真夜中の来訪者
――ふと、微睡みの中から目を覚まし瞼をこじ開けると、夜闇の中にかすかに天井が浮かび上がって見えた。
見慣れない天井に、今が旅の最中だということをぼんやりと思い出す。ここが宿屋の部屋だということも、二人の同行者が隣のベッドで眠っていることも。
あの地震の後、食堂の後片づけを終えてから恐る恐る部屋に戻ったわたしを待ち構えていたのは、黒ローブで完璧に顔を隠したシアによる無言の
重い空気に耐えきれなくなったわたしは、仕方なく早々に床に就いたのだった(ちなみにその前に
そんな事情で早めに寝てしまったから、こんな真夜中辺りにふと目が覚めてしまったのだろうか。そう思っていたわたしの耳に、ふとなにかが軋む音が届く。
「…………?」
一瞬鼠かと思ったけど、どうやら違うようだ。連続して床が軋むこの音は、誰かが部屋の中で足音を忍ばせて歩いているみたい……?
不審に思ってそっと体を起こして周囲を窺うと、ベッドが並んでいるのとは反対側――ちょうど荷物を置いてある辺り――のところにぼんやりとした明かりが見えた。
(誰、かいるよね? 泥棒? それとも他になにか――)
なにが目的なのかはともかく、勝手に侵入されているのは間違いない。このままにしておくわけにはいかないけど、ひとまずひとりだと危ないから隣の
息を殺しながら思いつきを行動に移そうとした間際、その隣のベッドの主が前触れもなく体を起こした。と思うと、次の瞬間には眩しい光が室内を覆い尽くす。
「――まずはそこで止まりなさい、不埒者。それ以上余計な動きを見せたら、その首飛ばしてあげます」
「…………っ」
鋭い叱咤の声に、はっと息を呑む音が続いた。
先程の閃光は魔法によるものだったのか、光はすぐに消えて部屋中が暗闇に元通り包まれている。シアもさすがにそれは不便だと思ったのか、灯照石を取り出してきたらしく、ぼんやりとした光がすぐに辺りを再び照らし出した。
そこではじめて露わになった不埒者の姿を見て、わたしは思わず息を呑んだ。
「……いったいどこの馬の骨が【
シアが呟いているように、不埒な侵入者は地震の際わたしと一緒に食堂の後片づけをして、【
「そんな、いったいどうして……」
「そうですね。まずはその辺りを聞かせてもらうとしましょうか。どうしてここに忍び込もうと思ったのか、なにをしようとしていたのか。ついでに、これは貴女ひとりでしたことなのか、それとも宿ぐるみのことなのか。すべて
眠るときにもローブは被ったままだから、そう命じる彼女の表情は窺えない。けれどその口調の強さから、たとえ顔が見えなくても腹を立てていることは容易に窺えた。
女給もそれは察せたのか、恐怖に顔を強張らせたまま慌てたように口を開く。
「も、申し訳ありません。けっして有り金全部いただこうとまで思ってはいなくて、少しばかり――半月分の食いぶちくらい確保できればと、つい出来心が働いてしまってふらふらと。もちろんあたしが勝手にやったことで、宿ぐるみとかそんな大それたことはしておりませんです、はい」
「成程、貴女ひとりの物取りだと。では、なぜこの部屋を狙ったのです? 他にも客はいくらでもいるのだから、選び放題だと思いますが」
魔女様のさらなる詰問に、中年の女性は哀れな子羊のように震え上がると――なぜか――こちらをちらりと見て、
「そ、それは金払いがよくて羽振りがよさそうに見えたのと、連れの男の人があんまり腕が立つように見えなかったのでちょろ――あたしでも簡単に盗みに入れる隙がありそうかなって、そう思えたからです。……こっちの女の子が、あなたは【
わたしたちを狙った理由を話すのだけど、途中からぼそぼそと聞こえにくい感じになったので、なにを言っていたのかはよくわからなかった(シアはわかったのだろうか?)。
「言い訳は、それでおしまいですか? では、なにも包み隠さず話しはしたようですから、首を飛ばすのはなしにしてあげましょう。もっとも未遂とはいえ盗みに入ったのは事実なのですから、朝になってからでも宿の主人に報告はさせていただきますが。――せいぜい、【
「――シアさん、少しだけ待ってもらってもいいですか?」
そして、当然のように――もちろん、当然でいいはずだけど――断罪を下すシアに、わたしは思わず制止の声を掛けてしまう。
「えぇと、名前は伺ってませんからおばさん、でいいですか? おばさん、まだ全部話し終わってないですよね? だから、どうか教えてください。どうしてわたしたちからお金を盗もうと思ったんですか?」
無言になったのを許可してくれたと(勝手に)判断して、わたしは言葉をそのまま連ねる。質問者が変わったことに戸惑った様子で口ごもる女給には、皿拾いのときに気になっていたことをまっすぐぶつけてみた。
「皿を拾うときの手つきもぎこちなかったですし、
「そう――そうなんだよ、お嬢ちゃん。あんたの言うとおりだよ! あたしだってやりたくてこんなことやったわけじゃないんだ! どうしようもなかったんだよ!」
それが呼び水になったのか、女給が弾かれたように勢いよく言葉を吐き出し始める。
「旦那はそれなりに腕利きの細工師だったんだけど、三月前に隣町へ納品した帰りに山賊に襲われて殺されちまったんだよ。それがケチのつき始めさ。子供たちを育てるためにも先立つものはいるからね、仕方なくここで働き出したんだけど。最近の景気や治安の悪さのせいで客足も半分くらいに落ちちまってるから、もらえる給金も大分減っちまってね。どうしようもなくて困ってたところにあんたらが泊まりに来て、それでつい魔が差したってわけなんだよ」
「そうだったんですか。それは大変でしたね」
「だろう? ひどいもんだよね? ――だから、さ。虫のいいお願いだとはわかってるけど、どうかあたしのことを報告するのはなしってことにしてくれないかい? あたしが牢に入ることになったら、まだ幼い二人の子供がどうなっちまうか。無事で済むとは思えないだろ? だから、ね。ここはひとつ、人助けだと思ってさ――」
「ふざけた物言いですね。他人のものを奪おうとしたのですから、それ相応の報いを受けるのが当然では」
「シアさん、ちょっとちょっと――っ、ちょっとこっちに来てもらえますか?」
事情を明け透けにした上での必死の懇願を一刀のもとに斬り捨てようとした魔女様を、こちらも必死の思いで食い止めて、少し離れたところに引っ張っていく。
「あの、ですね。ご立腹なのはわかりますけど、そこをなんとか水に流すことはできないでしょうか? ほら、わたしに免じてとか。……どうでしょう?」
「他者の罪を免じられるような価値が【
頭を下げてお願いしたけれど、シアから求められたのは当然と言えば当然の
そして、
「……お二人は【
「ええ、そうですが。それが?」
「だとしたら、ここで彼女を見捨てるのは間違っていると思います」
「……それは、どうしてでしょう。彼女は確かに悪人ではないのかもしれませんが、それでも罪を犯したことに変わりはないのでは?」
「確かに彼女は罪を犯したわけですけど、それでもけして許されないほどのものだとはわたしには思えません。そもそも――もし彼女一人も救えないのなら、どうやって世界を救えると言うんですか?」
考えに考えた末に見つけ出した渾身の理由を叩きつける。これで無理ならどう足掻いても(わたしには)無理だと、絶対の確信を抱きながら。
すると、【
「成程……確かに、この程度の者も救えなくては【
「…………それについては、わたしに考えがあります」
的のど真ん中を射抜くシアの指摘は、わたしだって考えていたことだ。だからその指摘に答えを返すために、わたしは一旦彼女から離れて部屋の反対側に向かう。わたしたちの荷物を置いてあるところまで。
女給によって荒らされかけたシアの荷物を横に移動させると、自分の荷袋(こっちはまだ手をつけられていなかった)の口を開けて、中に手を突っ込んだ。袋の中に詰められたものを掻き分け、さらに奥に手を伸ばして――指先に触れた金属の感触をそっと確かめてから、その隣にあった巾着を取り出してみた。
(ごめんね、義母さん……)
心の中で謝罪してから、巾着の口を開けて中味を掌の上にぶちまける。ざらざらと銅貨、銀貨が何百枚……ごめんなさい、見栄を張りました。全部で十数枚ほどの貨幣が、わたしの掌の上に広がることになった。
そのうちの半分ほどをもう片方の手で掴むと、そのまま女給の目の前に差し出す。
「……これをどうぞ。半月分に足りるかはわからないですけど、今のわたしに出せるのはこれがぎりぎりですから、これで我慢していただけますか?」
「――――、……いいのかい? その、あたしとしてはありがたいんだけどさ……」
ちらりとシアの方を怯えた顔で伺う
「いいんです。二人のお子さんのために、ぜひ受け取ってください。ただ、本当にありがたいと思ってくれるなら、もうこんなことはしないでくださいね?」
その言葉が終わるか終わらないうちにぎゅっっと、思いきり強い力で逆に握り返された。驚いて顔を上げて彼女を見ると、涙でくしゃくしゃにした顔で見つめ返される。
「そういえば、お嬢ちゃんの名前を聞いてなかったね。あたしに教えてくれるかい?」
「え? わたしの名前、ですか? ええと……」
いきなり目の前で泣き出されたこと、名前を訊かれたことに戸惑い、わたしは咄嗟に答えを返せない。いや、そもそも、わたしの名前は今、どれが正しいのか自分でもわかっていないからか。
「――リア、ンです」
「リアンさん、だね。ああわかったよ、もうこんなことは絶対にしないとあんたの名前に賭けて誓うからね。この恩とお嬢ちゃんの名前は一生忘れないから、あたしもどうかあんたた――あなたたちの旅が無事に続けられるよう祈らせてもらうよ。ああ、ありがとう、ホントにありがとうね――」
感極まった様子で詰め寄ってくる女給に、わたしはただ圧倒されるばかりでその手を離すこともできないまま、ただ感謝の言葉を延々と聞き続けることになった。
そうして、ようやく彼女の感情が落ち着き、部屋から立ち去ってから(その際も何度も頭を下げていたけれど)――
「……貴女の決断ですから、私が文句をつける筋合いではないのでしょうが。いささか甘すぎるのではないですか? 確かに誓いは立てていましたし呆れるほど感謝を示していましたが、口先ではいくらでも言えることです。彼女がこの後、同じことを繰り返さないと限らないのでは?」
「そう、ですね。あれでたとえ半月分の食いぶちが
でも、とわたしは繋げてみた。精一杯の希望を込めて。
「わたしは信じたいですね。あの人がこれ以上の過ちを繰り返さず、まっとうに生きられる世界を。……なんて、やっぱり甘いですか?」
「ええ、甘過ぎです。どうしようもないほど、大甘ですね」
呆れたようにわたしの甘さをこき下ろしてくる魔女様。けれど、その声にどこか温かさが混じっていたように感じられたのは、わたしの気のせいだったのだろうか。わからないけど、そう思ってもいいような気もする。……きっと、それこそ甘すぎると本人からは文句をつけられそうだけど。
――ちなみに、こんなことがあったというのに同室の【
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