嵐の(やり)過ごし方
――世の中には様々な職業があってそれに就いている人がいるわけだけど、その職業に就いている人特有の嗅覚があるものだとか。
たとえば腕利きの漁師は
それに比べればわたしはほんの数年しか農民をやっていないけれど、それでも少しくらいは農民としての嗅覚は持っているんじゃないかと、そんな風に(勝手に)思っている。
だからわたしがそれに一番に気づくことができたのは、そのおかげなのかもしれなかった――
「…………あれ?」
山道から平地の街道に移ったことで――そして、クッションのおかげで――少しは軽減されたものの、相変わらずの揺れを感じながらわたしは首を傾げた。
ルエンまでの行程の半分を過ぎた五日目の、昼食を終えて太陽が中天から西の空へ傾き始める頃。空を見上げれば雲がいくつも見られるけれど、それでも悪天候と言うほどのものでもない。少なくとも、目に映る景色は平穏そのものだ。
なのにイヤな予感めいたものを感じたのは、鼻先に先程から漂ってきていた水の匂いのせいだろうか。それも強く濃厚な、嵐の気配を予感させるような雨の匂いの。
「どうかしましたか、【
「あ、いえ、雨が降りそう――というか、嵐が来そうな気がしたので、準備をした方がいいのかなって、そう思っただけです」
隣のシアに聞かれるままにそう答えを返す。なにも考えず無意識に近いわたしの
「……成程。確かに西の方に大きな黒雲が集まっているようですね。あの様子ですと、夜までには嵐に巻き込まれるのは避けられませんか。いずれにしろ、前もって予測できたのは僥倖です。よくやりました、【
「あ、はい、どういたしまして……です」
誉められてしまったことにびっくりしすぎて、驚いてしまうことさえできなかった。え、嘘? 夢かな? どうりで嵐が来るわけだ、なんて彼女にバレたら処されそうなことまで思ってしまうくらいに。
が、そんな僥倖もつかの間のこと。
「そうですね、あともう少し――半刻ほども進んでから嵐をやり過ごすことにしましょう。では、それまで【
「はい、わかりました」
すぐにいつもの態度に戻ってしまったシアに、わたしもいつもどおりの答えを返す。
そうして彼女の指示どおりに馬車を進めたところ、ちょうど指定された時間の辺りにみるみる大きな雲が湧き出てきて、青空が一面真っ黒に染まってしまっていた。
「頃合い、ですか。では、そろそろ野営の準備をしてください。今日はこれ以上の移動は無理でしょうから。私は嵐の対策を行いますので、【
街道沿いにまばらに生えている大木に馬車をくくりつけたところに、シアがそう指示を出してくる。
「了解、【
「はい、ふたりで、ですね。こちらこそよろしくお願いします」
いつもだとわたしは主に調理担当になっていて、二人が残りの作業担当になっているので誰かと一緒に作業するのはどこか新鮮だった。それもシアとではなく、エストと一緒にというのがご褒美すぎる(主にわたしの胃を守る意味で)。
時間がないので薪は事前に確保してあった予備用のものを使うことにして、川での水汲みや食器や食材の準備などを手早く済ませる。その間シアは野営場所の中心辺りで、手にした杖を地面に刺すように突き立ててから座り込むなど、なにやら儀式めいたことをやっていたみたいだった。
――やがて、嵐が訪れる。
風が荒々しく吹き荒れ、草や枝などいろいろなものがすごい勢いで宙を飛ぶ光景を、何度も何度も見せられる。その中に大量の雨も混じっているのが、地面や木々に叩きつけられる激しい水音でわかった。まさに天の底が抜けたような大雨とはこのことか。
もしこの嵐の中で無防備にいたら、あっという間に空の藻(?)屑になっていたことだろう。普通の旅人のように
それだけの猛烈な嵐が猛威を振るう光景を、まるで堅牢な屋敷に隠れて見守っているような今の状況は、あたかも夢の中か物語の中に入り込んでしまったような感慨さえ与えてくれる。
だけど、目の前のこれは紛れもない現実なのだった。
「…………はぁ。なんて、すごい……」
呆然と呟きながら、わたしは目の前に手を伸ばす。なにかがあるようには見えないのに、そこには透明な壁のようなものがあった。その無機質な感触と視界を遮ることのない透明性に、城で時折硝子越しに外の光景を眺めていた時のことを思い出す。
「……物珍しく感じるのはわかりますが、結界にはできる限り触れないように。あまり触りすぎると、うっかりそこに穴が空いて結界が壊れる可能性もありますから」
「ぇ? ぇぇぇぇぇ――っっっ!!? は、はい、気をつけます!」
結界を作り出したご本人様の言葉に、わたしは慌てて触れていた壁――を思わせる境界から手を離した。
たった一枚の、あるかないかもわからない壁にも似た薄い膜の境界線。それのあるなしだけが安全な内と危険な外とを隔ててくれているのだから、それが台なしになってしまう行為はさすがに続けるわけにはいかない、と。そう思っての行為に返ってきたのは、少年のこらえきれない笑い声だった。
「く、くは、ははっ。ご、ごめ、ごめんね。笑ったら、いけない、って、わかってる、んだけど。キミの、反応がちょっと、面白すぎて、耐えられ、ないから、ごめん、ごめんね。くくっ、くはっ、はははっ」
「え? エスト、くん……? どういう、こと……? って、もしかして、シア――さん!? 壊れるかもっていうの、嘘、なんですか――っ!?」
笑い転げるエストの姿に、直感がぴんと働いたわたしは迷わずシアを睨みつける。すると、当の本人は慌てた様子も見せることなく、
「なにを言っているのです、【
鍋をレードルでかき混ぜる手は止めないまま、いつものごとくわたしに文句をつけてくる。
……ええと、そうですね、ごめんなさい。与えられた仕事を他人に放り投げてしまったわたしがどう考えても悪いですね。でも、素直に注意するのじゃなくて、嘘をついて騙してくるのはいけないとわたしは思いました。でも、そう言い出す勇気を持てない弱いわたしを許してください。まる。
「……ごめんなさい。お仕事を途中で放り出して、大変申し訳ありませんでした。早速交代させていただきます。……って、鍋、焦げついてませんか!? なんでちゃんとかき混ぜていなかったんですかっ!? いいいからさっさとそこ代わってください! ああもう――っっ!!」
――なんて、甘い考えはシアの不手際の前に一瞬で吹き飛ばされる。
許しがたい惨状を発見したわたしは、瞬時に料理の悪魔と化して不届き者の手からレードルを奪い取ると、鍋を一心不乱に掻き回し始めた。幸いまだ焦げつき始めたばかりのようで、本日の夕食が台なしになることは避けられそうだと、ほっと一息ついたところで手の動きを心持ち緩めてみる。
そんなわたしの態度に、さすがの魔女様も度肝を抜かれたのか? おとなしく横に引っ込んでくれて、その横ではエストがわたしとシアを交互に見比べながら腹を抱えて笑い転げていた。
……などと、そんなすったもんだがありながらも、夕食の熊鍋はどうにか無事完成となる。
不手際のお詫びなのかは不明だけど、例の拠点だか倉庫だかからシアの手によって秘蔵のチーズが持ち出されたことにはわたしもまぁやぶさかではないので、これ以上とやかく文句は言わないことにした。
「とりあえず、ですけど。鍋を焦がしかけた罰として、今日はおかわりはなしにしてくださいね、シアさんは」
「…………いいでしょう。納得できないところもありますが、この場合の責任者は貴女ですからね。甘んじて受けてあげます」
もちろんこれは
……その理由が、手渡したお椀に溢れかえりそうなほど中味が満たされていたことにあるかは、わたしにも定かではない。
なにはともあれ、一段落したことにほっとしながらわたしも食事に口をつける。熊肉はこれまでと変わらない味だけど、そこに濃厚なチーズの甘みが加わることでお互いが引き立てあうのが素晴らしかった。味気ないかちこちのパンを口に運ぶ手も、普段より倍以上も早くなってしまうくらいに。
そんな風に夕食に舌鼓を打ちながら、わたしの目は自然と結界の外側に向いてしまう。
相変わらず嵐は猛威を振るいまくっているようだった。まだ夕暮れにもかかわらず一面真っ黒に染まった光景に加え、話し声がかき消されそうなほど唸りを上げている轟音もその存在を見せつけている。――結界の中にいる限り、本当の意味でその実感を得ることは難しいけれど。
(……でも、本当にすごい嵐。こんな嵐、生まれてはじめてかも)
もちろん、これまで嵐を経験しなかったわけではない。村にいたときも城にいたときも、そのたびに家や城に籠もって嵐をやり過ごしていたものだ。
だけど、その時に比べても今目の前で吹き荒れている嵐は桁違いにすごかった。なるほど、確かにこの調子が続くようだと世界が滅ぶという話も本当なのだと、そう信じてしまえるくらいに(まだ信じていないのかとシア辺りに呆れられそうだけど、わたしとしては正直まだ半信半疑だった。一緒に救世の旅を始めておいて、言えた義理ではないのかもだけど)。
「……【
「ああ、ごめんごめん。ちょっと夢中になり過ぎちゃったみたいだね。ちゃんと食事に戻るから、それ以上のお小言はなしでお願いできるかな【
その一方で、我らが【
ただ、少なくともシアから小言を受けているエストはすごく自然体で、きっとそれが二人にはあたりまえのものだったのだと想像できた。そう、まるで本物の
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