第16話 ☆ second visitor 聖なるかな

「わかった。今から準備するから、十分だけ待ってろ」


 そのジューゴなる魔王はそれだけ言い放つと、扉の奥に引っ込んだ。


「承知した。ならば、初めての禊と祈りは私が捧げる。裁きの天使ハリエルの名において、その場所を聖別しよう」


 ティリアはその背中を笑顔で見送る。


「しかし、ティリア様。危険ではないでしょうか」


「もし魔王が裏切ったならいかがいたします」


「まず『信より始めよ』だ」


 部下たちの心配を、ティリアは一言で封ずる。


 魔に騙されるほど愚かであってはならない。しかし、『疑』と『信』を天秤にかけるならば、『信』を選べというのがティリアの奉ずる神の教えであった。


「はあはあ。できたぞ。その右の扉の先にある部屋をさらに右に行け。その先は左右に分かれている。左が禊の場で、右が礼拝所だ」


 扉の奥から戻ってきた魔王は、ダンジョンの中をしばらく走り回っていたが、やがて元の場所に戻ってティリアたちにそう告げた。


「ふむ。では参ろうか」


「ちょっと待て。これを持っていけ」


 魔王が白い物体を投げ渡してくる。


 反射的にそれを撃墜しようとする仲間を手で制した。


 害意がないことがわかったからだ。


「なんだ。これは?」


 今まで触れたこともないような柔らかい感触が手に伝わる。


 その中には、さらに滑らかな袋に入った固形物と、小さめの布が包まれていた。


「あ? バスタオルと身体洗う用のタオルと石鹸諸々だ。身体を洗うってことは、最低限それがいるだろうが」


 こともなげに言い放つ。


 媚びてるという感じはない。魔王にとっては、これが入浴の当たり前の準備らしい。


(どこぞの貴族の子弟か。はたまた大商人のドラ息子か)


 さきほど商人について語っていたからおそらく後者だろうか。


 清貧を旨とする聖光教では、石鹸は高級品も高級品である。


 年に一度の大祭でやっと使うかどうかといったところだ。


 普段は季節を問わず教会近くの川の水で身体を清めている。


 もちろん、石鹸などなく木のへらで垢をこそげ落とすのがせいぜいだ。


 貴人の子息とてティリアはその裁きの手を緩めるつもりは毛頭なかったが、後々発生する問題を考えると、やはり殺さなくて正解だったかもしれない。


「なんだよ。急に黙って。あんたが入浴の準備をしろっていうからわざわざ用意したんだぞ。いらないなら返せ」


「……いや、ありがたくもらっておこう。――行くぞ」


 ティリアは魔王から受け取った布を手に、身体を扉の方に向ける。


 部下たちが扉を開け、鉄球とタオルで手が塞がっているティリアを先導する。


 宿泊用の部屋をさらに右へ。魔王の言った通りに左右に扉がある。


「開けます」


 団員の中でティリア以外では唯一の女性であるノーチェが、扉を開く。


 中は、まず大きな壁で二つに区切られていた。


 左が女、右が男と書かれた張り紙があり、空間は分割されている。


 さらにそれぞれの入り口の天井からは、見たこともないほど薄く半透明の布が垂らされており、中に何があるかはそれとなく見えるのだが、細かくは見えないという絶妙な具合になっていた。


 これなら信徒たちも不安なく中に入れるだろう。


「ほう。魔王のくせに、妙に気がつく奴だ」


 せいぜい水がちょろちょろ流れている穴がぽつんとあるだけだと思ったのだが、予想以上に配慮が行き届いている。


 あのジューゴとかいう魔王は、小物なのか大物なのか、全くよくわからない。


 いや、ジューゴだけではない。思えばシャテルの主だった魔王はもっと奇怪な人間だった。


 魔王の思考など理解できた試しがないのだから、今更かもしれない。


 だとすれば自分は、ただ裁きの使徒として、偏見なくその行為のみを見届け、判断を下すだけだ。


「我々はここで見張りをしております。何かありましたらお呼びください」


 男の仲間たちが、ティリアに背中を向け、警備態勢に入る。


「ああ頼む。では、ノーチェ。ついてきてくれ」


「はい! 喜んでお供します!」


 布をくぐる。


 その奥には脱衣所のつもりだろうか――分厚い紙の箱を重ねておいてあるスペースがある。


 さらに奥は、また土壁で三つのスペースに区切られており、天井に空いた小さな穴から水が垂れていた。


 いや、湯気を出しているところを見ると、どうやらお湯のようだ。


 微妙に傾斜がついているらしく、落着した水は、中心の男女を分かつ壁の延長線上にある穴に向かって、ゆっくりと流れていく。


「鎧を頼む」


 ティリアは鉄球を床に降ろして、ノーチェに呼びかける。


「では失礼致します」


 ノーチェがティリアの鎧の金具を外していく。


 やがて、身に着ければ大の男でも動けなくなるような重量な金属が、重々しい音を立てて落ちた。


「あの私お背中をお流しします!」


 ノーチェが意気込む。


「いや、そこまではいい」


 ティリアは首を横に振る。


「しかし、ティリア様を補佐するのが私の役目ですので」


「……では、替えの下着をここへ持ってきてくれ。まさか魔物どもの鮮血に染まった服で聖光神様と向き合う訳にもいかないからな」


「わかりました……。では早速、荷物持ちの者からお着替えを取って参ります」


 ティリアが固辞すると、ノーチェは心底残念そうに告げ、その場を辞した。


 ティリアはノーチェにいつも気を遣わせていることを申し訳なく思っていた。


 本当は何でも自らの手でこなしたいティリアであったが、使徒である以上、地上では周りの目などもあり、どうしても従者をつける必要に迫られ、ノーチェを側に侍らせていた。


 ノーチェ本人はその役目を嫌がるどころか、むしろ進んでやってくれているようであるが、献身的なだけにティリアにはかえってそれが心配である。


 ティリアの言葉をまるで神の言葉であるかのように盲目的に従うのは、よくない傾向だ。


 聖光神の教えは一つであっても、それを解釈するのは、所詮不完全な地上の者どもである。


 だからこそ、聖光教徒は、悟性を磨き、その場の状況に合せて、自らの頭でもっとも御心に叶う決断を下せるようでなければならない。


 そういう意味では、ノーチェを一時的に遠ざけて、自立を促すことも必要だろうか。


 そんなことを考えながら、ティリアは汗ばんで肌にくっつく下着を脱いで、タオルと石鹸を片手に滴る水にその裸身を晒した。


 熱を持った液体が、じんわりとつむじの辺りから身体を温めていく。


「ほう。スライムか。まさかモンスターをこう使うとはな」


 ティリアは天井に空いた穴の先の暗闇を凝視して、感心したように呟いた。


 魔王自身は隠しているつもりなのだろう。


 事実、常人には判別できないだろうが、祝福を受けたティリアの双眼は魔の者の気配を峻別する。


 どうやら、魔王はスライムを管のように使い、どこかの水源から水を引いているらしい。


 本来は酸で生き物を溶かすというスライムの性質も、わざと弱めているようだ。


 ティリアは石鹸の袋に手をかける。


 開くと、花の蜜にも似たいい匂いがふわりと辺りに漂った。


(匂いつきの石鹸……だと?)


 一体どんな技術を使っているのだろう。ラスガルドの石鹸は安物ならば獣の臭いがするような代物だし、高級品のそれでも『臭くない』ということがウリになる程度のレベルだ。


 この石鹸はそのはるか先をいっている。


 早速泡立ててみようとタオルを開くと、床にポトリと二つの小袋が落ちた。


 石鹸を包んでいたものと同じツルツルした材質だ。


洗髪するものシャンプー? 調節するもの コンディショナー? 髪専用の石鹸だというのか?)


 ティリアの脳内にはない言葉だったが、魔王の力の影響か何となく意味はわかる。


 どっちを先に使うかは迷ったが、袋に書かれた効能を読む限りは、シャンプーの方を先に使うので良さそうだ。


(まあ、使い方を間違えても死ぬことはあるまい)


 危険なものならば、天使が自分に警告してくるはずである。


 そう断定したティリアは、日頃そうしているように髪を丁寧に水洗いした後、シャンプーの小袋を破く。


 粘質の液体が中から溢れてきた。


(それこそ、スライムの粘液のようだな)


 天井を眺め、一瞬そんな感想を抱いたティリアだったが、すぐに意識は別の所に移った。


 頭皮に指を滑らせるくすぐったいような快感が、ティリアの脳髄を駆け抜ける。


「んっ、はぁああああ」


 思わず口から甘い声が漏れる。


 ついでタオルに石鹸をつけ、身体も洗いにかかった。


 柔らかな泡と立ち昇る香気に全身を包まれ、ティリアはシャワーの熱に溺れる。


「聖光神よ。この身に余る贅沢ならばどうか我が身を罰したまえ」


 思わず神に懺悔を捧げる。


 教会の清貧の誓いに違反してしまったかと思うほどの心地良さは、言葉では形容し難いものがある。


 しかし、神からも天使からも何のお咎めもない。と、いうことは御心に叶う行いだということだ。


 むべなるかな。


 そもそも、聖光神は清浄を好むのである。


 コンディショナ―もきっちりと使い切り、いつもよりたっぷり時間を使って禊を終えたティリアはシャワーから離れる。


「ティリア様、入ってもよろしいですか?」


 ノーチェの控え目な声が外からかかる。


「もちろんだ!」


 ティリアはふかふかのバスタオルで身体を拭きながら、機嫌良く答える。


「失礼します――!」


 入ってきたノーチェが、稲妻に打たれたように身体を硬直させる。


「どうした? ノーチェ。私の顔をじっと見て」


「い、いえ。ティリア様が、いつも以上にお美しいから見惚れてしまって。髪とかも太陽のように光ってて――すみません」


 ノーチェはそう言うと、頬を染め、目をぎゅっと瞑って真新しい下着を差し出してくる。


「そうか? ならば、このシャンプーとコンディショナ―とかいうもののおかげかもしれんな」


 ティリアは首を傾げ、衒いなく答える。


 ティリアは、自分の容姿には、全くの無頓着だった。


 神の巫女として衆目に晒される役目を担うことも多いから、周りの反応から、まあ見苦しくない程度の外見なのだろうと認識しているが、どちらにしろ裁きの使徒としての役目には全く関係のない用件である。


「いえ。それはきっとティリア様の生き方がお美しいからです!」


「ははは、大げさだなノーチェは。とにかく、禊の場には問題ないことを確認した。ノーチェたちも順番に入浴を済ませると良い」


 ティリアはノーチェから受け取った下着を身に着け、そう勧める。


「はい! では皆にそう伝えて参ります」


 ノーチェが照れたように頬に手を当てたまま、パタパタと走っていく。


「ティリア様 魔王が『お近づきの印に』とこれを持って参りました。ティリア様がおられませんでしたので私が代わりに預かっておきましたが」


 着替えを終えたティリアが禊の部屋を出ると、騎士団の中でも一番年嵩のモレクが話しかけてきた。


 その手には迷宮に魔王どもが餌に設置した宝箱を一回り小さくしたくらいの大きさの紙の箱が提げられている。


「……なんだ。これは。甘味か?」


 中を開けて覗く。


 乳と卵の食欲をそそる香りが、鼻腔をくすぐった。


「そのようで」


「ならば、我々が食べる訳にはいかぬな。今の教会の規定では、甘味は禁止されていたはずだ」


 別に神が甘味を食することを禁じた訳ではないのだが、道理の分からぬ者の中には、他者より自分がより崇高な使命に殉ずる人間だと強調するために、敢えて必要のない過度な節制に勤しむ者もいる。


 それも残念なことに、そうした考えの輩は教会の一大勢力を築いているのだ。


「おっしゃる通りです。では、突き返しますか?」


「いや、善意の申し出を無下に扱うのは、聖光神の意思に反する。ちょうどいい。教会を築く際の、『初穂のにえ』にこれを捧げるとしよう。魔王のダンジョンで、魔王からの貰い物を捧げる。さすれば、聖光神がこの魔王の迷宮と我らの行動をどう思召おぼしめすか、その神意を図る良い指標となるだろう」


「仰せのままに」


 モレクが深く腰を折る。


「では早速教会に参るぞ。皆の禊が終わったら、早速儀式を始めるものとする」


 

                *



 何もなくがらんとした八畳ほどの空間の中心に、ティリアは一人屹立する。


 鎧は着ていないが、手にはいつもの鉄球の鎖をしっかりと握っていた。


 その足下には、魔王から捧げられた甘味の入った小箱が、意味ありげに置かれている。


 燃魂灯はなく、代わりにティリア以外の騎士全員が松明を持ち、彼女を円状に囲む陣形をとっていた。


「では、始めよう」


 ティリアが静かに口を開く。


 他の騎士たちが、静かに頷いた。


「第三使徒、サント・リラ・ティリアが、公正かつ寛大なる裁きの天使の名の下に、一にして全なる聖光神に申し立てまつる。我ら、今、深き闇の底におりても主を忘れず、地の塩、世の光とならんことを望み、すなわちここに汝が僕の拠り所を打ち立てんと欲するものなり。もし、御心に叶うならば、偉大なる主よ。どうかこの捧げ物でもって、この地に祝福を――」


 ティリアはそこで、刹那黙して天を仰ぐ。


 突如巻き起こった烈風が松明を吹き消した。


 騎士たちが息を呑む。



「与え給え!」



 一拍置いた後、ティリアが全力で振り下ろした鉄球が見事その捧げ物を捉える。


 しかし、その後に信仰心の薄い俗物が想像するような、ひしゃげる音は聞こえてこない。


 代わりに部屋を満たすのは、瞼を閉じてもなおまぶしいほどの鮮烈な光。


 太陽のごとく輝き出したティリアの鉄球が、まるで遊び盛りの童(わらわ)のように部屋を跳びまわる。


 壁にぶつかるごとにその光は強さを増し、やがて全てを白で埋め尽くした。


 そして、光がおさまると、恐る恐る目を開く信徒たちの瞳に映るものは――


 小さいながらも立派な、白亜の宮殿であった。


 先ほどまでは闇に満ちていた部屋は、天井から生えた光る水晶の白光で満たされ、全ての信徒が平等であることを示す円卓が、幾重にもティリアたちを取り囲んでいる。


 しかも、聖なる神の言葉が記された背もたれまでが、きちんと備えられていた。そしてその円卓の中心。


 ティリアの足下の、さっきまで捧げものが入っていた小箱には、甘味の代わりに透明の杯が一つ、穏やかな水を湛えて存在していた。


「おお!」


「まさにこれぞ奇跡」


「聖光に、円卓に、神水、この威容ならばたとえメリダ派の連中とて、第一級の教会と認めざるをえないでしょうぞ!」


「さすがティリア様です!」


 騎士たちが興奮して、口々に快哉を叫ぶ。


「ああ。我らの思いが主に通じたようだ」


 ティリアは皆に笑顔でそう答えながら、今や聖杯の入った小箱を名残惜しそうに一瞥する。


 神がこれほどにまで喜ぶ甘味とは、いかほどに美味なのか。


 一口くらい、自分が食べても許されたのではないか?


「……主よ。我が守護者たる裁きの天使よ。感謝致します。そして懺悔致します」


 一瞬でもそう考えてしまった自分を恥じるように、しばらく感謝と懺悔を繰り返すティリアだった。

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