水車小屋にて

 エストに指定された水車小屋は、村の西側の外れに位置している。当然のことだけど、すぐそばを大人がぎりぎり向こう岸まで飛び越えられるくらいの広さの川が流れているだけの、普段は――粉挽き作業以外では――あまり人の寄りつかない寂しい場所だ。

 その、ぽつんと立った古ぼけた煉瓦造りの小屋の前に、金髪の少年と黒ローブを纏った女性の姿が見えた。義母とのお別れを済ませた後はすぐに向かったつもりだけど、どうやらあちらの方が早く準備が終わったらしい。

 けれど、それよりもわたしを驚かせたのは、彼らの傍らに見えるもの――馬車の存在だった。

 一頭立てで荷台も幌付きではあるものの、せいぜい二、三人が横になれるくらいの大きさしかない小型のものだ。おそらく村長宅の馬小屋にでも置かせてもらっていたのだろう。事前になにも言われていなかったから初見では驚いてしまったけれど、冷静になれば長旅をしているのだから馬車くらい使っていても不思議じゃないと、納得もできる。

「すみません、遅れてしまったみたいですね。たいへんお待たせしました。……馬車、持ってたんですね……」

 けれど、驚いたのも事実だからそんな呟きが自然と漏れてしまうのも、きっと仕方がないことだった。

「ああ、そんなには待ってないから大丈夫だよ。それより、ちゃんと来てくれてほっとしたのが、正直なところかな。それで、さすがにずっと徒歩だといろいろときついから、ね。荷物は……まあなんとかなるけど、それでも馬車があるとないとでは便利さが雲泥の差だから。

 もしかして、これまで馬車に乗ったことがなかったりするのかな?」

「あー、っと……そんなことはないですね。数回程度、ですけど。一応乗ったことはあります」

 なんて言っても、実際に乗ったことがあるのは四頭仕立ての王族仕様の豪華なものだったから、目の前の馬車ものとはなにもかも違っているだろうけれど。とりあえず嘘は言っていない、はずだ。

「成程、いいことを聞きました。経験がなければ教える手間が掛かるところでしたが、どうやらその心配はなさそうですね。安心しました」

 すると、オルテンシアがぽつりとそう呟いたのが聞こえてくる。途中で表現を変えたとはいえ雑用という言葉は聞き取れてしまったから、そういう役目を振られることは予想かくごしていたので、構いはしないのだけど。問題なのは、わたしがそれをちゃんとできるかどうか。

 ……正直まったく自信はないんだけど、大丈夫なのかな?

「こうして無事合流も済んだわけだし、そっちも忘れ物とかは特にないよね? あ、セルマさんとのお別れは、ちゃんと済ませてこれたかな?」

「はい、大丈夫です。問題ありません。お気遣いありがとうございます」

 最後の確認、という感じの流れで自然に出されたエストの問いかけに、努めて感情は出さないように畏まって答えてみる。いろいろと言いたいことはあるけれど、それを言い出してしまったらきっとみっともないことになりそうなので、自重しながら。

 そんなわたしの素っ気ない返事にも、【救世主メサイア】様はにこやかな表情を崩すことはなく――

「それならよかった。じゃあ、心残りはもうないよね? だったら出発――の前にひとつだけ」

 なにか思いついた風に呟いて、わたしに向けて右手を差し出してくる。相変わらず、まるでどこかの王子様か白馬の騎士様みたいに、純白の手袋に包まれたままの右手を。

 その手を取ることを一瞬躊躇ってしまったわたしは、反射的に彼の目を見つめてしまう。透き通った薄い碧の瞳はわたしの視線をまっすぐ受け止めると、どこか不思議そうに揺らめいたように見えた。

「えーっと、もしかして握手は駄目とか、そういう信条でも持ってたりとかするのかな? それとも、単に僕なんかと握手なんてしたくないとか、じゃないよね?」

「あ、いえ、違います違います。握手は駄目とかエストさんとはしたくないとか、そういうのは全然ないですから。ただ……その、手袋をしたままというのに少し戸惑ってしまただけで……」

 その綺麗すぎる瞳に気後れしてしまったのか。語尾を消え入りそうにさせながら、わたしがどうにか躊躇いの理由を答えると、

「【救世主メサイア】の御手みては、神聖にして汚されざるべきもの。そこらの民草の薄汚れた手にみだりに触れさせるのは禁忌というだけのことです。その真理を理解できたなら、速やかにその手を取りなさい。――貴女はもう【下僕サーバント】として、【我が主マスター】に仕えることを受け入れたのですから」

 黒ローブ越しにオルテンシアが厳かとも言える口調でそう語りかけてくる。まるで、巫女が託宣を告げるように。

 その【下僕サーバント】という単語とか、高慢な態度に反発を覚えなくはなかったけれど。結局文句を口に出すようなことはせずに、わたしは黙ってエストの手を握りしめた。

 少し厚めの絹の布地からは体温も感じられない。けれどしっかりと、それでいて優しくわたしの手を包んでくれる彼の大きな手からは、確かな温もりを受け取れるような気がした。

「それじゃあ、これからよろしく。いろいろと仕事をしてもらうつもりだから、できるだけ頑張ってくれると僕もありがたいかな」

「はい、よろしくお願いします。……できるだけ頑張りますので、少しくらい手加減してもらえれば、わたしもありがたいですけど、ね」

 役立たずのわたしが、世界を救うという大事な(はずの)旅の役に立てる想像イメージなんて、まったく浮かんでこないけれど。それでも頑張ってみる、くらいのことはできるはずだから。こんなわたしでもなにかを為せるなら、なにかを為したいと思っているのも本当のことなのだから。

 最後に本音混じりの軽口を添えて、無事契約? の握手を終えて離れた手をそのままオルテンシアの目の前に持って行く。当然、そのままの流れで仲良く――というのは無理かもしれないけれど――握手となるのだと、そう確信していたのだけど。

「「……………………」」

 現実は、ただ無言のままなんともいえない時間が続くだけだった。えと、わたし、間違ってないよね? ここは普通彼女オルテンシアとも握手するのが自然なはず、なのでは?

「ええと……あの?」

「? ……ああ、もしかして私とも握手をするつもりでしたか? 成程、仕方ないとは言え浅はか過ぎる判断ですね。貴女が仕えるべきは【我が主マスター】一人。故に、関わるべき相手も【我が主マスター】だけです。もちろん、私もいろいろと指示を出す機会はあるでしょうが、貴女はただそれに従うだけで構いません。ですから私と交流する必要もなければ、握手を交わす必要もありません。――私からは以上です」

 ぴしゃりと、そう形容したくなるくらいあからさまな態度で、友好の意思を拒絶されてしまう。行き場のなくなった右手を仕方なく引っ込めると、わたしは――目の前の意地悪さんには気づかれないように――そっとため息をついた。

「ああ、うん、まぁ、とりあえず、お喋りはこれくらいにしておいて。そろそろ出発しようか。ね?」

 漂い始めた不穏な空気をかき消すように、ぱん、と掌を打ち合わせてエストが出発の音頭を取ってくれる。その見事な切り替えフォローに感謝しながら、指示されるままに馬車の荷台に乗り込んでみた。

 人が座るための腰掛けも置かれていない、煌びやかな装飾が施されているわけでもない、ただ中途半端な広さで板敷きが敷かれているだけの空間に新鮮な感慨を覚えながら、わたしは隅っこを選びひとつだけの手荷物として荷袋を置いてみる。

 ――本音を言えば、世界なんて別にどうなっても構わないと。そう思っているわたしが、本当に彼らの救世の旅についていっていいのかわからないけれど。

 いずれにしろ、このわたしが【救世主メサイア】様の従者として行うことになった旅の日々は、こうして始まってしまったのだった――

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