銀ー1

 昔々、嵯峨さが天皇の御代みよのことであったか。高野山の山中を行く、三人の狩人かりうどがいた。

 三人は三鈷さんこの松の辺りで空海上人くうかいしょうにんと出会った。男たちが手に手に弓矢をたずさえているのを見て、空海上人はこうおっしゃった。


「殺生は罪深いことだ。即刻止めなさい」


 三人は困って顔を見合わせた。


「我々は、生きるために猟をしております。弓矢を捨てて、どうして妻子を養っていけましょう。止めよと言われて、止められるものではないのです」


 上人はうなずき、懐から巻物を取り出して、こうおっしゃった。


「では、こうしよう。お前たち三人の内、一人は弓を捨て、山を下りなさい。一人は私の弟子となりなさい。一人は、狩りを続けなさい。ただし、無駄な殺生はせず、生きていくための最少の殺生に留めなさい。

 さすれば、そなたらの一族に、この経文を授けよう。これは獣に引導を渡す経文である。これを唱えれば、殺生の罪穢れから逃れることができるであろう」


 男たちはこれを受け入れ、一人は山を下り、一人は空海の弟子となり、最後の一人は狩人として生きた。彼の子孫は得物を弓矢から鉄砲へと替え、秘伝の巻き物を受け継ぎながら、今も生業なりわいを続けている。



「――だば、銀作。わしらマタギにとって、一番大事なごどどは、なんだで思う?」


 羽州うしゅう森吉山もりよしざん西麓せいろくのマタギ集落のひとつ、志々間しじま

 狩猟隊レッチュウ統領シカリを務める老練のマタギ・鉄五郎は、孫の銀作に物々しくそう尋ねた。


 銀作は話を聞いていなかった。

 明後日の方を見て、ぽかんと口を開けていた。

 視線の先には、ひらひらと優雅に舞う黄金色の蝶々の姿があった。

 光の粉をまき散らし、ふわりふわりと宙を舞う蝶は、頭だけが人の形をしている。

 つやつやと妖しく、なまめかしく光る両目が銀作を認め、異様に赤い唇を曲げてにやりと笑った。見る者を彼岸に誘うような、そんな笑みだった。


「銀作!」


 怒気を帯びた声で名を呼ばれ、慌てて向き直る。

 なんだっけ……マタギにとって一番大事なこと?


「……鉄砲の腕さ磨いて、獲物をたくさんじっぱり獲るごどだ」

「違う」と祖父は渋面を横に振った。

「弓は当だるが不思議。鉄砲は当だらぬが不思議。獲物を仕留めるのは当だりだ。いかに『獲りすぎねように獲る』かってごどが、難しんだ」

 

 実際、祖父をはじめとした里のマタギたちの狩りの腕前といったら人間業にんげんわざではなかった。もし彼らが思うさま獣を狩りにかかったとしたら、ひと冬の内に森吉山は丸裸になってしまっていただろう。

 そうならないよう、マタギには厳しい掟がある。例えば「四」は忌み数であるとし、熊を三頭獲ったら絶対にそれ以上の狩りをせずに山を下りる。四頭以上の熊を取れば山の神の怒りに触れ、恐ろしい祟りがあると言われていた。

 生きるために必要なだけ―――これが彼らの猟における、絶対条件だった。




 マタギはただの狩人ではなく、山の番人でもあると祖父は言った。増えすぎた獣がいれば数を減らし、均衡を保つ。山の緑が汚されたり損なわれていたりしないかどうか、見回りをする。そのため、狩りをしない日もしょっちゅう山に入っていた。


 一度、銀作がぼんやりして道を間違えかけた時には、祖父に首根っこをつかまれて引き戻され、厳しく叱られた。


「おが今踏むべどした苔はな、一度壊れるど、もとに戻るども五十年はかがるんだ!足元に、どんた命があるが考えで歩げ!」


 悪いことをした時には、けがれをそそぐためと言って、かならず川で水垢離みずごりをとらされた。水垢離とはみそぎのことであり、川の水をかぶって心身を清めるのである。


「コザワノシンジン トウリシンジン ワガミニサンド アブラケンソワカ……」


 決められた言葉を三度唱えながら、小川の水を木椀ワッパで汲み、裸の肩へ浴びせてゆく。

 東北の冬山である。

 真っ白な雪の上である。

 歯の根が合わぬどころの騒ぎではない。心臓が破裂して、喉から飛び出てくるのではないかというほど高鳴っている。

 真っ赤に腫れた全身に凍える水を打ちかけながら、銀作は、二度と同じ過ちを犯すまいと胸に誓ったものである。


「山の『めぐり』さ守るのも、マタギの仕事の内だ」


 祖父はことあるごとにそう言った。


「川の淀みを解きほぐすように。命がつながれ、めぐるように」


 銀作は大きなくしゃみをした。

 濡れた体を丹念に拭き、マタギ犬の毛皮をかぶって火に当たっていても、なかなか体の震えは治まらない。

 カタカタと歯を打ち鳴らしていたら、目の前を、ひゅっと何かが飛び去っていった。見ると、ムササビのごとき小さな生き物が、近くのこずえに留まって、じっと銀作を見ている。

 異様に光る眼だ。よく見ると目の端に白眼があって、人間のような顔をしている。


―――ソッチハ シゲノノルイカ

   ソレトモ アオバノルイカ

   ワレハ コダマノルイゾ

   コシャクナ ワッパメ

   ナニヲミユルカ

   カ カ カ カ

   クヤシヤノォ……


ムササビはなにやらぶつぶつと呟いたかと思うと、にわかにぷっと膨れ上がり、ブゥーーーーーーッ!と口から息を吹き出しながら、どこかへ飛んで行った。


 真っ黒に雪灼ゆきやけした親指が、銀作のはなをぬぐった。

 振り向くと、祖父は険しい顔をしていた。


「……何が見えだが?」


 白眉の間に深い皺が刻まれている。

 銀作はふるふると首を横に振った。


「なんも」

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