6.兆候
あの日から、一週間がたった。
順也は不安だった。あの日以来、裕子が登校してきていないからだ。
携帯電話も普及していないこの時代、施設に住まう順也が裕子と自由に連絡をとれる手段はないに等しい。あんな行為をしたことで、彼女を傷つけてしまったのではないか、自分に会いたくなくて避けているのではないか……不安と焦りが日を追うごとに大きくなり、順也の心に重くのしかかってくる。
会いたい。確かめたい。切実にそう思った。
加えて、彼にはもう一つ気になっていることがあった。
『重なった』
あの時、たしか彼女はそう言った。「血」という言葉も口にしていた。血が重なる。それがいったい何を意味しているのか、彼は妙に気になっていた。何となく、不吉な意図がこの言葉にこめられているような気がしてならない。
この日の朝もいつも通り、順也は七時五十分に学校に到着した。裕子が登校してきてくれることを願いながら、ゲタ箱のふたを開ける。
その肩に突然、誰かの手が置かれた。
全く気配を感じていなかったので、順也は飛び上がるほど驚いて振り返ったが、そこに立っていた人物の姿を見るなり、冷水を浴びせかけられたようにゾッとした。
そこに立っていたのは、彼がつい今しがた思いをはせていた人物、裕子その人だった。
裕子が登校してきたこと自体は喜ばしいことに違いない。だが、彼女は様子がいつもとは全く違っていた。登校時間だというのに制服を着ていない。無造作に顔の半面を覆っている櫛も通していなさそうなボサボサの髪に、下着をつけているかさえ疑わしい肩紐のずり落ちたキャミソール。裸足の足には、なぜだか左右種類の違うサンダル。
普段の清潔な制服姿とはかけ離れたその異様な風体に、順也は強い不安を覚えた。
「裕子、その格好……」
発しかけた問いを途中で飲み込む。明らかに表情がおかしい。順也が声をかけても焦点の合わない目線はぼんやりと中空に向けられたままで、顔じゅうの筋肉がゆるみ、半開きの口の端からは今にも唾液が滴り落ちそうだ。
「……裕子?」
登校時間前の昇降口は、静かだ。人気が全くなく静まりかえっている。余計な音をたてようものなら、目の前の裕子の危ういバランスが一気に崩れてしまいそうな気がして、順也は言いかけた言葉を飲み込んだ。無言で向かい合う二人の間に、重苦しい沈黙の澱が降り積もっていく。
と、他クラスの早朝組だろうか、昇降口の外から誰かの足音が響いてきた。
剣呑な静寂に支えられて危ういバランスを保っていた裕子は、その音が聞こえてきた途端に大きく目を見開き、くるりと首を巡らせて順也を見上げた。何か言おうとした順也に構わず右手で彼の袖をわしづかみにすると、まるで引きずるようにして人気のないゴミ置き場の方へ引っ張っていく。すごい力だった。
「何だよ。いったいどうし……」
高台にあるこの学校には、百三十段はあろうかという裏門へ続く長い階段がある。その階段のあたりまで引きずられてきたところで、順也が耐え切れず抗議の言葉を口にした途端、裕子はピタリと足を止めて振り返った。その顔は歪んだ笑いに覆われている。
「重なったのよ」
焦点の合わない目線をどこか遠くに投げながら、小声で彼女は言う。
「子どもができたわ」
「まさか!」
順也は思わず素っ頓狂な声を上げてしまってから、慌てて辺りを見回し声を潜めた。
「あり得ないよ、そんなこと……まだあれから一週間しかたっていないじゃないか。病院へは行ったの?」
「病院が妊娠一週間なんて見分けられるもんですか」
そう言って裕子は、笑顔とも泣き顔ともとれるような表情を浮かべてみせる。順也はその言葉に、少しだけほっとして息をついた。
「何だ、作り話か……。おどかすなよ」
「作り話じゃないわ」
歌うように答えると後ろ手に手を組み、裕子はフラフラと歩き始めた。
「わたしには分かる。だってわたしの子だもの。わたしのおなかの中で、日に日に成長してるのよ。そして……」
裕子は独り言のように呟きながら歩き続ける。順也も戸惑いながら、彼女の後を追って歩き始めた。
「そして、わたしはいなくなる。もう、誰にも止められない。血と血が重なったのよ」
この言葉に、順也ははっと目を見開いた。
「まさか裕子……最初から、これが目的で?」
その言葉に、階段の方に向かって歩いていた裕子はピタリと足を止めた。振り返った裕子の目が、この日初めて順也の目としっかり合う。優子は顔を奇妙に歪ませると、肩を震わせてくっくっと笑った。
「そうよ……とうとう重なった。これであいつらに復讐してやることができる。」
「あいつら? あいつらって、一体……」
「一族の奴ら……見ているがいい。わたしの子どもの恐ろしさを」
裕子は大声で嗤い始めた。人気のない百三十階段一帯に、その声は不気味に反響した。
裕子の言葉に、順也は非常に不吉な意図を感じた。復讐とは何なのか、一族とは誰のことなのか。彼には全く見当もつかなかったが、彼の鋭い第六感は、ひどく不安な未来をその言葉の裏に感じ取っていた。
順也は意を決すると、震える声で懇願する。
「その子を、……堕ろしてくれ。今ならまだ……」
「だめよ!」
奇妙に歪んだ表情を浮かべながら、裕子は決然と首を振る。その顔は、笑っているようにも、怒っているようにも、泣いているようにも見えた。
「誰にも止めることはできない。血と血は重なり、この子はすでに私を支配し始めている。誰にも止られない!」
息を荒げて呪詛のような言葉を吐き連ねる裕子の目は、狂信者のそれに近かった。順也に対する愛情はもはや影すら感じられず、ただ自分の目的成就への欲望と、それを邪魔する者への憎悪のみがどす黒く渦巻いている。
順也はその目の奥に、何か裕子のものではない不気味な影を感じた気がしてゾッとした。
「おまえにも……そして私にも!」
突然、うなりをあげて突風が吹きつけてきた。校舎中のガラスがビリビリと尖った音をたてて鳴り、大ぶりの椎や樫の木までもが、その太い幹をまるでゴムででもできているかのようにしならせる。
あまりの強風に思わず顔をそむけて目を瞑ってしまってから、順也はあわてて彼女の方に目を向ける。
そこには既に、彼女の姿はなかった。
消え入るように止んだ風のあとにはただ一人、ぼうぜんと人気のない階段上に立ち尽くしている順也が取り残されているだけだった。
☆☆☆
それから、裕子が学校に出てくることはなかった。
順也は何度も裕子の部屋を訪ねてみようと思ったが、結局それを実行することはできなかった。
彼女の状態を目の当たりにし、自分の行為が何を引き起こしてしまったのか、その現実を直視するのが怖かったのだ。
だが、学校側がいつまでも無断欠席を放置するはずがない。届けも出さずに長期間学校を休んでいる彼女の行動は当然問題視され、彼がその関係で呼び出されることもしばしばだった。その都度、彼は適当にお茶を濁してその場をしのいでいたのだが、いつまでもそんな手が通用する訳がない。
その日、ホームルームを終えて教室をでた順也は、二人の教師に呼び止められた。
「東くん、ちょっと一緒に来てもらいたいところがあるのだけれど」
一人は、クラス担任の中年女性教師だ。横幅たくましいその女性教師は、真冬だというのに噴き出る汗をハンカチで拭いながら、申し訳なさそうに言葉を続けた。
「実は、一緒に来てほしい所っていうのは、大沢裕子さんの所なんだけれど……」
大沢裕子。裕子関連の案件だろうことはある程度予測していたものの、実際にその名を聞かされればやはり動揺は隠せない。空振が起きたのだろうか、突然、窓枠が振動でぶつかり合う激しい音が響き、女性教師は目を丸くして窓の方を見やった。
順也は慌てて深呼吸してから、おもむろに口を開く。
「お、大沢さん……が、どうかしたんですか?」
「どうしたも何も、ずっと学校に来てないの、知ってるでしょう? 心配で電話も入れてみてるんだけど、誰も出ないのよ」
「で、今日様子を見にいこうという事になってな、それなら君も一緒の方がいいんじゃないかという話になってな」
女性教師の背後に立つ、背の高い男性教師が彼女の言葉を引き継いだ。彼は体育を選任しており、裕子がマネジャーをしていたラグビー部の顧問でもあった。
「君も事情を知らないようだし、心配しているだろう?」
順也は返答に窮した。彼女は自分に妊娠させられた上に、その精神的苦痛で学校にこられなくなっている可能性すらあるのだ。不純異性交遊の事実を教師に知られることも、自分の犯した罪に正面から向き合うことも、順也にとっては非常に厳しいことだった。
「どうしたの? 東君。何か用事でも?」
「……いえ。いいえ。行きます」
――断れば、不審に思われるだけだろう。まだあれから三週間しかたっていない。腹に変化もないだろうし、つわりもおきていないはずだ。会うなら今しかないのかもしれない。
そんな打算に加えて、なぜだか彼は、裕子と二人きりで会うことに言いようのない恐怖を感じていた。自分の罪を目の当たりにすることとは全く別に、彼女と会うこと自体に、自己の生命と安全が脅かされるような、なにか底知れぬ危険を感じていたのだ。一体なぜそんなことを思うのか、その理由は彼自身にも全く分からなかったのだが。
何にせよ、順也が彼女と会って状況を確認しなければならないのは確かであり、打算的と謗られようが、今回のように大義名分や他人の付き添いがあることが、彼が気の重い責務に取りかかる一助になることも確かだ。順也は二人の教師に促されるまま、彼らのあとについて重い足取りで歩き始めた。
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