【救世主】の剣と熊肉

 エルドール帝国に滅ぼされたスティリア王国第一王女の影姫。そんなわたしの逃げ場になったドリード村は、ラムリース大陸の西部に広がるニエル山脈の南端(正確には南南西)に位置する。

 近隣の最大都市であるルエン市まで馬車で一週間ほどの道のりだけど、その半分ほどは少し険しめの山道となっている。

 一応馬車が通れるとは言っても、整備も不十分なため楽な道のりとは言いがたく。その上時機タイミングや運が悪ければ、山賊や獣などに襲われることもあるという話は聞いていた。

 だからわたしも御者をしながらそれとなく警戒していたのだけど、丸二日過ぎてもなにごとも起こらないことで、緊張感が緩んでしまってしまう。しかしながら、厄介ごとというものは現実にしても物語にしても、そんな風に油断したときに限って降りかかってくるわけで――


「…………ふぁぁ…………」

「ふふっ、すごいあくびだね。もしかして、寝不足だったりするのかな?」

 旅立ちから三日目の昼下がり。今日ははじめて午後からの担当がエストになっていた。それで安心してしまったのか、それとも昼食を取った直後に馬車の揺れが眠気を誘ったからか、うっかりあくびをしてしまったところを見られてしまったのだ。うう、恥ずかしい……

「そういうわけじゃない、と思いま……思う。ただ、お腹がいっぱいになったとか体を揺らされるのが気持ちよかったとか、ちょっと暖かくなってきたとかでうっかり眠くなっただけだと」

 いつもより少しだけ長い冬が終わり、春の陽気が漂ってきたのが悪いのだと。わたしはそう自然に責任転嫁して、ごまかすことにする。

「あー、わかるわかる。体が温まると、どうしても眠くなっちゃうよね。あれってどうしてなんだろうね?」

 すると、春の陽光が似合いそうな【救世主メサイア】様も、普通に賛同してくれた。これが黒い魔女様だと、そうはいかなかったことだろう。

 今このタイミングで横にいたのがエストだったことを神様に感謝しながら、わたしは話を続けようと――話題はこのさいなんでもいいから――口を開きかけた。

 と、その瞬間、彼の表情がいきなり真剣なものに変わる。同時に、邪魔になるからと脇に置いていた剣に手を掛ける。

「――【我が主マスター】」

「うん、わかってるよ【師匠マスター】」

 さらに空間を隔てる白い幕を開けて、荷台からオルテンシアまで顔を出してくる。二人は合図を送るように短く言葉を交わすと、

「それじゃ、ちょっと馬車を止めてくれるかな」

 エストから告げられた指示に応じてわたしはすぐ馬車を止めた。腰を揺らす振動も止まり落ち着いたところで、そっと周囲を窺ってみる。

 すると馬車から少し離れたところの、わたしたちの前方にある鬱蒼とした繁みの蔭から、一匹の熊がのそりと出てきたのだった。

 さすがに熊と遭遇した経験はないので、種類なんかはわからない。ただわたしどころかエストよりも一回り大きい体躯はさすがに威圧感がある。ただし冬眠がうまくいかなかったのか、その体は痩せ衰えているようではあった。

「冬眠明け、それも明らかに飢えてそうな熊、か。お嬢さんレディ、危ないからそこから動かないでね」

 わたしにそう優しく言い聞かせると、そのまま御者台から地面に飛び降りるエスト。ゆっくり近づいてくる熊にむけて歩き出しながら、手にした剣を鞘から抜き放つ。白銀の刀身が日の光を反射して、目映まばゆく煌めいた。

 その光に反応したのか、熊の方も唸り声を上げながらエストに向けて進路を微調整する。そのまま臨戦状態に入る――即ち、【救世主メサイア】の剣の腕前が今ここで明らかに、と期待してしまった瞬間。

「…………あれ?」

 熊の首が不自然に片側に傾いたかと思うと、そのままゆっくりとずれていき、最後にはまるごと体から滑り落ちてしまう。

 あっけにとられたわたしが思わず後ろを振り返ると、そこには黒ローブに身を包んだままのシアが涼しい顔で――ヴェールで見えないはずなのに、なぜかそう確信できた――悠然と佇んでいた。どう考えても彼女が魔法を使ったはずだけど、携えた杖を振るったようにも呪文を唱えたようにも見えないのは、どういうことだろうか。

 よくわからない状況に首を傾げながら、視線を再び前方に戻したわたしは今度こそ絶句してしまう。首をなくして絶命した熊の死体に剣を押し込み、四肢を切断、解体しているエストの姿を見てしまって。

(剣を抜いたのって、そういう用途だったの……? 【救世主メサイア】って、【救世主メサイア】っていったいなんなの?)

 わたしの中で密かに育まれていた幻想ゆめが、容赦なくぶち壊されてしまった瞬間だった。


 ――そして、当然ながらその夜の食事は熊鍋となる。


 ぐつぐつと煮立っている鍋に差し入れたレードルを引き上げ、すくい上げた煮汁を一舐めして味を確かめる。実は熊肉を食べるのははじめてだから不安はあったけれど、どうやらうまくいったみたいだと胸を撫で下ろした。

 鍋に放り込む前はすごく臭かったけれど、シアが一緒に入れた香草のおかげか見事に打ち消されている。蕪や人参など野菜の煮込み具合もいい感じになってきたのを確認すると、わたしは各自のお椀になみなみとよそってからそれぞれに手渡した。

「お待たせしました、はい、どうぞ。……そっちが【我が主マスター】で、こっちが【師匠マスター】の分です。あ、熱いので火傷しないように注意してくださいね」

 呼び方をわざと真似してみると、意図を汲んでくれたのかエストが口元をほころばせてくれる。一方シアの方は相変わらずヴェールで表情が見えないから、反応がちっともわからない。呆れたのか怒ったのかどうとも思っていないのか。どの感情ひょうじょうも見せることはないまま、ただ器用すぎる食べ方を見せつけてくるシアに、わたしが思うことはただひとつ。

(だから、素顔、素顔を見せて……っ。一度でいいから、見せてくれないなぁ。どんな顔なのか知りたいのに)

 貯まりに貯まった好奇心が膨らみすぎて爆発しそうになるのを、必死の思いでやり過ごす。そんなわたしの苦労なんて(文字通り)知らない顔で、熊鍋に舌鼓を打っている魔女様。

 それでも美味しそうに夢中で食べてくれてるのは、調理した者として嬉しくはあったから。

 わたしは文句をわざわざ口に出すこともなく、ただ黙って自分の分を食べることにする。

 はじめて食べる熊肉は――香草で中和されていても――独特の臭みこそあったものの、脂身から染み出る濃厚な甘味が舌をたっぷりと喜ばせてくれた。新しい世界をじっくり堪能し、満足して夕食を食べ終えたところで、わたしはそれまで敢えて存在を無視していたとあるモノにようやく視線を向ける。

「……あの、ところで、あそこの残りの肉はどうするんですか?」

 その視線の先にあるのは、山――というよりは丘だけど――と積まれた大量の生肉の塊だった。

 エストが熊の死体を解体した後、全員で血抜きを施した――一言、重労働でした――熊肉は、ルエンに着くまでの残り三日で使うたべる予定のものを除いても、まだ大量に残ってしまっている。これだけの量を三人で食べきれるわけがないし、なんの処理も施さないままだと腐るだけ(正直そうするのは許しがたいし、心苦しい)。かといって干し肉にしようにも時間と手間が掛かりすぎて、旅の途中で行うのは少し難しいように思えた。

 だから旅慣れているはずの二人がどうするのかと思っていたのだけど、ただ塩漬けしただけでなんの言及もないまま今の今まで未処理だというわけで。さすがにこのまま見なかったふりもできないから、意を決して二人に聞いてみたところ、

「もちろん、このまま干し肉とするつもりですが。塩漬けにはもうしていますから、後は乾燥させればいいだけですし。……貴女も干し肉を作ったことはあるでしょうから、やり方は知っているはずでしょう?」

「それは、はい、作ったことはありますけど。でも、ひときれふたきれならともかく、さすがにこれだけ大量の干し肉を作るには、ちょっと時間も場所も足りないような気がするので……」

 シアから返ってきた答えに思わず口答えしてしまうわたしだった。

 ……だって、これから作業をまた延々と続けることになるのはまだしも我慢できるけれど、馬車の中で吊られた熊の干し肉(とっても臭い)に囲まれて寝るのはさすがに勘弁して欲しいのが、わたしの偽らざる本音なのだから。

「それについては、なんの問題もありません。乾燥作業は魔法を使えば簡単に終わりますし、肉を吊す場所の方もちゃんと馬車ではないところを用意してありますから、貴女の心配はただの杞憂です」

「…………? 魔法で、ですか?」

「ええ、魔法です。黙って見ていなさい、【下僕サーバント】」

 予想外の返答に首を傾げながら聞いてみると、シアは黒ローブの袖から突き出された白い手で塩漬け肉を一切れ掴む。すると、白い光が彼女の手の中に溢れ出した。驚き、眩しさに目もくらみかけたわたしに、そのままその肉を投げ渡してくる黒い魔女。

「!? これって……?」

 驚いたことに、手の中の熊肉は数日干していたように固くなっていた。正直どんな仕組みかもわからないしこんな魔法なんて聞いたことがないけど、現実なのも間違いなかった。

「完全に乾燥しきれたわけではないですから、もう数日干し続ける必要こそありますが。それでも時間の問題はこれで解決しましたが、なにか問題でも?」

「いえ、ありません。ありません、けど、こんな魔法なんて、あるんですね……」

「私が編み出しました。……暗黒大陸で必要に迫られましたから」

「そうそう、あれは本当に酷かったよね。象、だったっけ? あの牙が生えてて鼻が長くておっきい獣。あれを食べられなかったら、僕たちホントに飢え死にしてたかもだし」

「ええ、本当に。まさに地獄そのものでした。おかげで食糧の確保、維持は常に心掛けるようになりましたね」

 どうやら過去になにか辛い出来事があったのか、二人とも悲哀に満ちた声と顔(エストだけ)でしみじみ語り合っている。その内実は第三者のわたしにはよくわからないけれど、それでも二人の感じたであろう苦しみについては理解できるつもりだったから――

「わかります! 大事ですよね食糧の確保! わかりますわかります!!! 何日も食べるものがないのって本当に辛すぎるから、飢え死になんて絶対にしたくないですよね!!」

 思わず拳を突き上げ、全力で主張してしまっていた。……我に返ったときにはもう遅い。エストの少しびっくりしたような視線が、ちくちくと突き刺さってくる。

「ご、ごめんなさい。ちょっと興奮してしまいました。驚かせてしまってすみません。

 ……え、えーと、ですね。そ、そういえば時間の問題はこれで解決したのはわかりましたけど、場所の方はまだですよね? そっちはどうなってるんですか?」

 その視線にいたたまれなくなったわたしは、早口で強引に話題を次に移した。いえ、もちろん、気になってるのは本当ですからね。ね?

「ああ、ああいう風に言われちゃうと、やっぱり気になるよね。【師匠マスター】、せっかくだから【下僕サーバント】に教えてあげてくれるかな?」

「……うけたまわりました。他ならぬ【我が主マスター】の要望でしたら、速やかに応えるのが従者の務めですから」

 他ならぬ【救世主メサイア】様の指示に快く(?)応じると、シアが虚空に指を伸ばして線を描くように動かす。と思った瞬間、なにもなかったはずの空間に一本の線が現れて、次の瞬間には二つに分かれてしまった。まるで見えないなにかがそこに居て、大きな口を開いたみたいに。

 驚きのあまり口をぽかんと開けて見つめるだけのわたしの目の前で、シアは魔法で乾燥処理済みの熊肉一切れを指で軽くつまむと、その口のように開いた空間へと無造作に放り投げる。

 空中を浮遊する獣肉は、けれどどうしてか――魔法の力?――地面に落ちることもなく鳥が飛ぶように一定の高度を保ったまま、魔法で生み出された? 口の中へそのまま呑み込まれていった。

「えっ、と……? これって、どういう、こと、なんです……?」

「私の魔法で、【我が主マスター】と過ごした私たちの拠点とここを一時的に繋ぎました。今は主に倉庫として利用していますが、そこに置いてある土人形ゴーレムを使って吊しておけば、ルエンに着く頃には問題なくできあがっているでしょう」

 シアが言ってることは、正直なところちんぷんかんぷんなわけだけど。それでもわたしのない頭で考えてみた結果、つまりこの口のようなものは、わたしが城から逃げるときに使った移送器ゲートみたいなものだと結論が出るのだけど、そういうことなのだろうか。そういうこと、なんだろう、きっと。よくわからないけれど。

「あ~、とりあえず、理解はできた、と思います。

 で、ですね。その、魔法でそんなことができるのなら、わざわざ馬車で移動しなくてもよかったんじゃないでしょうか。あの、移送器ゲートの時にも同じこと言いましたけど、固定されて置かれてるモノじゃなくて自分の魔法ならいつでもどこでも使えるし、大きさだって変えられそうだって思ったので……」

 そこで新たに復活した疑問をわたしが突きつけてみると、

「成程、さすがは【下僕サーバント】ですね、いい着眼点です。……などとは、言いません」

 黒い魔女がヴェールの向こうで嘆息する気配が感じられた。

「まず一番重要な点ですが、この魔法はどこにでも繋げられるわけではありません。私が訪れた場所にしか無理ですし、その場合でも事前にそれなりの準備が必要ですから、今回の旅には使えません」

「…………そう、でしたか……」

「それに付け加えれば、これを人の移動に使うのは危険すぎますから。例えばもしも移動中に魔力が途切れた場合、そこで空間が分断されることになりますので。下手すれば身体が真っ二つとなるでしょう。胴体から上下分割、されてみたいですか?」

「い、いえいえいえいえいえいえいえいえっ。結構です――っっっ!!!」

 ぶんぶん頭を振り回して、必死に否定する。思わず胴体が輪切りになったわたしを想像してしまい、気分が悪くなってしまいながら。

 対するシアの方はそれでわたしに興味をなくしたのか、それ以上はなにも語ろうともせず、再び熊肉の乾燥作業に戻ってしまうのだった。

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