能になる。銀作もまたこの渦に巻き込まれ、上も下もわからぬようになった。
その時、閉じたまぶたの裏に、白い大きな手が現れた。巨大な御手は銀作少年の体を包み込み、水面にむけてぐんぐんと運んでいった。ふっくらとして柔らかい、優しい手のひらであった。
気がついた時には、銀作は川辺に仰向けに倒れ、父に腹を押されて口から水を噴き出していた。
「山神さまが、お
後に銀作が不思議な体験を語ると、父は酒を煽りながら、真っ赤な顔で豪快に笑った。
「おめは
マタギが信奉する山の神は、一説には気性の激しい女の神だと言われている。
男たちが少しでも他の女の匂いをさせて山に入れば、たちまち嫉妬してひどい目に合わせる。逆に、女神に気に入られるよう身ぎれいにして山に入り、オコゼなどの見目の悪いものを捧げものにすれば、機嫌を良くして沢山の獲物を授けてくださるといわれていた。
我が子が無事に帰って来た安堵もあったのだろう。父は上機嫌で銀作の肩を叩いたが、祖父はむっつりと押し黙り、目が合うと、怖い顔をしてじっと睨み据えてきた。
「慢心するでねぞ。次はねぇ」
銀作が不思議なものを見ることに、祖父は気づいているようだったが、そのことについて特に何も言ったことは無い。ただ、あまり良いことだとは思っていないらしいのは伝わって来ていた。
実際、良いことばかりではなかった。
祖父に叱られるのは、決まって不思議なものに気を取られた時だ。
滝壺に落ちたのだって、「こっちへおいで」と誘う見知らぬ子を追いかけたせいだった。崖に向かって駆け出すその子に、「危ね!」と叫んで手を伸ばした瞬間、自身が足を滑らせていたのだ。
何より、周りの人間を怖がらせてしまうことが多かった。幼い頃、銀作には妖ものと、そうでないものの見分けがつかないことが多かった。銀作が自分にしか見えないものをじっと見つめたり、不用意にそれについて言及したりするたびに、里の者はさっと顔をこわばらせ、青ざめ、時には「いい加減なごと言うんでね!」と叱りつけることすらあった。
悪気があってのことではなかったが、自分の何気ない言動に周囲が動揺するのは銀作も辛かった。自分を見る周囲の目がさっと切り替わる、あの一瞬の変化が怖かった。
銀作は
可愛げのない子だと言われた。
何を考えているかわからぬと不気味がられた。
それでも銀作は無言を通した。
何をしても毅然としている銀作を見て
そんな銀作の覚悟が伝わったのか、ある時祖父は銀作を囲炉裏端に呼び出した。鉄砲の弾を作る所を見せてくれるというのだ。
「鉛は溶けると毒の気を出す。離れで見でろ」
銀作が見ている前で、祖父は囲炉裏の火で熱し溶かした鉛を型に流し込み、次々と鉄砲の弾をこしらえた。祖父の作る弾は、どれもゆがみのない真円をしていて美しい。そうでなければまっすぐ飛ばないのだという。
祖父は、冷えた弾の一つを手に取り、銀作に手渡した。
手のひらにころりと転がった鉄砲玉は、鈍い光をたたえている。
「……お
いつになく静かな声音で、祖父は銀作にそう尋ねた。
「山神様は山にいなさるのではね。いづもマタギとともにいなさる。マタギの心の内をのぞいてなさる。曇りのねぇまん丸の魂さ込めれば、その弾は獲物に向がって真っすぐ飛ぶ。怖れ、迷い、手前勝手な歪んだ魂さ込めれば、その弾は当でてはならねものに向がって飛ぶ。
おのれが揺らぎそうになったら、いつでもこの弾さ思い出せ。おのが魂を取り出して見せた時、これと同じ形をしているように……」
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