3.朝

 順也の朝は早い。

 彼はなるべく人と顔を合わせたくない。故に、彼は異常に早く起きる。五時前には起床し、洗濯機をまわし、全員分の朝食を一人で支度して、他の児童が起き出してくる前に食べ終えてしまう。ようやく担当の職員が起き出してくる頃には、彼はすっかり自分の食器を片付け終え、洗濯物も干し終えて、自室にこもって朝の勉強を始めているのである。

 そうして七時になると、彼はさっさと学校へ出かける。

 割合に混んだ電車に揺られ、大きな川の畔にある高校に着くのは、大体七時五十分頃である。

 開門時間より遙かに早いが、七時四十五分には解錠されていることを知っている彼は、缶コーヒー片手に校舎内に入り、誰もいない教室で再び勉強の続きを始める。

 この時間が、彼は結構気に入っていた。

 その一番の理由は、人目を気にすることもなく緊張を強いられることもなく、彼がゆったりと学校に存在していられる唯一の時間だからなのだが、最近、それに加えてもう一つ、この時間が好きな理由が増えた。

 飲み終えた缶コーヒーの空き缶を机の中に放り込むと、順也はちらりと時計に目線を送る。

 七時五十八分。そろそろ現れる頃だ。順也は再び問題集に目を落としたが、無意味に文字の羅列を目で追っているだけで、問題の中身はさっぱり頭に入ってこなくなっていた。

 やがて、静謐な教室の空気を震わせて、前扉が引き開けられる低い音が響く。

 順也は問題集に目線を落としたまま、思わず呼吸すら止めた。


「あ、おはよう」

 

 鼓膜をくすぐる、心なしかはにかんだような可愛らしい声。


「……おはよう」


 順也は問題集から顔を上げず、呟くように言葉を返す。

 教室に入ってきた大沢裕子は首をかしげてちょっと笑うと、自分の机にカバンを置き、順也の席に歩み寄ってきた。裕子の気配に意識を尖らせていた順也は、慌てて無意味にシャーペンを動かしてみせる。


「何してるの?」


「……勉強」


 順也は問題集に目を落としたまま、不愛想に答える。彼にしては上出来な方だ。朝の教室で初めて彼女に遭遇した時などは、話しかけられても何ひとつ言葉を返せなかったのだから。とはいえ、入学から一カ月近くたっているとは思えない態度ではあるのだが。

 

「ふうん……」


 裕子はそう言ったきり黙り込んだ。

 順也は、裕子の視線を額のあたりに感じながら、拍動に全身を揺すぶられつつ、必死で気分の高揚を抑えていた。

 彼にとって裕子に会うのは確かに密かな楽しみだった。だが、それは同時に不安な一時でもあった。彼女と接すると、気分の高揚がどうしても抑え難くなるからだ。それはつまり、あの忌まわしい力の現出可能性が高くなる事を意味している。

 そういう事態を避けるために、これまで彼は人との関わりを極力避けてきた。本来ならば裕子との関わりも、真っ先に断ち切るべき類のものだろう。だが、彼は今回、一度もそうしようと思わなかった。というより、断ち切るという選択肢自体が彼の頭に存在しなかった。それがいったいなぜなのか、彼には皆目見当がつかなかったが、そんな自分の変化に、彼自身も戸惑っていることだけは確かだった。

 

「あ、そうだ」


 裕子はふいに椅子を鳴らして立ち上がると、自分の席に戻った。何を探しているのか、しばらくカバンの中を探ってから、そこから取り出した一枚の紙片を手に順也の側に戻ってくる。


「この間の話し合いで決まった係分担、打ち出しておいたから」

 

 順也は裕子が差し出したその紙を見て、目を見はった。紙片には、体育祭の係分担が活字できれいに印字されていたからだ。


「え……これ、大沢さんが?」


「うん。わたし、パソコン持ってるから」


 その言葉に、順也は目を丸くした。

 今でこそパソコンは当たり前だが、当時はまだまだ出始めで、仕事で使う一部の層を除き、パソコンを使える一般人などごく少数だった。高校生である裕子が当たり前にそんなものを使いこなしていると知り、可愛らしい顔に似合わぬ意外な一面を見せつけられた気がして、思わず順也は裕子の睫毛の長いくりっとした目をまじまじと見つめ直してしまった。

 裕子は赤くなると、照れ隠しのように笑った。


「もらったの。古くなったからって……でも、大したことはできないのよ。ワープロ機能と、インターネットがちょっと覗けるくらいで」


「それでもすごいよ。こんな文書が作れるなんて」


「見直した?」


「え?」


 訝しげに首をかしげた順也に、裕子はいたずらっぽくほほ笑んでみせる。


「だって、東くん何でも一人でやっちゃうから。わたし、今のところ何にも相談された覚えがないし……この係決めの時だって、わたしは黒板に決まった事を書いただけだったし」


 裕子はそう言って順也を軽く睨む。あわてて順也は大げさに頭を振った。

 

「え、いや、別に、そんな気は、全然……」


「そうかなあ。わたし、必要ないって感じだし」


「必要ないだなんて、そんなこと……」


「ほんと?」


 裕子は腰をかがめ、順也の顔を覗き込んだ。

 至近距離でまばたく、まつ毛の長い大きな目。いたずらっぽい笑みを浮かべたバラ色の頬。体温すら感じてしまいそうな気がして、順也は息をのんでのけぞると、思わず椅子をならして後退ってしまった。

 そのやりすぎな反応に裕子は目を丸くすると、クスクスと肩を揺らして笑った。 


「そんなにおののかなくてもいいじゃない」


「べ、別に、おののいてなんか……」


 視線を落ち着けどころなく彷徨わせながら、順也はそれだけ返すのが精いっぱいだった。

 何を考えているのか、裕子は口をつぐむと、そのままじっと順也を見つめている。額のあたりに彼女の絡みつくような視線を感じて、拍動がみるみる速さを増していく。焦った順也が、なんとか気を紛らわせようと難解な数学の公式をそらんじ始めた、その時。

 ふいに、裕子が順也に右手を差し伸べた。

 目を見開き、息をのんで固まった順也の目元にかかる茶色い前髪を、裕子はその優雅な指先でさらりと撫でて、呟いた。


「……東くんの髪、きれい」


――……!


 拍動が一気に加速し、血圧が上昇する。こめかみが激しく揺すぶられ、締め付けられるような軽い頭痛すら感じる。気を落ち着けることなど不可能だった。順也はきつく目をつむると、息を詰め、身を固くして、これ以上の刺激を受けないよう感覚を遮断した。

 もし今、新たな刺激を与えられようものなら、とんでもない事態が起きると彼は確信していた。似たような事はこれまでにもあり、そのたび彼は似たような失敗を重ね、だからこそこれまで彼は人とのかかわりを避けてきたのだ。しかも、この動揺から察するに、現状は確実にそれらのどれよりも大きな危険をはらんでいる。

 時刻は既に八時十五分を過ぎ、登校してくる生徒の数が増えてきた。この教室へ向かって歩いてくる幾人かの気配と、響いてくるにぎやかな笑い声。もうダメかもしれないと、絶望に近い思いが心を覆い始める。血の気の引いた順也の頬を、冷たい汗が伝い落ちる。

 裕子はくすっと小さく笑うと、椅子を鳴らして立ち上がった。動けずにいる順也を悠然と見下ろすと、どこか妖艶な笑みをその頬に浮かべる。

 

「これ、あげるね」


 手にしていた紙片を順也の問題集の上に置くと、裕子は登校してきた女友達に手を振り、自分の机に戻っていった。

 視線の圧力から解放された順也は、大きく息をついて全身の力を抜いた。

 談笑する裕子の明るい声が耳朶をかすめ、順也は恐る恐る顔を上げると、声のする方を盗み見た。視界に映りこむ、裕子の無邪気な笑顔。そこにいるのは拍子抜けするほどごく普通の、どこにでもいそうな十五歳の少女だった。先ほどまでの妖艶な雰囲気がウソのようだ。

 こんな普通の女の子に対して、なぜあれほど緊張を感じたのだろう。人と接することに慣れていないとはいえ、あまりにも情けない。順也は自嘲気味に息をつくと、誰も自分を見ていないことを確認してから、机の中に入っていた何かをそっと取り出した。

 それは、金づちか何かでたたきのめしたようにペシャンコにつぶれた、小さな丸い金属の板だった。

 順也はコーヒー臭いその丸い板を制服のポケットに突っ込むと、ギリギリとはいえなんとか抑えきった自分を褒めつつ、額に滲んだ汗をそっと拭った。

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