旅立ちの朝に

 樫の木戸を押し開けて外に出ると、上の方から鳥の鳴き声が聞こえた。つられて空を見上げると、そこには雲ひとつなく澄み切った青空が。遠く高く浮かびあがる春の空は、旅立ちを祝福しているように見えなくもなかった。

 ようやく肌寒さが薄らいだ早朝の清々しい空気を吸い込むと、わたしはいつものように共用の井戸へ向かい、日課の水汲みを始める。日課だから軽いもの、と片づけたいところだけど、重いものは重いのは変わらない。

 こういうとき男手がいてくれたら助かったのかな? なんて思ったりしながら、水で満杯の木桶を両手にぶら下げ家まで運んでいく。もちろん、途中で二回くらい休憩を挟みつつ。すると――

「ああ、おはよう。朝の水汲みかな? 大変そうだね」

「おはようございます、エスト……さん。毎日なので慣れてますから、平気は平気ですよ。まぁ、大変じゃないとは言いませんけど」

 ちょうどタイミングがかち合ったのか、同じように我が家へと――あちらは村長さん宅から――向かう二人とでくわすことになった。

 二人の申し出への返事かいとうはもう決まっていたので、その点では心の準備もできていたのだけど。それでもこんな状況で会うとは思ってもいなかったので、少し慌ててしまったのは事実だ。その動揺が表に出ないよう取り繕ってみたけど、なんとかごまかせたらしい。……ごまかせた、よね?

「そっか、毎日こんなことをやってるんだね。……だったら、せっかくだから僕が代わりに運んであげようか? 向かう先は一緒なんだし、ついでってことで」

「え? いえ、そんな、そこまでしていただくわけ、ちょっ、待ってくだ――」

 制止の声も届かず、水で満杯の桶はわたしの手から【救世主メサイア】様の手に、ふたつとも移ってしまった。

 困ったわたしが救いの手を求めてもう一人に縋る視線を向けてみても、その相手――オルテンシアは全く関心を見せるそぶりもなく、ただエストの後ろを無言で付き従っているだけで、わたしの役にはまったく立ってくれそうもなくて。

 結局、わたしは手ぶらのまま我が家に辿り着いてしまう。

「ごくろうさん、リア――って、お二人も一緒だったのかい。なんだい、しかも【救世主メサイア】様に手伝ってもらってるじゃないか。うちの娘の仕事なのに、わざわざ手を貸してもらって申し訳なかったね、【救世主メサイア】様。っと、ありがとうくらい言わないといけないね」

「いえ、僕が勝手に出しゃばっただけなので、お気遣いなく。これはこちらでいいですか?」

 勝手知ったるふうに義母とやりとりをかわすと、そのまま水桶の中味を水瓶の中に丁寧に注いでくれるエスト。そんな彼にどこか呆れた気分になりながら、わたしは二人と同じようにいつもの場所に腰を落ち着けた。

「ま、ちょうど食べ頃になったからいいタイミングだし、お二人も準備も万端のようだから。さっさと朝食にしようか」

 すっかりリンツ家の食卓に溶け込んでしまった二人に苦笑を浮かべながら、義母がいつものように温かいスープを椀によそって、各自に手渡してくれる。

 ナスにキノコ、トマトなど野菜を中心に煮込んだものに薄く切った干し肉を混ぜ込んだスープに、かちかちのライ麦のパンと野イチゴを添えた朝食はいつもと代わり映えしない質素なものだけど、旅の途中の二人にはご馳走なのか食前の祈りもそこそこに手をつけ始めていた。

 そんな二人とは対照的に、わたしはいつもより丁寧に祈りを済ましてから、スープに浸して柔らかくしたパンをゆっくり口に運んでいく。……最後の時間を惜しむように。

「……ああ、昨日までのスープも素晴らしいものだったけど、今日のはそこからさらに美味しくなってるね。もしかして、味つけを変えてみたのかな?」

「ああ、ごめんなさい。今朝のスープを作ったのはわたしじゃなくて――」

「過分に誉めてもらって恐縮だけど。このスープはこの子じゃなくて、このあたしが作ったもんなんだよね。せっかく【救世主メサイア】様に誉めてもらったのに、もしかしたらがっかりさせちまうかもだけどさ」

 わたしたちふたりの種明かしれんけいに、ぽかんと口を開けてしまうエスト。うん、わたしのスープは義母さんの直伝だから、まだ義母さんの方が美味しいんだよね、と。心の中で誇らしげに勝ち誇りながら、わたしも彼と同じようにスープを味わってみた。

「ああ……いえ、確かに驚きはしましたけど、がっかりはしていませんよ。成程、リアンさんの料理の腕前はお母さん直伝だったんですね。いいことを聞かせてもらいました」

 エストの方もすぐに表情をいつもの柔和なものに戻すと、感心したような口調でにっこりと口元を緩ませる。いいことかどうかはわからないけど、義母との繋がりを誉められるのは嬉しいので、わたしもにっこりと微笑んでみた。

 ……ちなみにオルテンシアはといえば、わたしたちがそんなやりとりをしていた間ずっと、我関せずとばかりに無表情(きっと)に無言のままスープをお代わりし続けていたのだったり。

 そして――

「――さて、と。それじゃあ一息ついたことだし、そろそろ昨日の返事を聞かせてもらえるかな?」

 多めに作ったはずのスープをみんなで――主に客人の二人で――空にしてしまってから、義母とふたりで後片付けを終わらせ。ひとまず一段落ついたところで、居住まいを正したエストがそう問いかけてくる。

 その態度にこちらも思わず体を硬く強張らせてしまいながら、彼と正面から向きあった。まっすぐこちらを見つめてくる碧の瞳と視線がぶつかる。すると、彼はこちらを安心させるように柔らかく微笑んできた。

 それでわたしの心がほぐれて楽になる――こともない。

 なぜなら優しく微笑んでくれる【救世主メサイア】様のすぐ隣で、同じように佇む魔女様が鋭く睨みつけてくるような視線――ヴェールで隠れて見えるわけがないはずだけど、そう思えるくらいに強い圧が全身にのしかかってくる――を送ってくるのだから。

(……うう、怖い、怖すぎる。蛇に睨まれた蛙って、こういうことを言うのかな?)

 ――なんて、こちらを脅かしてくる無言の圧力から逃れるために、わたしは自分の隣に視線を移して義母に救いを求めた。こちらを不思議そうに、でも温かく見つめてくる視線に勇気を取り戻すと、そのまま思い切って口を開く。

「そう、ですね。義母と話し合って――本当に真剣に話し合って、なんとか決められました」

 正直、全部納得できたわけじゃないけど。でも、そうすると決めたのはわたしだから、それに嘘をつくわけにはいかないのだから。わたしは答えをはっきりと言葉かたちにした。

「お二人の……エストさんの提案を、受けようと思います。正直言って、お役に立てる自信は全然ないですけど、できる限り頑張ってみるつもりですので、よろしくお願いします」

 そう言って頭を深く下げると、対面からほっとした気配が漂ってきたような気がした。顔を見ることはできなかったから、わたしが勝手にそう感じただけかもしれないけれど。

「ありがとう。色よい返事が聞けて、とても嬉しいよ。セルマさんも色々とありがとうございます。……それで、できれば今日中に出立したいから、今から荷物をまとめてもらっても構わないかな?」

「あ、それなら大丈夫です。荷物の用意はもうできてますから」

 おずおずと伝えてくるエストに、わたしは自信満々に胸を張って答える。

 昨晩の義母との話し合いが終わってから義母に促されたこともあり、もうすでに旅支度はできていたのだった。持って行けるものが少ないから簡単だっただけとはいえ、いろいろと驚かせられてきた【救世主メサイア】様にお返しができたのなら、やり遂げた甲斐があったと言えるかも。

「……良い心掛けですね。それでは他に問題がないようならすぐに出立しますので、速やかな準備をお願いします。ああ――私たちも支度に掛かる必要がありますから、その間にお別れが必要ならどうぞ御自由に。では、【我が主マスター】」

「ん? ああ、そうだね。じゃあ、僕たちも支度をすませてくるから、キミも用意ができたら村外れの水車小屋にでも来てくれるかな。そこで待ち合わせってことで、よろしくね」

 そして、いきなり口を挟んできたオルテンシアに応じる形で、わたしに向けての最初の指示をエストが残していったかと思うと、二人ともそのまま家から出て行ってしまう。

 後に残されることになったわたしは、同じようにちょっと面食らった表情の義母と一瞬見つめ合ってから、とりあえず言われたようにまとめていた荷物を取り出してみた。

 少し大きめの荷袋の中には、着古した数着の衣服にそれより少しだけ多めの下着類と、手布ハンカチ襟巻きスカーフ。後はナイフに糸と針、包帯などの小物の類。それと旅には欠かせない、水袋や灯照石などが入っているだけ。

 ……件のペンダントは少し迷った末に、身に着けるよりもしまっておくことを選んで、できるだけ奥の方に押し込んでおいた。

 それだけで、旅立ちの準備は終わってしまう。後は一張羅の外套を身にまとえば、いつだって旅立てる。そうなると、どうなるかと言えば。

「「…………」」

 微妙に気まずい沈黙が室内に漂うことになった。

 後は指定された水車小屋に向かうだけだから、その前に義母にお別れをというのがあるべき流れなのだけど――事前に他人から言及されるとすごくやりづらくて仕方ないんですけど!

「……えっと、それじゃ、行くね」

 なんて、ここにはいない人オルテンシアを恨んでいても仕方ないので、気を取り直して義母に声をかける。義母の方もなんとかうまく切り替えられたのか、いつものようにからっとした笑顔を見せて、

「ああ、行っといで。ちゃんと旦那を連れてこないとうちの敷居はまたがせないから、そのつもりでいるんだよ」

「はいはい、わかってる、わかってます。ちゃんと旦那さんどころか子供も連れて帰ってきてあげるから、義母さんは楽しみにして待ってればいいからね」

 いつものような軽口をわたしと交換させた。湿っぽいお別れなんてリンツ家の流儀じゃないから、笑って済まそうと思ってのことだけど。……ああ、でもやっぱりダメか。これが最後になるのかもって思ったら、どうしても感情が抑えきれないや。昨夜ゆうべにちゃんとお別れはしたはずなのに、ほんとどうしてなんだろう?

「……六年間、本当にお世話になりました。わたしが今こうしていられるのも、みんなあなたのおかげだから。だから、ありがとうございます。ずっと一緒にいられなくて、ごめんなさい」

「いいんだよ、あんたが謝らなくて。子供が親離れするのは当然だからね、その時がきたら一緒にいられなくなるのも仕方ないってことだよ。それに、この六年世話になったのはあたしも同じだからね。だからさリア、あたしからもお礼を言っとくよ。ありがとうね、あたしの子供になってくれて。あんたみたいな子と一緒にいれて、あたしは本当に幸せだったよ」

 こみ上げてくるものを隠すために、お互いにひしと抱きしめ合う。不細工になった顔はけして互いに見せないように。おそらくそれが最後の時間になることを、ふたりとも知っていたのだから。

 ――そうしてわたしは、三人目の母親に三度目のお別れを告げたのだった。

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