2.夢

 マイクロバスは初夏の風をうけながら、まぶしい日差しがあふれる道を軽やかに走り抜けていく。

 座席に座る園児達の表情は、一様に明るく輝いていた。心地よい高揚感に包まれながら、興味深げに窓の外を眺めたり、友だちと笑いあったり。今日のこの日が楽しい一日になることは、誰にとっても疑いようがなかった。

 バス席の中ほどに座る、青いスモッグを身にまとった茶色い髪の園児――順也も、嬉しくて仕方がなかった。遠足はもちろんのこと、それ以上に嬉しい出来事があったからだ。園児に人気の先生が、順也に似顔絵をプレゼントしてくれたのだ。長い順番待ちの末にやっと手に入れた似顔絵は、順也の特徴をよくとらえた、それでいて可愛らしい今どき感あふれる絵柄で、順也は嬉しくて嬉しくて、遠足だというのにそれをスモッグのポケットに忍ばせてきて、思い出しては取り出して眺めていた。

 そうして何度目だろう、順也がポケットから取り出した似顔絵に口を開けて見入っていると、隣に座る女の子が身を乗り出して順也の手元を覗き込んできた。


「何見てるの?」


 順也が得意げに似顔絵を見せると、女の子はクリッとした目をさらに大きく見開いて歓声をあげた。


「わあ、すごーい」


 その声に、前の席に座っていた大柄な子どもが、背もたれを抱え込んで身を乗り出してきた。通路を挟んだ隣の席や後ろの座席の子たちも、順也の手元を見ようと座席から腰を浮かせて首を伸ばす。


「まあ、ダメですよ。ちゃんと座りなさい」


 付き添いの教員がたしなめると、おおかたの子どもたちはおとなしく座席に身を沈めたが、興味が抑えきれなかったのだろうか、前の席の大柄な児童がやおら席を立ち、順也の手から無言で似顔絵を奪い取ってしまった。

 バスの中はちょっとした騒動になった。

 教員は児童を座らせようと必死で声をかけるが、きかん気で通っているその大柄な児童は全く言うことを聞こうとしない。似顔絵を持ったまま、教師の手をすり抜けるようにバスの後方へ逃げていく。


「返してよー」


 似顔絵を返してほしくて、順也は半べそをかきながら立ち上がろうとする。だが、教員はこれ以上の車内を混乱を許さない。無理やり座席に押しつけられるようにして座らされた順也は、教員の手を振りほどこうとして暴れた。


「ダメよ順ちゃん、お席に座ってなさい!」


 教師は厳しい声で順也を制してから、なだめるように少しトーンを和らげた。


「先生が取ってきてあげるから……」


 次の瞬間。

 小さな叫び声が、バスの後方であがった。

 振り返った順也の視界に、後部座席に設えられた大きな窓の外を旋回しながら飛び去る小さな紙片が映り込んだが、それはあっと言う間に遥か後方へ飛び去り、見えなくなった。

順也は、何が起こったのか理解できなかった。ただぼうぜんと、似顔絵の飛び去った方向に目を向けることしかできなかった。似顔絵を奪った児童が先生に怒られている声も、彼の形式的な謝りの言葉も、先生の慰めの言葉も、何一つ彼の耳には届いてはいなかった。

 彼の頭にあったのはただ一つ、似顔絵を取り戻すことだけだった。


「順ちゃん、許してあげてね」


――いやだ。


「隼人君も、わざとやろうとしたんじゃないのよ」


――返して。


「お外にまっていっちゃったんだもの、取ってこられないし、諦めようね」


――取ってくる。


「そうそう、涙を拭いて……いい子ねえ」


――僕が、取ってくる。


 先生に肩を抱かれていた彼の意識が、その一点に完全に集中した、刹那。


 彼の姿は、その場から忽然と、消えた・・・



☆☆☆



 夜風にはためく白いカーテンが、闇の中にぼんやりと浮かび上がって見える。

 開けはなった窓から見えるほの白い夜空を見上げながら、順也はまだ幾分荒い呼吸を落ち着けようと、小さく息をついた。

 体中から噴き出た汗が夜風に冷やされて寒気が走る。順也は身震いすると、ベッドを降りて窓辺に歩み寄り、窓を閉めた。

 窓枠に手をかけたまま、順也は窓の外の道路に目を落とす。

 道路は街路灯のぼんやりとした明かりに照らされ、ほの白く浮かび上がっているように見える。

 順也は見るともなく白い路面に目を向けながら、絞り出すようなため息をついた。


 久しぶりに見た、あの夢。

 小学校高学年くらいまでは、毎晩のようにあの夢にうなされていた。夢の最中にあの力が現出し、無意識に室内のものを破損したり、隣で眠る同室の子どもにケガを負わせたこともあった。だが、成長に伴い、意識的に力を抑制することができるようになるにつれ、そんな失態は少なくなっていった。最後にこの夢を見たのは中二の時だっただろうか。それからは、ある程度安定した夜を過ごせるようになっていたのに。


――昼間の失敗のせいか。


 順也は肩を竦めると、口の端で自嘲的に笑う。

 昼間、階下で現担当者である相原と話していた中年女性。

 彼女は飯塚文枝という。四年前から昨年までの三年間、主な担当としてこのグループホームで子ども達の世話をしていた施設職員だ。


 そう。ここは普通の家庭ではない。身寄りのない子ども達を保護し、生活の場を与える児童養護施設なのだ。

 順也は十六年前、東京駅のコインロッカーに遺棄され、保護された孤児だ。ロッカーから救出された彼の腹には、落ちにくい口紅らしきもので「順也」という名だけが書かれていた。姓が不明だったため、当時の区長に東京駅から取った「東」という姓を与えられたと聞いている。成長に伴い乳児院からこの児童擁護施設に移され、現在に至っている。

 多くの施設が無機質な施設に児童を集め、家庭とは異なる様式で生活しているのに対し、この先進的な施設は普通の家とほとんど変わりない住居に少人数の児童と職員を配置し、普通家庭と変わりない生活を送れるスタイルを取っている。だが、それでも低年齢時は数人が一緒の部屋で生活をともにしなければならない。食事をとったり入浴したりする際の決まり事も普通の家庭よりは面倒だし、プライバシーの保持も難しい面がある。できるだけ他人と接触を持ちたくない順也にとって、施設での生活は精神的に削られる毎日だった。


 順也が他人と接触を持ちたくない原因――それは、彼が生まれながらに持っている、その不思議な力にある。

 その力が初めて現出したのは、五歳児だった彼が幼稚園のバス遠足に出かけた時だった。

 窓の外に飛び去る似顔絵を取り戻すことだけに彼の意識が集中した瞬間、彼は走行中のバスの中から忽然と消えた。バスの中は一時騒然とし、急停車させたバスから飛び降りた引率の教員が総出で周囲を探し回った。結局、路傍で似顔絵を手にきょとんとしている彼が発見されたのは、消失から三十分ほどたった後だったという。

 それが俗に言う「瞬間移動テレポーテーション」というものらしいということは、彼自身ずいぶん後になって知ったことだった。

 それ以来、周囲の順也を見る目が変わった。少なくとも、順也はそう思っている。

 自分がどうしてこんな力を持っているのか、他ならぬ順也自身にも分からない。他人との接触によって感情が揺さぶられる度に(それは喜怒哀楽全ての場合に起こりうる)、その力は不随意に現出した。手を触れずして物体を破壊したり、相手の考えていることを読み取ってしまったり……様々な形で現出するその力に、周囲の子ども達は怯え、戸惑い、恐怖した。ことに、その力によって何らかの被害を受けた児童は、彼のことを「化け物」と呼んで忌み嫌った。こうして、小学校高学年に上がる頃までには、順也の周囲には誰も寄りつかなくなっていた。


 でも、順也はそれで良かった。

 順也自身が、この力を持てあましていたからだ。


 彼がその力を出そうと思って出した事は一度たりともない。彼にとってそれは感情の昂ぶりに伴い不随意に現出してしまう反射のようなもので、特に感情の起伏の激しい低年齢の頃は抑制など不可能だった。年齢が上がるにつれてある程度制御できるようになったとはいえ、実態は制御というよりは強引な抑圧に近く、激しく感情が揺さぶられればどこまで抑えきれるか分からない。だからこそ、彼は他人との接触を徹底的に避け、十六年間ひとりで生きてきた。


 ゆえに昼間の出来事は、彼にとって久しぶりの失態だった。

 彼は部屋の片隅に置かれている丸く膨らんだレジ袋を見やって苦笑した。

 個室があてがわれたことによって、おそらく緊張が緩んでいたのだろう。まさかあんなことくらいで、植木鉢を砕いてしまうとは思わなかった。幸い、階下が騒がしかったせいか異常に気づく者はなく、彼はこっそり飛び散った土と観葉植物をレジ袋に集め、事なきを得たのだ。

 要するに、ホッとしたり、気を緩めたりしてはいけないということだ。明日から通うことになる青南高校でも、今まで通り他人との接触をできる限り避け、細心の注意を払って生活しなければならない。そうでなくても、級長などという面倒くさい上に他人との接触を余儀なくされる役割を押し付けられてしまったのだ。会話や共同作業は最低限にとどめ、できるだけ一人で過ごすようにしなければならない――あれこれ制約を課さなければ生活が成り立たない現実を改めて思い知らされた気がして、順也は肩を落とすと、憂鬱ゆううつなため息をついた。


 そんな順也の脳裏を、ふと一人の女生徒の面影が過ぎった。

 バラ色の頬にふんわりと笑みを浮かべながら自分を見つめる、彼女のやわらかな、それでいて凛としたまなざし。

 彼女を思い出した途端に、順也の心臓は倍速で脈打ち始めた。そのあまりにも急激な変化にギョッとすると、あわてて大きく息を吸って鼓動を落ち着けようと試みる。だが、拍動は収まるどころかますます激しさを増し、息苦しささえ感じ始めた。


――大沢、裕子。


 異様な感情の昂ぶりに戸惑いながら、順也は噛みしめるように彼女の名前を反すうした。

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