8.殺人

 薄暗い留置場の中で、彼は考えていた。

 四角い、何もない畳敷きの小さな部屋。その片隅に膝を抱えて、畳の横縞を見るともなく眺めながら、彼は考え続けていた。

 裕子の目的を。

 彼女はいったい何のために自分のような人間に近づき、あんな化け物を生みだそうとしたのか。

 いくら考えても、答えは全く出なかった。裕子とのやりとりを思い返そうとしても、楽しかった日々の思い出がただ浮かんでは消えていくだけだった。

 出会った日のこと。生徒会関係の仕事を一緒にする中で深まった関係。互いが不思議な力を持っていることを知ったあの日。初めての、そして最後の夜……。

 そういえばあの日。行為のあと、彼女は確かこんな言葉を口にした。


『重なった』


 何のことを言っているのか、その時の順也には全く分からなかった。自分とのああした行為を、そういう言葉で表現しただけかと思っていた。

 だが、もしかしたらあれは、あの恐ろしい子どもが産まれることを予期した言葉だったのではないか。

 言い様のない感情が、順也の全身を貫いた。

 だとすれば彼女は自分の死も、そしてこの恐ろしい結果も、全てを予測して自分に近づいたことになる。全てを知り、覚悟した上て、彼女は自分を誘惑したのだ。

 一体何のために? 自分の生命を犠牲にしてまで。


『あいつらに復讐してやることができる』


 確か、彼女はこうも言った。

 あいつらとは誰なのか? 復讐とは一体何なのか? 考えれば考えるほど分からないことが増えるばかりだが、ただ一つだけはっきりしていることがあった。彼女が自分に近づいたのは、愛情でも何でもなかったという事だ。

 順也は震える拳を堅く握りしめ、膝に顔を埋めた。

 だとすれば、あの赤子を殺したということは、裕子が死を賭して残そうとした彼女の目的そのものを消したということになる。何か大きな目的のために自分の生命と引き替えに残した、彼女のこの世で唯一の、形見を……。

 固く閉じられた目の際から流れ出た涙が、裂き傷だらけの制服のズボンに染みこんでいく。

 だが、殺らなければならなかった。

 あんな恐ろしい化け物をこの世に残しておくわけにはいかなかった。あれをこの世に産み出した者の責任として、彼は自らの手で、彼女が命を賭して残した彼女の忘れ形見を消さねばならなかったのだ。

 薄暗く静かな留置場に、順也の嗚咽の声だけが、淀んだ空気をわずかに揺らしながら響き続けていた。



☆☆☆



 大学病院の地下、人気のないその部屋は暗く、冷たい。

 司法解剖を待つ三体の変死死体は、そこに並んで寝かされている。

 異変が、そのうち一体に近づいてきていた。

 白骨化していない遺体は二体とも変色し、死後硬直も進んでいるのだろう。赤子の死体も例外ではなく、はた目から見てもとうてい生きているとは思えない状態だった。

 だが。

 動いているのだ。

 赤子独特の膨らんだ腹部が静かに、だがはっきりと波打っている。まるで、裕子の腹からそれが這い出たときのごとく。しかも今度は、その動きは腹部だけにとどまらず、手足や頭部に至るまで、全身に波及している。

 見る間に激しさを増す上下動の勢いで、赤子の遺骸は一転した。背中を天井に向けてなお、その体は内部から激しく波打ち続けている。

 その動きがふいに止まった、次の瞬間。

 赤子の背中に赤い光が一直線に走り、光跡からぱっくりと二分された背中の裂け目を掴み、「それ」はゆっくりと這い出してきた。

 「それ」とは……赤子だった。  

 黄色い液体にねっとりとまみれたそれは、以前の姿と全く同じだった。体のサイズが、以前よりひとまわり小さいことを除いては。

 赤子はねっとりと糸を引きつつ台の際まで這うと、躊躇いなく台から転落した。床に激突する寸前、赤い光に包まれた赤子はまるで猫のようにふわりと四つん這いで着地すると、扉に向かって二,三mそのままゆっくりと這っていった。扉の前まで到達するとぴたりと足を止め、微かに赤い輝きを放ち、その体はその場から忽然と消失した。

 


☆☆☆



 運ばれてきた食事に手もつけず、寝台に寝ころんでぼんやりと天井を眺めていた順也は、意識を貫いた禍々しい気配に、はっとその目を開いた。


――あいつだ!


 強烈な赤いエネルギーの気配と、転移テレポート反応を感知したのだ。順也はバネ仕掛けの人形のごとく跳ね起きると、エネルギーの出所を探るべく意識を集中し始める。見回りをしていた警官が不審げに中をのぞいたが、順也はそんなことには気が付きもしなかった。それどころではなかった。


――あいつが生きている!


 あの時、確かにあの化け物は事切れた。しかし相手は化け物だ。生き返ることがあってもなにもおかしくはない。

 彼は青くなって震え出す。殺さなくては。一刻も早く殺さなくては!

 ゆっくりと、蒼白な顔で入り口に近づいてきた順也を見て、様子を見ていた警官は薄気味悪く思った。聞くところによるとこの男は、教師を焼き殺し、恋人の腹をかっ捌いて赤ん坊を引きずり出した異常犯罪者だ。精神的におかしくなっている可能性は十二分にある。だが、仕事である以上、薄気味悪いからと言って逃げるわけにもいかない。警官はため息をつくと、まずは威圧を試みた。


「何をしている? 早く食事を済ませろ!」


 警官の怒声も、しかし順也の耳には全く届いていなかった。彼は無言で扉のノブを掴むと、二重にかかった鍵に手をかける。


「早く食事をしろと言っているんだ!」


 警官は再びがなり立てたが、順也はじっと鍵に意識を集中する。右手から湧き出る白いエネルギーが鍵を包み込んだ瞬間、鍵は溶解し、真っ赤な鉄の液体に変じてどろどろと床に流れ落ちはじめた。

 重い鉄の扉を押し開けて廊下に出た彼は、そこで初めて震える銃口を真っすぐに自分に向けて立ちはだかる警官の姿に気がついた。


「貴様、動くなよ、……動くと撃つぞ!」


「どいてください……」


 今、順也の頭には赤子を殺すこと以外ない。自分が今どういう立場に置かれていて、どんな状況にあるのか、そんなことを把握する余裕などあるはずもなかった。


「動くなよ……」


 警官は右手に構えた拳銃で彼に狙いをつけたまま、左手で壁際にある非常ベルのスイッチを押す。

 静かな廊下中に、突如けたたましく鳴り響くベルの音。さすがの順也も驚いて、弾かれたように顔を上げて周囲を見回す。だがその動きは、ただでさえ内心怯えていた警官に恐怖を抱かせるには十分過ぎた。


「動くなあっ! この化け物!」


 はっと、順也は目を見開いた。

 言い様のない怒りが、瞬く間に彼の全身を満たす。

 幼いころからそう言われ続けていじめられ、さげすまれた数々の記憶。それに一瞬にして、あの凶悪な赤子のイメージが重なったのだ。


「僕は化け物なんかじゃない!」


 彼が叫ぶと同時に、警官は吹っ飛ばされていた。赤子のエネルギーに共鳴していたのか、自身のエネルギーも上昇していたことに、彼は全く気付いていなかったのだ。はっとわれに返った彼の目に、コンクリートの壁に染みついた血痕と、その下に不自然な姿勢で倒れている警官の姿が映り込む。

 彼は全くと言っていいほどこんな結果を予想していなかった。何が起きたのかすら分からず、しばらくはぼうぜんと立ち尽くしているだけだったが、ややあって、うつぶせで倒れている警官に歩み寄ると、震える手を伸ばしてそっとその背中に触れてみた。

 軽く力を入れて揺さぶってみる。が、全く何の反応もない。警官の耳から流れ出る血がみえるのみである。


――死んで、いる?


 順也はぞっとして弾かれたように手を引いた。まさか、……あんなことで?

 順也はもういちど震える手を伸ばし、今度は警官の肩を掴むと、そのねじ曲がった体を恐る恐るひっくり返してみた。腰の辺りでねじくれながらその体はごろりと一転し、死相の現れたその顔が天井を向く。黒目は上向き、鼻と半開きの口元からは黒ずんだ血が流れ出している。

 順也は息を呑み、弾かれたように立ち上がった。

 全身がわなわなと震えだし、止まらない。


――人を、殺した?


 その間も急きたてるように鳴り続ける非常ベル。一刻も早くこの場から離れなければならないことは分かっていたが、膝が震えてなかなか一歩を踏み出せない。そうこうしているうちに、鳴り響く非常ベルの音に混じって、複数の人間がこちらに向かってくる足音が響いてきた。

 ほとんど思考が停止してしまっているこの状況でも、追われるという事実は無意識に彼の力を発現させた。他の警官たちが駆けつけたときには順也の姿はすでになく、そこにはただ死んだ警官が一人、妙にねじ曲がった姿勢で倒れているだけだった。

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