5.一線

「うちに来る? アパートで狭いんだけど」


 裕子が本当に何気ない調子でこう言ったので、順也は黙ったままその無邪気な笑顔を見つめ直し、壁に掛かっている時計を見上げ、それから作成途中の名簿や資料に目線を落とした。

 すっかり日も暮れ、教室を照らす蛍光灯の明かりがやけに寒々しく感じられる。時計の針は、七時十分を指していた。

 確かにそれは好都合だった。既に下校時刻を大幅に過ぎている。明日までに仕上げなければならない仕事なのだが、自宅に持ち帰ったとて一人でカタがつく量ではない。さっきから守衛が何度も下校を促しに顔を見せているし、場所を変えなければならないことは分かっていたが、二人で落ち着いて仕事ができる場所など他にない。残りは自分が徹夜で仕上げるしかないと、順也は半分覚悟を決めていたのだ。

 

――でも。


 順也は、机の向かい側で資料をまとめている裕子の表情をうかがい見る。

 彼女は確か一人暮らしだったはずだ。家族がいる家にお邪魔するならまだしも、こんな時間に男の自分が一人暮らしの女性の部屋にあがりこんでいいものなのか、もっと言うと、そんな「おあつらえ向きな」状況で変な気を起こさないでいられるかどうか、順也はいまひとつ自信がなかった。とは言え、裕子の自宅に行けるチャンスなど、この先再びあるかわからないのも確かだ。

 何と答えるべきか考えあぐねながら、見るともなく資料を纏める裕子の細い指を眺めていると、その視線に気づいたのか、裕子がふいに手を止めて順也を見た。

 必然的に目があってしまい、ふとどきなことを考えていた自覚がある順也はドキッとして思わず呼吸を止める。

 表情をこわばらせて固まっている順也に、裕子は困ったような笑みを投げた。


「そんなに心配しないで。うちには気を遣うような相手はいないし、大丈夫だから」


 気を遣うような相手がいないこと自体が問題なのだが、その言葉になんとなく、裕子自身が来訪を強く求めている気配が感じられて、順也の気持ちは大きく動いた。彼女の求めに応じれば、大手を振って自宅にお邪魔できる。彼女自身が呼びたがっているのなら、気を回し過ぎる必要もない。都合よく解釈しすぎているような気もしたが、欲求に抗えなくなった順也は遠慮がちに頷いた。


「……じゃあ、少しだけお邪魔するけど、九時までには必ず終わらせるようにするから」



☆☆☆



 彼女の部屋は学校からほど近い、質素だが、それなりにこぎれいなアパートの二階にあった。


「どうぞ、散らかってるけど」


 明かりを点けながら裕子が恥ずかしそうに笑う。

 蛍光灯の明かりに照らし出された彼女の部屋は、カーテンやベッドカバーが優しい色合いの生地で統一されていて、ふんわりと柔らかな雰囲気を醸し出していた。鏡台の前が多少散らかっている他は整理も行き届いていて、生活感が感じられるのは窓際に干してある洗濯物くらいなものだ。裕子はその存在に気づくと小走りで部屋に駆け込み、ぶら下がっていた下着を大急ぎで取り込むと、小物干しを折りたたんで部屋の隅に隠すようにして置いた。


「いい部屋だね」


 扉を開けた途端に部屋から放たれた裕子の香りと、この閉鎖空間に今から彼女と数時間二人きりになるという緊張に思考が停止していた順也は、曖昧な笑みを浮かべながらこれだけ言うのが精一杯だった。


「そうね。叔父がいろいろと援助してくれるから……」


 そのとき、裕子の表情を過ぎったわずかな陰りに、そんな順也が気づけるはずもなかった。



☆☆☆



 仕事がようやく片付いた時には、時計の針は九時をほんの少しだけ回っていた。

 あれこれ考えて緊張していたわりに、いったん仕事を始めてしまえば余計なことを考えている暇など全くなかった。おおよそ約束の時間までに全てを終わらせることができた安心感で、順也はホッと肩の力を抜いて息をついた。


「何とか終わって良かったね」


 裕子は机の上に広げられた資料をひとまとめにしながら、そんな順也に笑いかける。順也も笑顔で頷きかえすと、裕子に倣って荷物をまとめ始めた。

 ふと、裕子は何を思いついたのか荷物をまとめる手を止めると、遠慮がちに口を開いた。

 

「よかったら、一息入れていかない?」


 思いがけない誘いの言葉に、順也は思わず目を丸くして裕子を見た。裕子はその視線に応えるように、心なしか恥ずかしそうな笑みを浮かべて小さくうなずいてみせる。

 その途端、つい先ほどまですっかり忘れていた事実……裕子と二人きりでこの部屋にいるという事実に思い至り、順也の心拍は一気に速さを増した。たちまちのうちに頭の芯が火照り、めまいにも似た高揚感を覚えて、彼はあわてて深呼吸すると、しどろもどろに言葉を返した。


「え、いいよ……ていうか、まずいよ」


「何がまずいの?」


「何って……」


 言い淀んで目線を泳がせている順也に笑いかけると、裕子は返事を待たずに立ち上がった。


「順也くん、コーヒー好きでしょ」


「好き、だけど……」


「じゃあ、飲んでいって。ちゃんと豆挽くから」


 返事を待たずに台所に向かい、返事を待たずにコーヒーメーカーに水を入れ、返事を待たずに豆を挽き始める裕子の後ろ姿をぼうぜんと眺めやりながら、順也がそれ以上何を言えるわけもなかった。



☆☆☆



 可愛らしいカップに注がれていく、湯気の立つ香しいコーヒー。電灯の明かりを反射して光るその黒くなめらかな表面を眺めながら、順也は固い表情で黙り込んでいた。

 部屋中に満ちる芳醇ほうじゅんな香りと、湯気の向こうでほほ笑む裕子。そのあり得ないほど幸せな光景になんだか頭がぼうっとして、もはや何を言っていいのかわからなくなっていたのだ。

 注がれたコーヒーに口をつけることも忘れてぼうぜんとしているその様子に、カップに寄せた柔らかそうな唇を閉じて、裕子は不安そうに首をかしげた。

 

「……飲まないの?」


 順也はハッとしたようにカップを手に取ると、「いただきます」と早口で呟いてから、あわてたようにカップに口をつけた。

 その目が、驚いたように見開かれる。


「あ、……うまい」


 裕子はホッとしたように表情を輝かせると、得意げに笑ってみせた。


「でしょー。がんばって豆挽いたんだもん」


「大沢さん、コーヒー好きなんだ」


「結構ね。順也くんも好きでしょ」


「好き、だけど……自分で豆挽くほどじゃないよ。缶で十分だし」


 何気ない会話が生まれたことで、順也は幾分ほっとした。時計を見上げると、時刻は九時三十分。ずいぶん遅くなってしまった。これ以上遅くなると施設に連絡を入れなければならなくなる。コーヒーを飲み終えたらすぐに帰ろう……なんとなく落ち着かない気分に襲われた順也は、湯気の立つコーヒーを慌て気味に啜った。

 その途端、吸い込んだコーヒーが気管に入ってしまい、順也はカップを手にした状態で思いきり咳き込み始めてしまった。咳をするたびにカップが前後に揺すられ、入っていたコーヒーがテーブルの上に大量にぶちまけられてしまう。


「大丈夫?」


 裕子は慌てた様子で立ち上がると、体を揺らして咳き込んでいる順也の傍らに寄り添い、その背を右手で優しくさすり始めた。順也はせき込みながら、申し訳なさそうに裕子を見やる。


「ごめん……せっかく淹れてもらったのに、こぼして……」


「気にしないで、そんなこと。それより、大丈夫?」


「うん……多分」


 なんとか咳をおさめると、順也は、ぶちまけたコーヒーを拭こうと腰を浮かせかけた。

 刹那。

 その動きを止めるように、裕子の手が順也の手首を強くつかんだ。

 驚いた順也が下方に目を向けると、すがるように自分を見上げている裕子と目が合う。

 何かを強く求められている気がして戸惑いがちに動きを止めた順也の手を、裕子はさらに自分の方へ強く引いた。引き寄せられるようにしてよろけた順也は、裕子の目の前に片膝をついてしまう。

 順也はおずおずと裕子に目を向ける。上目遣いに自分を見つめる、裕子の睫毛の長い潤んだ瞳。その距離、およそ四十センチメートル。こんなに間近で裕子の顔を見つめたことなど今までにない。呼吸すら感じとれてしまいそうな気がして、順也は心臓が縮み上がるような緊張を感じた。裕子と関わる機会が増えたせいか、最近は特に意識せずとも力が発現する状況に至らずに済んでいたのだが、今のこの接近は規格外れだ。順也は気分の高揚を抑えようと、あわてて裕子から目をそらす。

 裕子はそんな順也の様子を探るように見つめていたが、ややあって、おもむろに口を開いた。


「……大丈夫よ、そんなに怖がらなくても」


 裕子は握っていた手を放すと、その手のひらをそっと順也の頬に添える。

 それから、まるで小さな子どもでも諭しているかのように、静かに言葉を続けた。


「過呼吸と同じ。怖がって意識しすぎるから、ちょっとしたことで反応しちゃうの。ドキドキする程度のことなら、本当は能力なんか出ないのよ。もっと自分を信じて、おおらかになって。ドキドキする自分も受け入れてあげて」


 落ち着いた声音が鼓膜を優しく揺らすたび、順也はなぜだか、魔法のように気分が落ち着いていくのを感じた。今まで経験したことのないその感覚に戸惑い、目を丸くして固まっている順也の頬を、裕子は愛おしそうに親指でなでる。


「もっと素直に、自分の気持ちに身を任せていいの。そんなに押さえつけてばかりじゃ、かわいそう」


 そう言うと、裕子は頬を撫でていた親指の動きを止め、くすっと小さく笑った。


「顔……コーヒーだらけだね」


 裕子は親指で順也の口元を撫でると、腰を浮かせ、完全に凍り付いている順也の顔に自分の顔をそっと近寄せた。唇の隙間からほんの少しだけ舌をのぞかせて、頬に飛び散っていたコーヒーの飛沫ひまつをちらりと舐め取る。


――……!!!


 あまりのことに息をのみ、飛び退るように身を引きかけた順也の後頭部を、裕子は抱きしめるように手のひらでそっと抑えた。


「大丈夫。逃げないで」


 耳元でそう囁きかけると、顔中にとびちっているしぶきを舌先で丁寧になめとっていく。両頬、首筋、そして、鼻……。

 順也はその間、呼吸すら止めて完全に凍り付いていた。激しい心臓の鼓動が全身を揺るがせ続けている。だが、なぜだか能力が発動する気配はなかった。裕子にされるがままに身を任せ、その温かく湿った舌先の感触を味わいながら、順也は胸の奥底に無理やり押し隠していた、たぎるような本能が、ゆっくりと頭をもたげてくるのを感じた。


――身を任せていいんだろうか。この感情に……。


「いいのよ」


 呼気まじりにささやきかける裕子の舌先が、順也の開きかけた唇の隙間をなぞっていく。

 刹那。

 順也の行動に縛りをかけていたタガが、はじけ飛んだ。

 順也は無言で裕子の肩をつかむと、仰向けに床に押し倒した。彼女の上に馬乗りになり、その可憐な唇をむさぼる。裕子もそれにこたえるかのように順也の首に両腕を回すと、自分の舌を順也の唇の隙間から差し入れ、舐るように絡めた。

 混ざり合う呼吸と、唾液と、体温と、拍動。

 机の上に置かれていたコーヒーカップが、ビリビリと激しく揺れたかと思うと、耐え切れなくなったように涼しい音を立てて四散した。

 だが、順也の耳にはもう、その音は届いていなかった。

 裕子の滑らかな肌。首筋の甘やかな香り。暖かな体温。湿った舌の感触。五感に刻み込むかのように、順也は裕子の体を隅々まで丁寧に味わい尽くす。

 肌を重ね、絡みあい、もつれあいながら、こうして二人は越えてはならない一線を越えた。

 決して越えてはならない一線を。



☆☆☆



「……重なった」


 狭いシングルベッドの上で体を寄せ合うようにして横たわっていた裕子が、ふいに感極まったように呟いた。


「え?」


 脈絡のないその言葉の意味が分からず問い返してみるも、裕子はそれ以上言葉を継ごうとしない。

 順也は首をかしげたが、実を言えば彼には、そんなことよりはるかに気になっていたことがあった。会話が生じたこの機会を逃してはなるまいと、意を決してその問いを発する。


「……あのさ、大沢さんって……、もしかして……経験、あったの?」


 裕子は少しだけ目を見開くと、ゆっくりと首を巡らせて順也を見た。 

 初めての行為に戸惑う順也を、裕子は終始優しくリードしてくれた。順也の上に馬乗りになり、自ら手を添えて導き入れもした。激しく腰を振り絶頂の快感に打ち震える裕子の姿は、普段の控えめな彼女の姿からあまりにもかけ離れていて、順也が不安になるのも当然だった。

 とはいえ、確かに微妙な質問ではある。暗い表情で黙りこんでいる裕子の様子に、やはり聞くべきではなかったと焦った順也は、慌てて違う方向に話題を振った。


「あ、ていうか……重なったって、何が?」


「血が……」


「え?」


「ううん、私たちのこと」


 裕子は少しだけ笑ってみせたが、すぐにその笑いを納めると、ゆっくりと半身を起こして順也の顔を見つめた。


「どうして経験があるのか、……知りたい?」


 順也は虚をつかれたように黙り込んだが、すぐに不快そうに目をそむける。


「いいよ、そんなの……」


 やはり裕子は経験があったのだ。それだけでもショックだというのに、他の男との具体的な話など聞きたくもない。だが、裕子は決意を固めたような表情で小さくかぶりを振った。


「ごめんね、聞きたくない話だと思うけど……でも、順也くんにだけはどうしても知っておいてほしいの。わたし、二年前、むりやり、叔父に……」


 順也は息をのむと、はじかれたように裕子を見た。半身を起こした裕子は、軽くうつむいた姿勢で白いシーツのうねりに目線を落としている。順也はごくりと唾を飲み込むと、かすれた声で問いを発した。


「叔父、さんに……? しかも、二年前って……」


 裕子は深々とうなずいた。


「そう。わたしは十四歳。そしてわたしは、……子どもを産んだ」


「子ども!?」


 順也は驚愕のあまり跳ね起きた。感情の揺れに呼応するように、テーブルの上に散乱したままになっているコーヒーカップの残骸が、硬質な音を立てて震える。

 裕子は虚ろな目線を手元に落としたまま、暗い声で言葉を続けた。


「もちろんすごく悩んだし、産むのも怖かった。でも、女って不思議よね。生まれてきちゃえばやっぱり嬉しいし、赤ちゃんもすごくかわいかった。だけど、わたしがその子に会えたのは、生んだその時だけ。すぐに叔父がどこかへ連れていって、それっきり……女の子だったってことしか分からない。名前すら教えてもらえなかった」


 裕子はそこまで言うと、言葉を詰まらせて嗚咽した。目元からこぼれ落ちた涙の粒が、シーツに丸い水玉模様を次々につくっていく。

 衝撃的すぎるその告白に、順也の思考は混乱しきっていた。発する言葉も要領を得ず、やっとのことでとぎれとぎれに継がれた問いも、語尾が不明瞭に立ち消えていた。


「そんな、訳の分からないこと……それじゃ、まるで、君の叔父さんは、最初から、子どもが、目的で……?」


「そうよ!」


 裕子は順也を見据えながら、耐え切れなくなったように叫んだ。溢れ出した涙が、白い頬を伝って次々にシーツに滴り落ちていく。


「あの男はあの子をわたしから奪って、知らない顔で別の女に育てさせている。母親であるわたしのことなんか、最初から存在してなかったかのように無視して……。あの男は、わたしのことなんか愛していなかった! わたしはあの男に、子どもを産む道具として利用されただけだったのよ!」


 髪をかきむしらんばかりの勢いで、憑かれたように叫び続ける裕子。順也は半ばぼうぜんとそんな彼女を見ていたが、やおら両腕で裕子の体を抱え込むと、自分の体に密着させるようにしっかりと抱き寄せ、無我夢中でささやきかけた。


「僕がいる、僕がいるから! もう二度と、つらい思いはさせない。絶対に……」


 体温に包まれて気分が落ち着いたのだろうか、裕子は暴れるのをやめると、疲れ切ったように順也の胸に顔をうずめた。

 順也はその体をもう一度しっかりと抱きしめ直してから、噛んで含めるように言葉を続けた。


「これからは、きっといいことばかりだから。そうなるように僕も努力するから。約束する。だからもう、悲しいことは忘れよう。楽しいことだけ考えよう」


 裕子の答えはなかった。

 だが順也は、抱き寄せられても拒否せず全体重を自分に預けているその態度を裕子の是認と受け取った。狂おしいほどいとおしい、この小さくはかない存在を、自分が全力で守りきる。絶対に幸せにしてみせる。順也は決意を新たにしながら、万感の思いを込めてもう一度、その細い体を力一杯抱き締めた。

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