第29話 ☆ fifth visitor 魔王の晩餐

「ふう。こんなものでしょう」


 私――ノーチェは、日課の教会の掃除を終え、小さく息を吐き出しました。


 私が、ティリア様からダンジョンに設立された教会の司祭という大役を任されてから、もう早くも一か月が経ちました。


 壁一枚隔てた先に魔王がいると思うと、初めは夜も眠れませんでしたが、偉大なる聖光神様の加護のおかげで、今は教会の運営も軌道にのりはじめ、充実した日々を送っています。


 コンコンコン。


「どうぞ」


 控えめなノックの音に、私は自ら扉を開けに行きました。


「こんにち、は」


 扉を開いたその先には、魔王が使役している奴隷の姉妹の一人がぽつんと佇んでいます。


「あら、シフレさん。どうされたのですか? もしかして、光神様に仕える気になられました?」


「違い、ます。……ご主人様のお使い、です。その、ご飯が、できたので、ノーチェさんを、呼んでくるように、仰せつかっているので」


 私が笑顔でそう呼びかけると、シフレさんは嫌そうに顔を歪めました。


 彼女のご両親を殺めたのが聖光教徒を名乗る不届き者だったせいで、シフレさんはどうも私にまで苦手意識を持っているようです。


 悲しいことですが、諦めずに時間をかけて神様の教えを説こうと思います。


「食事ですか。ならば、いつものように持ってきて頂ければいいのではないですか」


 私は仮にも聖光神教の名を冠する教会を預かる者として、魔王を監視こそすれ、慣れ合う訳にはいかない立場なのです。


 ただでさえ、偏見の目で見られがちなダンジョンに設置された教会です。


 ちょっとしたことで、魔との関わりが疑われやすい環境にあるのですから、なるべく行動は慎まなければいけません。


「いつものと、違って、今日は、ご主人様が料理をされたので。ノーチェさんがご所望の、炊事ができる道具の、試験も兼ねているそう、です」


 シフレが必死にそう説明します。


「わかりました。参りましょう」


 私は不承不承頷きました。


 魔王本人にならばもっと色々詰問したいところですが、ただの使いであるシフレさんを困らせても仕方ありません。


 教会を出て、魔王の営んでいる商店兼宿屋へと向かいます。


「――グリシナ様!?」


「あら。こんにちは。あなたは、確かノーチェちゃんだったわね」


「そ、そうです。私の名前を覚えていてくださってありがとうございます」


 私がグリシナ様とお会いしたのは、たった一度だけ、しかもそれはもう五年前のことです。


 あの頃はまだ、シャテル様に仕えてすらいなかった一教徒の私の名前も、グリシナ様はしっかり覚えてくださっていたようです。


 さすがは賢者様です。


「よかったわ。まだボケてなかったみたいで。ティリアちゃんは元気かしら」


「は、はい。使徒としてご立派に聖光神に仕えておいでです。グリシナ様はどうして――」


「おい、ノーチェ。世間話は後にして、さっさと座れ。あ、それで、これ、お前の欲しがった調理器具一式な。後で同じ物を渡すから」


 魔王ジューゴがそう言って、私とグリシナ様の話に割り込んできました。


「何ですか、それは。私が要求したのは、薪と、竈が使える炊事場ですよ」


 私は、魔王の使っているアイテムに胡乱な目を向けます。


 輪になった炎が出る不思議な箱の上に、金属製ではない鍋がのっかっています。


「んなこと言われても、薪だと煙が出すぎて換気とか色々面倒なんだよ。専用の部屋を設置するにもコストがかかるし。要は煮炊きができればいいんだろ?」


 魔王は気怠そうに言って、鍋の蓋を取ります。


「それはそうですけど……」


 魔王の言ってることは間違いではないのでしょうが、素直に聞くには釈然としないものを抱えながら、私は煮立つ湯を見つめます。


 中で湯だっているのは、もはや見慣れたツルツルした袋です。


 この魔王が寄越してくるものは過剰に包装されているものが非常に多いです。


 最初は高級品だと勘違いして、殊勝な心掛けだと思っていたのですが、どうやらそうでないようです。


「わかったならさっさと席につけ」


 魔王は一方的にそう言って配膳を始めました。


 いつもは商品棚になっている箱が食卓に代わり、そこに銀の皿が並びます。その上にはすでに、最近やっと馴染んできた『コメ』という主食がのっていました。


 私が、この魔王をわからないところはこういうところです。


 傲慢に命令してきたと思えば、それにしては奴隷がいるのにそれを使わずにこうして自ら配膳をして見せたりします。


 いや、そもそも、それを言えば、奴隷を同じ食卓に着かせる時点でありえないのですが。


 彼は奴隷たちに服も食事もかなりいい物を与えているみたいだし、客も種族によって差別しないし、相手がどんなに強くても弱くてもぼったくりも勘定の誤魔化しも一切しません。


 そこだけ抜き出せば、魔王どころか、貴族や大商人ですらもまず見られない、まるで聖光神の僕のような感心な行いです。


 しかし、口を開けば卑猥な冗談しか言わないし、どうやら淫魔といかがわしいことをしてるらしいところは許せません。


 とにかく、ティリア様のいうように、他の魔王とは違うのは間違いないのですが、善か悪か、断言できないその行動が、かえって私を混乱させます。


「わかりましたよ。……グリシナ様。お隣失礼します」


 私はグリシナ様の隣に静かに腰かけました。


 一瞬高価な銀食器かと思いましたが、持ってみれば随分と軽いではないですか。と、いうことはまず金属ではなさそうです。


 質感的には紙でしょうか。


「よーし、じゃあ、それぞれ好きなのを取っていいぞー。早いもの勝ちだからなー」


 魔王はそう言い渡してから、鍋から袋の一つを選び、その端を掴んで取り出しました。袋には『ギュードン』と書かれています。


 魔王の能力のおかげで、発音と動物の加工肉を使った食品であることは何となく理解できました。


「では、私はこれを頂こうかしら」


「わらわはこれじゃ!」


 グリシナ様と淫魔が、競うようにそれぞれ袋を取り出しました。


 微妙に種類は違うようですが、どちらも『カレー』と記されています。


 シフレさんとトカレさんが、『早く選べ』とでもいうように、私に催促の視線を送ってきます。


 奴隷という身分を気にして、先に取るのを遠慮しているのでしょうか。


「私は、なるべく肉が少なく、野菜の多いものが良いのですが」


「うーん。っつうことはこれじゃね。中華丼。まあ、誤差レベルだけど」


「では……」


 私は魔王が指差した袋を恐る恐る摘み上げます。


 火傷するかと警戒していたのですが、どういう仕組みか、素手で触れる程度の熱さしかありません。


「お姉ちゃん。はい」


「ありがと」


 シフレさんとトカレさんが、残った袋を鍋から引き上げます。


 袋には、『ハヤシライス』と記されています。


「じゃー、食うぞー」


 魔王が袋の端を横に開き、皿に注ぎます。


 それに倣って、私たちもそれぞれ袋を開きました。


 白濁した半透明の液体が、袋から飛び出てきます。


 魔王のいう通り、基本的には野菜の具材が主なようです。


 動物性のものはといえば、かわいらしい小さな卵くらいのものでしょうか。


「香辛料のいい香りがするわね。カスルーロ地方のピューラに似ているけれど、それよりも深い味わいだわ」


 グリシナ様が、スプーンを口に運んでから、そう感想を述べます。


「一般受けしそうか?」


「そうねえ。どの種族に提供するかにもよるけれど、ヒューマンタイプの冒険者にはうけると思うわ。地上の店で出すにはちょっと味が濃すぎるけれど、ダンジョン探索で疲れた冒険者は一般的に、刺激が強く、味の濃いものを好む傾向にあるから。逆にエルフとか、味覚の鋭い種族が食べるにはさすがにきつすぎるわね」


「そんなもんか。じゃ、一応、もうちょっと味の薄いのも仕入れてみるかな」


 魔王が頷いてから皿を掻き込みます。


「んんんんんーーーー! おい! ジューゴ! なんじゃこれ! 辛い! 辛いぞ! 毒か!? 毒なのか!?」


 『カレー』を一口、口に含んだ瞬間、淫魔が顔をしかめ、魔王の背中をバンバン叩く。


「ああ。そっち辛口だわ。つまり、毒じゃない。仕様だ」


「なんじゃとお!」


 思い出したように呟く魔王に、淫魔が目を見開きました。


「シャテル様、お水を、どうぞ」


 気を利かせたシフレさんが、コップに注いだ液体を差し出します。


「助かるのじゃ!」


 淫魔は受け取った水を一気に呷ります。


「あらあら、長生きしている割にお口の中はお子様のままなのね」


 シャテル様が手で口元を隠しながら上品に笑いました。


「うるさい! わらわの味覚は繊細なのじゃ! お主こそ、加齢で味覚が鈍っておるだけじゃろう!」


 一方の淫魔は、唇の端に『カレー』のソースをつけたまま、グリシナ様を睨みつけました。


「いや、グリシナが食ってる方は普通の辛さだから、多分鈍ってないと思うぞ」


 魔王が手にしたコップをシフレさんを手渡し、それに水を注がせながら指摘します。


「なに!? ババア! ずるいぞ! わらわにもそっちを寄越せ! 代わりにこっちをくれてやる!」


「あらあら、どうぞ」


 涙目の淫魔は、そう言ってシャテル様の食事をひったくると、半ば強引に自分のそれを押し付ける。


 グリシナ様は微笑を浮かべたまま、それを受け入れた。


 味覚以前に、行動そのものがお子様であることに、淫魔は気が付いているのでしょうか。


「ご飯があたたかいと、いつもよりも、もっとおいしいね、お姉ちゃん」


「そうね。こってりしてるけど、ちょっと酸味もあって、飽きがこないわ」


 シフレさんとトカレさんはそう頷き合って、黙々と食事を進めます。


 そんな皆の様子を見ていると、私もなんだか余計に空腹を覚えます。


 早速目の前にあるスプーンでコメを少量すくい、液体と絡めて口に含んでみました。


 塩味の中に、ほんのり甘さもある優しい味が、口いっぱいに広がります。はしたないと知りつつ、頬が膨らむほどのスピードで食事を進めてしまいます。


「美味いか?」


 魔王が一同を見渡し、満足げな笑みを浮かべて私に話しかけてきました。


「味はどうであれ、与えた糧の全てに感謝して日々を生きるのが光神教徒の務めですから」


 素直においしいというのが何だか悔しくて、私はそっぽを向いて、そう答えにならない答えを返します。


「かわいげのないやつだなあ。そこは素直に『おいひぃ』って口から涎垂らしとけばいいんだよ」


「何ですかそれ。どうして私が魔王なんかに媚びを売らなくちゃいけないんですか」


「何でって――。そうだなー、俺の気分が良くなれば、もっといいものが出てくるかもしれないぞ? 例えば、デザートとかな!」


 魔王はそう言って、傍らにあった青い箱を持ち上げました。


「で、デザート、ですか?」


 私がごくりと唾を呑み込む。


 そういえば、前この男が差し出してきたケーキはかなりおいしそうだった。


 この自信ありげな口ぶりから言って、かなりの品を用意しているに違いない。


「そうだ。欲しいだろ?」


「ま、魔王の誘惑に屈する私ではありません!」


 興味がないといえば嘘になりますが、現在の教会側の戒律では、口にできる甘味は果物などの自然にできるものに限られるので、どのみち、砂糖や乳製品を使った菓子は口にすることができないのだから、期待するだけ無駄です。


「あっそう。じゃあ、いい。食うな食うな」


「ご主人様、私は、今日のご飯、おいしいです。いつも、いい食事をさせてくれて、ありがとう、ございます」


 ぶっきらぼうに言葉を吐き捨て、私から顔をそむけた魔王をシフレさんが上目遣いで見上げます。


「そうそう。これくらいあざとくていいんだよ。わざとだとわかっていても、それはそれでかわいいから。――ほら、ご褒美にこれをやろう」


 魔王が小さじのスプーンと一緒に青い箱から取り出したのは、すり鉢状のガラス容器でした。


 一目で高級品と分かる涼しげなその器の中に、見慣れない色とりどりのフルーツやら、半透明のサイコロ状の塊、そして黒い豆の塊のようなものが収められています。


 どういう仕組みか、さきほどまで冷やされていたようで、器からはほんのり白い冷気が立ち上っています。


「わーい。いただき、ます」


 器を受け取ったシフレがスプーンで器の中の豆をすくって、口に含みます。


「んっ! んんん! ご、ご主人様! こ、これ、すごくおいしいです! なんて言う名前ですか?」


「あんみつだ。まあ、アレンジを加えてるから本来のやつとはちょっと違うんだけどな」


「あんみつ、ですか。甘い、お豆って、初めて食べましたけど、こんなに、おいしいんですね!」


 シフレさんはそう言うと、目を輝かせて器の中身に夢中になります。


「ね、ねえ」


「ん? なんだ? トカレ」


 トカレさんに肩を指で突かれた魔王が、注意を彼女の方に向けます。


「わ、私ももらってあげてもいいわよ?」


「ご主人様に対する態度としてはどうかと思うけど、今時貴重なテンプレツンデレに免じてくれてやろう」


 魔王が尊大な態度で、トカレさんにも同じ物を渡します。


「つ、つんでれ? よくわかんないけど、あ、ありがと。――おいしい」


 オレンジ色の果肉をスプーンで抉って口に運んだ瞬間、トカレさんの顔がほころびます。


「ジューゴジューゴー、わらわも後でエロいことさせてやるから、うまいもんくれー」


 淫魔はそう言って、その卑猥な胸を魔王の腕に押し付けました。


「お前はなんかちょっと違う。でもまあ、エロいことはいいことだな」


 魔王はそんな不潔な納得の仕方をした後、淫魔の要求を受け入れました。


「ふむふむ。それでは早速――」


 淫魔はスプーンを使わず、その艶めかしい指でサイコロ状の塊を摘み上げ、開いた口の上でそっと放しました。


 いやらしく舌でしばらくそれを転がした後、これみよがしに呑み込みます。


「……う、美味いぞ! ジューゴ! なんじゃ! この口でとろけるような滑らかな食感の実は!?」


 淫魔が器を天に捧げ、わざとらしい仕草で感涙します。


「ああ、それ寒天な」


「みんなにここまで芳しい反応をされるとさすがに食べたくなってくるわねえ。私の分もあるのかしら?」


 グリシナ様が首を傾げ、魔王に問いかけます。


「人数分しか用意してないが、金を払うなら俺の分を売ってやろう。値段は……、ざっとあれの五倍くらいだな」


 魔王が商品の値段が書かれた紙を指さして告げます。


「あら、『カレー』に比べると、随分お高いのね。もちろん、払えない額ではないのだけれど」


「まあ、原材料費とか作るのに手間が全然違うからな。それに、これはあくまで『嗜好品』だし?」


 魔王はグリシナ様にそう説明した後、あてつけのように私の方を横目で見てきます。


「わ、わかってます。あなたが私に提供する義務があるのは、あくまで日常に必要な食料だけ。つまり、デザートはその範囲に含まれない、そう言いたいんでしょう!?」


「ああ。そうだよ。だけど、もちろん、金を払えばあんみつもくれてやるぞー? 司祭様は光神教徒から、たんまり寄付金もらってんだろ? それを使って、たまには自分へのご褒美、買っちゃいなYO!」


「寄付金は全て光神様のものです! 信徒が身銭を切って捧げてくれた供物を、私が使い込むなんて許される訳ないでしょう!」


 不埒な甘言を弄してくる魔王に私は、声を大にして反論します。


「そうかそうかー。あー、残念じゃなー。こんなに美味いものが提供される現場に出くわしながら、それを食えないやつがおるとはのー。なー、ジューゴ」


 淫魔が甘えるように魔王の首にすがりつきます。


「だなー。金を払わなくても、ちょっと頭を下げるだけでいいのになー。見栄っ張りは大変だなー」


 魔王と淫魔は頬をくっつけあい、妙に息の合った口調で私を煽ってきます。


「ふ、ふん! どんなに美味しくたって、砂糖を使った甘味は光神教徒にはふさわしくない奢侈品です! どちらにしろ、今の私が口にすることはできません! だからいりません!」


「とーこーろーがー。なんとこのあんみつにはには一切砂糖も乳製品も使っていないんだなー。これが」


 魔王が、待ってましたとばかりに言葉を差し挟んでくる。


「え?」


「こちら砂糖不使用、総天然素材の、光神教徒の皆様にも安心してお召し上がり頂ける一品となっておりまーす」


 魔王が慇懃な口調で『あんみつ』を紹介する。


「う、嘘です! 私を騙そうとして、嘘を言っているに違いありません」


「疑り深い奴だなあ。俺は嘘は言ってないだろ? なあ、大賢者さん?」


「……ええ。少なくとも、これから動物のプシュケーの残滓は全く感じられないし、甘いことは甘いのだけれど、この味は砂糖ともまた違うようね」


「そういうことー。どうだー? これで酸っぱい葡萄的な言い訳はできないぞー。そろそろ自分に素直になったらどうだー? ほれほれー。あーん」


 魔王が黒い塊をスプーンですくって、私の鼻先に突き付けてくる。


 えも言われぬ甘くて、おいしそうな香りが、私の鼻をくすぐった。


「うううううううう! あ、あー」


 私がおずおず口を開いたその瞬間――


「なーんちゃって。嘘ぴょーん!」


 魔王がスプーンを引っ込める。


「もー! この悪魔! 人でなし! すけこまし!」


「そんなこと言われても俺は魔王ですしおすし」


  魔王は私の罵詈雑言など全く意に介さない様子で、愉快そうに口笛を吹きます。


 なんて憎たらしい男なのでしょう!


「もう、いじわるねえ。魔王さんはノーチェちゃんをからかうためにわざわざこの商品を作ったんでしょう?」


「いやいや。そんなめんどくさいことはしねえよ。あくまで最近増えてきた光神教徒とかエルフとか、意識の高い多様なお客様の需要に応じるための、営業活動の一環だから」


 魔王はもっともらしい言葉を並べ立ててそう言い訳するけれど、絶対嘘に違いないと私は確信していました。


 その証拠に、魔王の目が泳いでいます。


「もう。男の子は本当にどうしようもないわねえ。私が二人分の料金を払うから、ノーチェちゃんにもこれを食べさせてあげてちょうだい」


 グリシナ様はそう言って、革袋から安くはないデザートの代金を取り出して魔王に手渡します。


「よ、よろしいんですか?」


「ええ。ティリアちゃんの弟子だったら、私にとっても後輩も同然だもの。慣れないに土地で一人頑張るノーチェちゃんにちょっとくらいご褒美をあげても、光神様もばちを当てたりはしないでしょう」


 グリシナ様はそう言って、慈愛に溢れた微笑みを私に向けてくださいました。


「グリシナ様! ありがとうございます!」


 感極まった私は、思わずグリシナ様の両手を握りしめ上下に振り回してしまいました。


「……ちっ」


「魔王! あなた! 今、舌打ちしましたね!」


「してませーん。お買い上げあざーす」


 魔王は急にやる気をなくしたようなテンションの低い調子で、ようやくグリシナ様と私にあんみつを配ってきます。


「さあ、ノーチェちゃん。お食べなさい」


「はい!」


 私はひんやりとした器を左手で持ち上げます。


 まるで宝石のようにきらきらと輝く果物たちが、『早く食べて』と私に囁いてきているかのようです。


 私は、オレンジ色の果物にスプーンを入れます。


 抵抗なくその実は抉れ、私は光神様に導かれるようにそれを口に含みます。


 とろけるような甘味が舌をなでます。


 次いで私がすくったのは黒い塊です。


 なめらかながらもどっしりと食べ応えのある食感です。


 甘い豆を食べたのは初めてなのに、この黒い塊はどこか懐かしい味がします。


「おいひぃ」


 私は無意識の内にそんな声を漏らしていました。


 こんなにちゃんと『甘い』ものを食べたのはいつ以来でしょう。


 幼い頃は、よくティリア様が砂糖菓子を買ってきてくださったものでしたが、教会内の情勢が厳格派に傾いてからは、それもなくなってしまいました。


 そんな幼い頃の記憶の中で美化されたあの味、それに勝るとも劣らない品が、今、目の前にあります。


「ほんとね。私、あまり甘いものは得意じゃないのだけれど、これなら毎日でも食べれそうよ。次来た時もお願いね」


「いや。多分次はない。今日は気まぐれで作っただけだから」


 催促するグリシナ様に、魔王が首を振ります。


 ん? 気まぐれ? と、いうことは、このあんみつを作った目的は、やはり市場の調査などではなく――


「あなた、やっぱり最初から私をからかうつもりでしたね!」


「バレたか! ――ま、今日はお前の色んな表情が見られて楽しかったよ。俺のことが嫌いでも別にいいけどさ、常に顔合わせたら仏頂面っていうのはやめろよな。たまにはそうやって吐き出した方がいいぞ」


 魔王はあっさりとそう認めると、幼子のような屈託のない無邪気な表情で笑います。


 まさか、この男は、初めての司祭、それもダンジョンへの赴任で緊張する私の心を解きほぐそうとして、こんな茶番を実行したとでも言うのでしょうか。


 ……。


 やっぱり私は、この男が善い者か悪い者かを見定めるには、まだまだ未熟なようです。

 

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