7.誕生

 どんよりと、空は重苦しかった。

 裕子のアパートにのしかかるように重く、暗く、そして生温かい。

 三人はアパートの階段を上っていく。先頭は体育教師、その後ろに女教師、最後には順也が。

 順也は先刻から、なにかにのしかかられているような圧迫感に耐えていた。階段を一段のぼるごとに強まってくる、頭痛、目眩、吐き気に、呼吸すらおぼつかない重圧感。得体の知れない強力な「エネルギー」が、辺り一帯に沈殿しているのを、彼の能力は感知していた。そしてその気は、彼女……裕子の部屋からじわじわとしみだしてきているようだ。


「大沢! 村井だ。ラグビー部の……大沢、いるなら返事をしてくれ!」


 体育教師が激しく扉をノックする。扉が叩かれるたび、その衝撃で自分の周囲を取り囲む「気」も波打つように揺れる。空気の振動に呼応するように、エネルギーも振動するらしい。


「いないんじゃないかしら? ほら、この新聞の束……」


 女性教師が、小さなポストからはみ出し、戸口に何部もこぼれ落ちている大量の新聞を指さすと、体育教師も顔を曇らせた。


「そうだな……しかしだとすると、いったいどこに行ったんだ?」


 二人の教師は踵を返すと、首を振り振り階段をおり始めたが、自分の後ろに順也がついてきていないことに気付いた女教師は振り返った。


「どうしたの? 東君、行くわよ」


 順也は部屋の前に立ち尽くしていた。

 本当は、一刻も早くここから立ち去りたかった。何かとんでもないことが起こり始めている気配を、彼の能力は感じとっていた。恐ろしいと思い、一刻も早くと焦る。だが、順也の足元にはすでに密度の高いエネルギーがとぐろを巻いている。動けるような状態ではなかった。

 が、辛うじて口は動く。


「先生、います。彼女はいます。この中に……」


 階段を降りかけていた女教師は男性教師と訝しげに顔を見合わせてから、順也の側に戻ってきた。彼女の動きでのしかかっていた気が揺れ動き、彼もいくぶん呼吸が楽になる。


「いるって……どうして分かるの? 東君」


 順也は脂汗を流しながら、彼女の問いに掠れた声でこたえる。


「音がしたんです。中で、音が……」


 彼のとっさのウソに、女教師も体育教師も蒼然となった。


「じゃあ、彼女はこの中にいるのね。でも、返事がないってことは……」


 体育教師が弾かれたように階段を駆け上がった。立ちすくんでいる順也を突き飛ばし、ノブを激しく揺すり始める。


「おい! 大丈夫か? 大沢、いるなら返事をしろ!」


 叫びながら、ドアノブをつかんで滅茶苦茶に引っ張る。古いアパートなので立て付けは悪いらしく、すぐにスキマができ始める。それを見た女教師も、一緒になってドアを揺すり始めた。

 がたがたと鳴る扉の動きと連動して、隙間から流れ出てくる赤みを帯びた濃い「気」も、波動となって彼を襲ってくる。

 順也は肩で息をしながら、鳴り響く扉の隙間にある暗黒を凝視した。


――帰りたい。見たくない。彼女を今、見るのは……危ない・・・


 「危ない」。なぜだか分からないが、順也の頭にふいにその言葉が浮かんだ。

 エネルギーの波動は脈々と強まり、扉の隙間は五センチメートル程になって、鍵は壊れチェーンもとれかかっている。開くのは時間の問題だ。


――危ない。今、扉を開けたら、危ない。


 扉を開けようと二人の教師は奮闘している。開きかけた扉に歓喜しているかのようだ。二人とも気付かないのか。今、その扉を開けるのは、危ない!

 彼は声を出そうとした。だが、喉からはかすれた音が出るのみだった。動こうとした。だが、足は縫いつけられたかのように床から離れない。彼は両手を握りしめると、きつく奥歯を噛みしめた。


「開いたぞ!」


 体育教師が嬉しそうに叫んだ。同時に玄関扉が大きく開け放たれ、内部に充満していた、熱気と、湿気と、臭いと……そして赤黒い色彩をまとったエネルギーの塊が、同時に順也を襲う。

 順也は頭を力いっぱい殴りつけられたような強烈な頭痛と眩暈に見舞われた。吐物が喉の奥から一気にこみ上げてくる。

 床に両手をついて嘔吐している順也に気付き、男性教師とともに部屋の中に入ろうとしていた女性教師は驚いて足を止めると、順也の傍に寄り添いその背中をさすった。結果的に、この行動が彼女を救うことになる。

 その間に、男性教師は部屋の中に入ってしまった。


「僕は、大丈夫です。大丈夫ですから、村井先生を……」


 順也はやっとのことでこれだけ言うと、よろめく足を踏みしめて必死に立ち上がった。


「先生が、……危ない」


 発言の意味が分からず、女性教師は順也の顔を怪訝そうに見やった。

 刹那。

 順也の発言を裏付けるかのように、部屋の中から切り裂くような叫び声――男性教師の叫び声が響いてきた。

 二人は息を飲むと身を硬くして、開け放たれた扉の奥にある、薄暗く淀んだ部屋の内部を凝視した。

 部屋の奥はしかし、漆黒のカーテンに閉ざされて何も見えない。

 二人はしばらくそのまま凍り付いたように固まっていたが、ややあって順也が意を決したように震える足を踏み出し、部屋の中に入った。女性教師は一人で取り残される恐怖感からか、あわてたようにそのあとを追う。

 もう何日も閉め切られていたのだろう。湿った、生温かい空気が薄暗く淀み、生臭い臭いが小蠅の戯れるシンク周りから立ち上っている。わずかに緩んだ水栓から規則正しいリズムで滴り落ちる水の音が、静寂に不気味な彩を添えている。

 順也は、波動のように一定間隔でこめかみを締めつけてくる痛みに耐えつつ、その原因がやってくると思われる方向へ足を運ぶ。そして、半開きの扉の向こうに続く一番奥の部屋――そこは順也と裕子が初めての夜を過ごした、彼女の寝室だった――へと、足を踏み入れた。

 そこに展開していたのは、地獄と見まごう凄惨せいさんな光景だった。

 後ろからついてきた女教師は、立ち尽くす順也の肩越しにその部屋の中をのぞき、叫び声を上げる間もなく気絶した。

 部屋は、赤黒い液体で満たされていた。部屋中至る所に男性教師の肉片が飛び散り、天井にまでも張り付いて糸を引きつつ赤い液体を滴らせている。部屋の中央にはもはや原型をとどめぬ男性教師の肉の塊が蟠り、そして……。

 そしてその傍らに、返り血を全身に浴びて、裕子がいた。

 裕子はあの朝、学校に現れた時と同じ服装で、身動きひとつせずにベッドに仰向けで横たわっていた。その目は白濁し、半開きの口からは黄色い半透明の液体がねっとりと流れ出している。腹部は丸く大きく膨れあがり、その内部から、あの強烈なエネルギーが脈々と波打ちつつ放射され、順也の周囲に渦巻いている。


――生まれる!


 順也は全身の血が凍りつくような恐怖を感じた。あれからまだ三週間しかたっていない。にもかかわらず、この赤子は激烈な成長を遂げ、今まさに胎外へ出ようとしている。出生前にもかかわらずその莫大ばくだいなエネルギーで、すでに胎内において人を殺しているのだ。それは、紛う事なき化け物だった。化け物以外の何者でもなかった。

 順也は身動きすらすることができずに、恐怖と悪寒と吐き気に耐えつつ裕子の腹部を凝視する。

 大きく盛り上がった腹部は、そこだけ異様に活発な活動が見られた。丘陵状に盛り上がった腹部の一部が、時折何かに突き上げられたかのように鋭角に突出する。恐怖で動けず、しかし目を逸らすこともできずにそれを凝視するうち、その活動はみるみる活発となり、やがて上下に激しく波打ち始めた。


「ぐうっ」


 裕子の口から低い、獣の咆哮のような声が発せられた。白濁した目をかっと見開き、のけぞって血の塊のような黒いものを吐き出す。そして、……それが彼女の最期だった。

 彼女の腹の一部分が今までになく鋭角にせり上がったかと思うと、薄い膜が弾けるような音とともに裂け、中から黄色い液体にねっとりとまみれた小さな手が突き上げられた。

 順也はそのあまりのおぞましさに耐え切れず、吐いた。胃の中は既に空っぽで、胃液がねばねばと口中に絡みつくだけだったが、それでもこみ上げてくる不快感に耐え切れず嘔吐き続けた。順也はただひたすら恐怖していた。目の前で繰り広げられている現実とあまりにも乖離かいりしたおぞましい光景に、裕子の死に思いをはせる余裕すらなかった。震えが止まらない自分の両手足さえ、何だか自分のものではないような気がした。

 その間に裕子の腹からは悪臭を放つ黄色い液体と血が流れだし、もう一本、血まみれの小さな手が差し出される。

 裕子の腹の裂け目を掴んで、「それ」はゆっくりと這い出してきた。順也にとって血と汚物にまみれたそれは、赤子の姿をした化け物だった。化け物以外のなにものでもなかった。恐怖に戦きつつも、順也はその化け物から目を離すことができない。

 赤子は、大きな頭を揺らしながらゆっくりと「首を巡らせて」、順也を「見た」。出生直後だというのに、すでに首は座り、目もしっかりと機能しているようだ。

 赤子の体表からはその間も休むことなく、赤黒いエネルギー波がドライアイスのようにしみだし、部屋中に拡散し続けていた。だが、赤子の目が順也を視界にとらえた途端、エネルギーは拡散をやめて逆方向に集積し始めた。足元に堆積していたエネルギーも、禍々しい赤い光を放ちつつ、台風の目のように渦巻きながら赤子の眼前に集積していく。


――殺される。


 反射的にそう思った。恐怖に足が竦み、心臓が縮み上がり、体は凍り付いたかのように動かず、逃げることすらままならない。迫りくる死を目前に、どうすればいいのかなど分かりようもない。自分もあの男性教師と同様、肉片と化して飛び散るのか……。

 赤子の眼前に浮かぶエネルギーの塊は、サッカーボールほどの大きさに凝縮されていた。表面に時おり稲妻のような光を閃かせながら、線香花火の火球のようにジリジリと放出の瞬間を待っている。

 緊張の極限に達した順也が、せめて赤子から少しだけでも距離をとろうと、右足を引きかけた、刹那。それは順也に向けて一気に弾けた。

 弾けたエネルギーから飛び散ったほんのわずかなかけらが、カーテンや観葉植物を一瞬で炭に変え、本棚を焼き尽くす。だが、そんなものとは比べ物にならないほど莫大ばくだいなエネルギーを凝縮した火球本体が、立ち尽くす順也を一気にのみ込んだ。

 衝撃波でアパートの窓ガラスが吹き飛び、床や壁に巨大な亀裂が走り、目が眩むほどの赤い閃光せんこうが、その浅ましい部屋を突き抜け一直線に外気を切り裂く。

 やがてゆっくりと、潮が引くように赤い輝きが薄れ、部屋の内部が元の薄暗さをとり戻す。それにつれて、見えにくかった部屋の内部の様子が、徐々に明らかになっていく。

 赤子は、黒いガラス玉のようにつるりとしたその眼をかすかに細めた。

 順也は閃光せんこうに焼き尽くされ蒸発したかに思われた。だが、彼は先ほどと同じ場所に立っていた。固く目をつむり、両腕を交差させて頭部をかばう格好で、彼は確かに生きていた。

 彼は自分が何をしたのか、どうしてまだ生きているのか分からなかった。だが、自分の生き死にすら、今の彼にはどうでもいいことだった。この時、彼の頭には、『この子どもを殺さなければならない』という、ただ一事があるのみだった。


――この危険な存在をこの世から消し去る。それが親としての、自分の、責務……。


 順也の殺気に呼応するように、赤子の体から湧き出る赤いエネルギーが加速的に増加し、またたく間に部屋いっぱいに充満する。足もとでとぐろを巻くエネルギーの渦に引きずり込まれそうになりながら、順也は一歩、赤子の方に重い足を踏み出した。

 赤子の眼前に、再び赤い気の塊が集積し始める。さきほどとは比べ物にならないほど小さい気の塊が、無数に赤子の眼前に集積する。一弾一弾が小さい分、凝縮も速い。あっという間に集積した数百ほどもの弾丸が、次の瞬間、順也に向かって一斉に放たれた。

 気はクラスター弾さながらに空間を切り裂き、歪ませ、床板や壁を引き裂きながら、あらゆる方向から順也に向かって突進する。

 刹那。

 順也の体全体を、目も眩むほどの白い輝きが包み込んだ。

 その輝きにのみこまれた赤い弾丸は一瞬でエネルギーを奪われ、順也の体に到達する前に全てが蒸発するように消滅した。

 ゆっくりと潮が引くように白い輝きが消え、部屋がもとの薄暗さを取り戻すと、その真ん中に立ち尽くしていた順也は、再び重い足を赤子の方に踏み出した。

 自分の能力に驚いている暇などない。この化け物を、何としても今この場でこの世から抹消しなければならないのだ。

 無言で自分に歩み寄ってくる順也に、いくばくかの恐怖でも感じたのだろうか、赤子は不機嫌そうに口の端を歪ませた。

 次の瞬間。部屋一面の壁や天井、床のフローリングまでもが鋭い破壊音とともに粉々に砕けた。その大小さまざまな破片が、一瞬の間ののち、順也目がけて一斉に襲いかかる。

 エネルギー弾では順也に太刀打ちできないと判断し、実在する物質を銃弾化する方法に切り替えたのだろう。物質は速さを増すほど破壊力を増す。音速に近い速度であらゆる方向から撃ち込まれる無数の木片や建材のかけらが順也を襲う。機銃掃射さながらの凄まじい破壊音が、部屋全体を揺るがしながら響き渡る。

 さすがの彼もおおかたははじき返したものの、幾千もの微細な破片をかわしきれるものではない。ワイシャツはボロボロに裂け、全身に大小さまざまな裂傷が生じ、深い亀裂からは血が噴き出す。だがこの時、順也には痛みを感じている余裕すらなかった。

 掃射がやんだとみるや、血を滴らせよろめく足を踏みしめて自分に詰め寄ってくる順也を、赤子は黒い瞳でじっと見つめた。新たなエネルギー塊が、見る間に赤子の眼前に集積する。

 それは、触れた対象物を一瞬で沸騰、気化させるほどの熱量を持つエネルギーの塊だった。限界まで凝縮され高温化したその塊に触れた瞬間、電灯は一瞬で蒸発し、置かれていたテレビは瞬く間に溶解した。室内の温度は一気に上昇し、離れた位置にある壁も熱にあてられてみるまに黒く焦げていく。

 だが、熱波の鎧をまとった赤子に対し、順也は恐れる様子もなく歩み寄り続ける。どうやら、自分の周囲の空間を遮断シールドし、高温の空気から身を守っているようだ。赤子は忌々し気に顔をゆがめると、熱波の塊を近づいてくる順也に向けて放った。

 衝撃で生じた熱風が部屋中に吹き荒れ、裕子の部屋に置かれていたさまざまなものを竜巻さながらに巻き上げる。ぬいぐるみが炭化し、置かれていた写真立ても溶解した。表に飾られていた順也と裕子のツーショット写真と、その裏に挟み込まれていたもう一枚の写真が空を舞う。一瞬、四十歳前後の体格のいい男性と、彼に寄り添う幸せそうな裕子の姿が見えた気がしたが、それも見る間に炭化した。

 全身を超高温のエネルギー塊に包まれ、順也の姿がかげろうのように揺らぐ。さすがに今回は無傷では済まないだろうと思われた。

 だが、次の瞬間。順也の全身からほとばしった白い輝きが、高温の赤い塊全体を瞬時に包み込んだ。赤子がハッとする間もなく、白い気で包み込まれた赤子のエネルギー塊が、まるごと上空五千メートルの成層圏に転送テレポートされる。エネルギー塊が成層圏に到達すると同時に圧縮を開放、気の密度を一気に下げて急速冷却する。順也はそのすべての作業を、十秒に満たない時間の中でやり遂げた。

 エネルギー塊が消えた部屋の中は、赤子のいるベッド周辺を残し、原型をとどめぬほど破壊しつくされていた。男性教諭の遺体も、熱波に焼かれてすでに白骨化している。だが、部屋の外にその影響は一切及んでいなかった。順也がこの部屋の空間を外部から遮断シールドし、被害が部屋の外に及ばないようにしていたのだ。同時に二つ以上の能力を使い分ける経験など、当然のことながら順也はしたことがない。部屋の空間を遮断したのもほぼ無意識と言っていい行動だったが、それを可能にしたのはひとえに、周囲へできるだけ被害を出さずにこの状況を収束させなければならないという責任感のなせる業だったのだろう。

 しかし、順也自身は自分が何をしたのかも、どれだけの人の命を救ったのかも全くわかっていない。彼の頭にはもう、目の前にいるこの化け物を排除すること以外に割ける脳のリソースは残っていなかった。そのくらいギリギリの精神状態だったのだ。

 がれきを踏み分けて、順也は一歩、また一歩と赤子に踏みよる。赤子も相当のエネルギーを消費したらしく、近づいてくる順也に対し、先ほどまでとは比べ物にならないほど弱いエネルギー弾を散発的に打ち込む程度の抵抗しかできない。

 そうして、順也はついに、赤子の首に手をかけることに成功した。

 首に感じる圧迫感に目を剥くと、赤子は小さな口を金魚のようにパクパクさせた。必死に爪を立て、足をばたつかせてもがき始める。だが体力自体はしょせん赤子、その体は軽々と順也の右手にさしあげられてしまった。

 低いうめき声を上げながら、赤子は赤い舌を突き出した。順也の手を外そうと必死に気を発する。が、必死なだけに方向が定まらない。順也のこめかみをかすめて天井を粉砕し、肩を引き裂いて壁を破壊するも、順也自身に大したダメージを与えることはなく、首の圧力はいや増すばかりだ。

 赤子は順也の手を外そうと、爪で彼の手をめったやたらに搔きむしる。とても産まれたばかりの赤子のものとは思えない力強さだ。たちまちのうちに順也の手の甲は皮が引き裂かれ、肉が露出した。

 血の滴る自分の右手を、順也は半ばぼうぜんと眺めていた。痛みすら感じていなかった。

 自分の右手に首をつかまれて中空に差し上げられている血まみれの赤子と、その下で腹を裂かれて絶命している無残な裕子の遺体。そのあり得ない光景を眺めながら、順也は混乱の極致にいた。なぜこんなことが起きたのか、なぜ自分がこんなことをしているのか、もっと言えば、自分が今何をやっているのかすらよくわからなくなっていた。混乱する思考をどうすることもできないまま、彼はただ一心に、赤子の首を絞める手に力を込め続けるしかなかった。

 エネルギーの放出が徐々に、潮が引くように収まってゆく。赤子の手も徐々に力が抜け、部屋に充満していた赤黒いエネルギーもゆっくりと、潮が引くように消えてゆく。

 部屋が元の薄暗い静けさを取り戻した時にはすでに、赤子は白目をむき、赤い舌を突き出して、完全にその生命活動を停止していた。

 なんとか果たすべき最低限の責務だけは果たせたと、順也がようやく肩の力を抜き、部屋にかけていた遮断シールドを解いた、刹那。


「ぎゃーっ!」


 背後で、女性のけたたましい叫び声が上がった。

 振り返った順也の視界に、ついさきほどまで気絶していた女教師が真っ青な顔を奇妙に歪め、順也を指さしてわめきたてている姿が映りこんだ。そのあまりにけたたましい叫び声に、近隣住民もが何事かと集まり始める。

 順也は、絶命した赤子の首から手を離した。物体と化した赤子の死体が、重い音を立てて床に転がる。

 女教師は順也を指さして喚き散らしながら、完全に腰の抜けた状態で玄関の方へ這いずり始める。背後の惨状を見て頭が混乱しているのだろうと思った順也は、介抱しようと彼女の方に手をさしのべた。

 女教師は恐怖にひきつった表情で叫びたてた。


「近寄らないで、この人殺し! 誰か、誰か来てえっ!」


 最初、順也は彼女が何を言っているのかわからなかった。


「誰か助けて! 殺される! 誰かぁっ」


 どうやら、彼女は自分が背後の惨状を創り出した元凶だと思っているらしい。とんでもない勘違いだ。順也は彼女の間違いを正そうと、あわててかぶりを振ってみせた。


「先生、違います。僕じゃない……」


「助けて! あんた以外に誰がいるっていうの?! あたしは、あたしは見たんだから! あんたが、その赤ちゃんを殺してるところを!」


「僕じゃないんです! 確かに赤ん坊は殺したけど、これは仕方がなかった。他の二人は僕じゃない! 村井先生も裕子も、僕じゃないんだ。この……」


 順也はハッとしたように言いかけた言葉を飲み込んだ。

 ゆるゆると、足元に転がっている小さな肉塊に目を落とす。

 赤子の形をした肉の塊は、柔らかそうな手足を四方に投げ出して動かない。つい先ほどまでは確かに化け物以外のなにものでもなかったはずなのに、目の前に転がっているその四肢は信じられないほど小さく、かよわく、圧倒的に無力な存在だった。こんな赤子が、あの二人をこんなにもむごたらしく殺すことができようとは、いったい誰が想像できるだろうか?  

 部屋の外に人が集まってきたらしい。女教師は、訳の分からない言葉で喚きつつそちらの方へ這っていく。やがて、誰が通報したのだろうか、パトカーや救急車のサイレンの音がけたたましく鳴り響き、にわかに外は騒がしくなってきた。

 だが、そんな喧噪けんそうも順也の耳には届いていなかった。

 順也はそのおぞましい部屋の入口で、周囲の喧騒をひとごとのように眺めながら、ただぼうぜんと立ち尽くすほかはなかった。

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