4.キス
そのうわさが校内に流れ始めたのは、夏休みがあけ、学園祭も終わった十月半ば頃だった。
それを初めて耳にした時の順也の動揺は計り知れなかった。
無論彼のこと、表面的にはそんな感情はおくびにも出さなかったが、内心の動揺はそれまで経験したことのないほど激しいものだった。
『相手の二年生って、人気あるらしいよ』
『このあいだ、二人で歩いてるとこ見たよ。結構お似合いだった』
『大沢さんって、大人しそうだけどすごいよね。もうそんな人見つけてさ』
耳をふさごうが、目を閉じようが、意識を閉ざそうが、興味本位のうわさ話が嫌も応もなく意識に流れ込んでくる。そのたび彼は激しく動揺し、そしてその感情の揺れは、必然的にあの力を呼び覚ました。
置かれていた花瓶が突然砕けたり、蛍光灯が破損したり、窓ガラスが割れたり……原因不明の破損事故が立て続けに起こり、生徒たちもさすがに薄気味悪い思いを抱き始めているらしい。「建て替え工事に反対する地縛霊の仕業」だの、「三十五年前の自殺者に呪われた学校」だの、テレビの心霊特番にでも出てくるようなうわさまで流れ始めている始末だった。抑制しなければならないことなど、順也本人が一番よくわかっていた。だがそのうわさを耳にしたが最後、怒涛のような感情の奔流に、ささやかな理性などいともたやすく押し流されてしまうのだ。
ここ数週間、精神的肉体的に綱渡りの状態が続いたこともあり、確かめたい、はっきりさせたいという欲求は、順也の中ですでに限界に近いところまで膨れ上がっていた。だが、朝の教室で言葉を交わす時も、クラス委員の仕事をする時も、授業の合間の休み時間や昼休憩でも、順也はそのきっかけを掴めずにいた。どうすればいいかもわからず、問いかけの言葉を口中にため込んだまま、彼は悶々と無為な毎日を浪費した。
見る人が見れば、今の順也がどうしてこんな状態に陥っているのか、その理由は一目瞭然だろう。だが、こんなわかりやすい状態になってなお、自分の不安定な感情の原因が何によるものなのか、彼自身は全くわかってはいなかった。
☆☆☆
その日の朝も、順也は誰もいない教室で一人、缶コーヒーを飲んでいた。
机の上に置かれた参考書やノートは開かれてもおらず、ペンケースの口は閉じたままだ。なぜだか勉強する気になれず、こうしてぼうっとコーヒーを飲むだけの朝が増えている。
散々だった先日の中間テストの結果を見ても、いい加減勉学に集中しないとまずいことはわかりきっている。だが、机に向かい参考書を開いても、頭に浮かぶのは数式どころか、彼女……裕子のことばかりなのだ。
もちろん、順也はこの高校に入った目的を忘れた訳ではない。今でも、T大合格は彼にとって何をおいても実現させるべき人生最大の目標だ。とはいえ、当時の学生の多くがそうだったように、順也の目標はT大合格で途切れ、その先に延々と続くはずの人生については思考の圏外にある。とにかくT大に入りさえすれば、今のこの孤独で無味乾燥な毎日から抜け出せるような気がしているだけだ。だが、何にしろ、それが順也にとって人生の最大目標であることに変わりはない。
にもかかわらず、今はその最大目標がかすんでしまうほど、彼の中で裕子の存在が大きくなっていた。朝の教室で短い言葉を交わしたり、委員の仕事を一緒にしたり、時々一緒に帰ったりするそのわずかなひとときだけが、暗く孤独な順也の人生を明るく照らし出してくれる唯一の、かけがえのない光明だった。
「おはよう」
ふいに前扉の方からよく通る澄んだ声が響いてきて、ぼうっと考え込んでいた順也は飲んでいたコーヒーを気管に吸い込みそうになった。
慌てて前扉に目を向けた順也の視界に、愛らしい裕子の姿が映りこむ。本を読みながら登校してきたのか、文庫本を片手に、はにかんだ笑顔を浮かべている。その天使のような笑顔を目にした途端、順也の血圧は一気に上昇した。胸が張り裂けそうなここちがして、息苦しささえ感じた。
「何?」
あまりにも熱いその視線に、裕子は小首をかしげて困ったように笑う。順也は慌てて目線を机の片隅に逸らすと、ボソボソと要領を得ない答えを返した。
「え、いや……何でも……」
裕子はカバンを自分の机に置くと、文庫本を片手に順也の机に歩み寄ってきた。
「順也くん、勉強してないの?」
夏休み明け頃から、裕子は順也のことを「東くん」ではなく「順也くん」と呼ぶようになっていた。夏休み中も数回、クラス委員関連の仕事で個人的に会っていたせいだろう。初めてそう呼ばれた時はかなり動揺した順也だったが、裕子との距離が縮まった気がして悪い気はしなかった。とはいえ、順也の方は相変わらず「大沢さん」という堅苦しい呼び方を続けてはいたのだが。
順也は机の片隅に視線を固定したまま、小さく頷いた。
「うん」
「最近そういうこと多いね」
「……そうかな」
「そう思うよ」
順也は裕子の顔をちらりと横目で盗み見た。
自分を見つめる、柔らかな裕子のまなざし。彼女はいつも優しく自分を見つめてくれる。だが、それは自分限定の態度ではない。彼女は誰に対しても同じように優しい。彼女が自分のことをどう思っているかなど、表面上の態度だけを手掛かりにうかがい知ることなど不可能なのだ。
――うかがい知る?
その時、ふいにある考えが頭を過ぎり、順也はハッと目を見開いた。
――受信する?
彼の不思議な能力の一つ、相手の考えを読み取る力。この能力を使って、裕子の思考を盗み見ることを、彼は唐突に思いついたのだ。
そのあまりにも不遜な思い付きに、彼の脈は一気に速さを増した。
彼は生まれてこのかた、自分個人の目的のためにこの能力を行使したことは一度もない。
彼にとってこの力は忌むべきものであり、抑圧し
だが、順也はこのとき初めて、自分個人の目的のために能動的に力を行使することに思い至った。裕子の内心を知りたいという抑えがたい欲求が、この化け物じみた能力を行使する恐怖――本当に「化け物」になってしまうかもしれない恐怖――を上回ったのだ。
幸い、裕子は手にしている文庫本に目線を落とし、自分から注意をそらしている。彼はごくりと唾を飲み込むと、深く息を吸い込んで目を閉じた。裕子の意識に入り込み、その内心を読み取れるまでに
だが、なにも見えてこなかった。
意識の網をかいくぐるところまではできた。だが、同調したはずの裕子の内心は、霞がかかったようにぼんやりと煙って、なにひとつ明確に認識できるものはなかった。
順也は肩を落とすと、集中をといて大きく息をついた。使い慣れない能力をいきなり思い通りに
できることは、やはり一つしかない。
自分の疑問を、直接彼女にぶつけることだ。
ただし、例の力は絶対に使えない。受信だけなら相手に大したダメージを与えることはないが、意識を送信した場合、それを受信する相手は相当な肉体的ダメージを被るからだ。頭痛、目眩、吐き気はもちろん、悪くすれば失神、昏倒もありうる。裕子に対して、そんな危険なことはできるはずがないし、やりたくもない。口頭で疑問をぶつけようと、順也が決意を固め、息を吸い込んだ、刹那。
「さっきから、どうしたの? ぼうっとして」
余りにも長い間、順也が動きを止めて沈黙していたせいだろう。裕子が訝しげに順也の顔を覗き込できた。睫毛の長い大きな目に至近距離から見つめられ、せっかく出かかった言葉が喉の奥に固まって、出てこなくなってしまった。思わず、何でもないというように首を振ってみせてしまう。裕子は不思議そうに首をかしげると、再び手元の本に目線を落とした。
――どうして、いつもこうなんだ。
順也は俯いた。自分が情けなくて仕方がなかった。膝の上に置いた手を固く握りしめ、奥歯をきつく噛みしめる。
――送信でなら、聞けるんだろうか。
送信なら自分の思いを素直に表せそうな気がして、絶対にしてはいけないことだとわかっているのに、順也はなぜだか強く心惹かれた。つい先ほど受信に失敗したせいだろう、抑制状態に慣れた今なら、たとえ送信を試したとしても、裕子の意識の網をかいくぐれるほど強い思念を送ることはできないような気さえしていた。
だから彼は、解いてしまったのだ。自分の力に強くかけ続けていた抑制を。
次の瞬間、限界まで膨れ上がっていた欲求が、言語とは別の意識そのものの塊となって堰を切ったようにあふれ出す。
【誰かと付き合ってるのか?】
順也の頭の先からつま先まで、悪寒が一気に駆け抜けた。
確かに送信した。送信してしまった。自分の思念が、裕子の意識の網をくぐりぬけて脳に到達するのを、彼は確かに感じた。それはこれまでの人生で三度経験している、何とも言い難い感覚だった。そしてその三度とも、彼は「化け物」という罵声とともに相手の友人を失っているのだ。
どうして抑制を解いてしまったのだろう。魔がさしたとしか言いようがない。しかも欲求が膨れ上がっていた分、あの思念は相当に強力なエネルギーをまとっていた。受信の衝撃で失神、昏倒することも十分にありうる。順也は指先が震え出すのを感じながら、恐る恐る目線を上げ、目の前にたたずむ裕子の様子を盗み見た。
彼女は文庫本を片手に、先ほどと変わらない様子で立っているようだ。だが、もしかしたら立ったまま失神しているのかも知れない。もしくは、自分が所謂「化け物」だったと知って、恐怖で動けなくなっているのかも知れない。体中から冷たい汗が噴き出てくるのを感じながら、問いかけの言葉を発することはおろか、身動きひとつすることができずにいた。
穏やかな朝のひと時。通学路を並んで歩きながらのたわいもない会話。彼が大切にしていたささやかな幸せが音を立てて崩れていく。断崖から突き落とされるような絶望感を味わいながら、順也は、それが自分にはふさわしいのかもしれないと思った。自分のような異形の化け物が幸せな日常を望むこと自体が間違いだ、化け物は化け物らしく一人で孤独に誰とも関わらずに生きるべきで、それが嫌ならさっさとこの世から消えてなくなった方がいい……絶望が希死念慮に姿を変えて、彼の心をじわじわと侵食し始めた、その時。
「いないわ、そんな人」
唐突に、あっけらかんと返された言葉。確かにそれは、あの質問の答えだ。順也は寸刻機能停止してから、おずおずと顔を上げて裕子を見やる。裕子は困ったように笑って首をかしげてみせた。
順也はごくりと唾を飲み込むと、やっとのことで短い問いを発する。
「……今、なんて」
「いないって言ったの、付き合ってる人なんて。順也くん、もしかしてあのうわさ信じてたの? あれは、直くんが一方的に言いふらしてるだけ。わたしはちゃんと断ったから」
そう言うと裕子は、順也の机の前にしゃがみ込んだ。あっけにとられて固まっている順也を、両手で頬づえをついた姿勢で上目遣いに見上げる。
順也は混乱していた。自分は確かに裕子に送信したはずだ。その証拠に彼女は送信内容を理解し、問いかけに答えてすらいる。だが、裕子の様子にはなんの変化もみられない。受信したなら身体症状が出るはずだが、彼女は不調を訴えるどころか、たいして驚いた風すらなく、ごく当たり前に会話を続けている。
もしかしたら、単なる自分の勘違いだったのかもしれない。送信したような気がしていただけで、実は普通に音声で喋っていたのかもしれない。抑制状態が日常化した今の自分は、能力を出そうと思っても出せなくなっているのかもしれない。そういえば確かに、さっきも思考の読み取りができなかった。きっとそうだ。そうに違いない。
無理やり話のつじつまを合わせ、一人納得して頷いている順也を眺めやりながら、頬づえをついた裕子はくすっと笑った。
「そっか。でも、よかった」
「え? なにが……」
裕子はいったん口をつぐむと、ややあって、一言一言かみしめるように言葉を発した。
「やっぱり、順也くんにもあったんだね……。『力』」
――……え?
一瞬、順也は裕子が何を言っているのかわからなかったが、その意味を理解した途端、
彼女は、やはり自分の送信を受信をしていた。そして、確かに彼女はこう言ったのだ。順也くんに「も」と……!
裕子は、そんな順也を悠然と眺めやりながら、言葉を続けた。
「わたし、
淡々と継がれる、想像もしていなかった衝撃の事実。順也は完全に思考停止していた。言葉を返すことはおろか、動くことすらできずに、ただ目の前でほほ笑む裕子の顔をあっけにとられて見つめ返すことしかできなかった。
そんな順也に、裕子はふいに右手を差し伸べた。感触を楽しむように順也の前髪をさらりと指先で撫で、それから、その手を順也の頬に優しく添える。
裕子の指先を彩る、奇麗に切りそろえられた桜色の爪。裕子はその美しい指先で順也の半開きの唇をそっと撫でると、ささやいた。
「……だから、安心して」
裕子は腰を浮かせると、左手を机について身を乗り出した。思考停止して固まっている順也の顔に自分の顔を近寄せると、流れるようにその唇に自分の唇を重ねる。
「……!」
心臓が止まるかと思うほどの衝撃だった。
甘い香りと微かな呼吸、温かな手の温もり、そして柔らかな唇の感触。何もかもが未体験で、何もかもが甘美で、何もかもが衝撃的すぎる。その強烈で官能的な刺激に、順也は、脳の血流が逆流するかと思うほど激しい感情の揺れを感じた。
朝の教室の静謐な空気を切り裂くように、鋭い破壊音が響き渡ったのはその時だった。
その音が鼓膜を貫いた瞬間、順也ははっとわれに返った。裕子も唇を離すと、音の響いてきた方に首を巡らせる。
校庭側の窓ガラスが一枚、粉々に砕け散っていた。割れたガラスの切っ先を撫でて吹き抜ける秋の風が、順也の机に置かれている裕子の文庫本のページを気まぐれに捲る。順也の背中を、冷たい汗が流れ落ちた。送信なんていう生易しいものではない。これは明確な破壊行為だ。こんなあからさまな暴力を見せつけられて、普通の人間が平静でいられるわけがない。
蒼白な顔で割れた窓ガラスを凝視している順也を横目で眺めやると、裕子はくすっと笑った。
「ごめんね。びっくりさせちゃったかな」
裕子は席を離れると、教室の背面黒板脇に置かれていた、誰かの忘れ物らしき硬球を手に取った。戸惑ったような表情で自分を見つめる順也に構わず、すたすたと割れた窓の側に歩み寄り、ガラスの穴から手にしていた硬球をポンと外に投げ捨てる。
「大丈夫、わたしがやっちゃったことにするから」
「……え、」
ようやく思考が回り始めた順也が焦ったように口を開いたが、裕子はその言葉を遮るように笑ってみせた。
「気にしないで」
ザワザワとした話し声と、騒がしい足音。他の級友たちが登校してきた気配を察すると、裕子はそう言い捨てて踵を返し、自分の席に戻っていった。
その後ろ姿をぼうぜんと眺めやりながら、順也は完全に混乱していた。登校してきた友だちと笑い合う普段通りの裕子。だが、つい先ほど、その普段の姿からは想像もつかない衝撃の事実を告げられた。その上、彼女は突然順也に対してあり得ない行為に及び、そのせいでとんでもない失態を犯した彼に対し、恐怖するどころか笑顔でその後始末を引き受けたのだ。訳が分からなくなるのも道理だった。今の混乱しきった彼に、裕子の真意を推し量ることなどできるはずもなかった。高揚する感情を無理やり押さえつけ、これ以上の失態を犯さないようにするので精一杯だった。
☆☆☆
少なくとも、二人の関係が大きく進展する最大のきっかけがこの一件だったことは間違いない。
不可解な力を有するという稀有な共通点は、二人の関係をより緊密なものとなすのに十分だったからだ。
順也と裕子の急接近は、やがて一年生の間でも話題に上るほどになった。裕子は一部男子の間でひそかに人気が高かったらしく、取り立てて目立つところもなく影の薄い存在である順也を相手に選んだことは、かなりの驚きと微かなねたみを含む、どちらかといえば批判的な口調で語られた。だが、順也は他人になんと思われようがどうでもよかった。彼にとって、裕子と過ごす時間以上に大切なものなどなかったからだ。
順也と同じように決して幸せとは言えない境遇で生きてきた裕子。母親は若くして亡くなり、父親もごく最近不慮の死を遂げ、叔父の援助を受けながら高校一年にして一人暮らしをしているという。目立つ力はないにしろ人の心を読んで気味悪がられることも少なからずあり、それが原因で孤独な幼少期を送ったそうだ。
裕子は、ぽつりぽつりとしか自分のことを話さなかった。が、順也にとってはそれで十分だった。聞いてほしいのなら喜んで聞くが、話したくもないことをあれこれ詮索するべきではないし、彼女の過去がどうであろうが、順也にとっては目の前にいる彼女が全てであり、それで十分だったからだ。
交際が深まったと感じた十二月、必死でバイトしてためた金で買ったささやかなクリスマスプレゼントとともに、順也は決死の覚悟で裕子に自分の気持ちを伝えた。が、裕子はそれに対し、はっきりとした答えを返してはくれなかった。ときおり大胆な行為に及んで度肝を抜かれることはあっても、きちんと言葉にして気持ちを伝えられたことはなく、それどころか、一線を引いて彼を見ているような冷静な態度が見え隠れすることすらあり、そのたび、彼は胸が焼けるような不安に苛まれた。
――自分は、どう思われているのだろう。
確かめたいという欲求は、彼の中でまさに臨界点に達しようとしていた。無論勉強など手につく訳もなく、成績は下降の一途をたどっていたが、もはやT大入学という目標すら、彼を現実へ引き戻す決め手にはなり得なかった。
そして、そんなある日。
忘れもしない、一九九@年二月一五日。
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