月を見る花

月井 忠

第1話

 右手で着物の裾をかるく持ち、石段を一歩ずつ上っていくと、鳥居と、その向こうに対となった石灯籠が見えました。


 階段を上りきると、手にしていた巾着袋を開け、ハンカチを取り出します。ハンカチをうなじに当て、首を一周させて汗を拭いきり一息つきます。


 もう何度目になるのでしょう。


 こうして神社に来るのは、あの日から欠かしておりません。


 本殿の横にある社務所には明かりがなく、人の気配もありません。夜の九時ですから当たり前なのですが、実際には朝も昼も、普段からここに人はいないのです。


 この神社は私が生まれる前に後継者がいなくなり、宮司不在の神社となってしまいました。管理は村の人で代わる代わるやっている次第です。私も時折、掃除に駆り出され、ほうきでこの参道の石畳を掃いて綺麗にしたものです。


 もっとも、それも子供の時分の話。


 あの出来事があってからは、お詣りに来ることも、掃除することも避けてきました。それがこうして毎夜訪れているのですから、不思議なものです。


 私は剪定されないまま伸び切った枝を手でどけながら本殿の横を回り込み、裏手にある空き地へと向かいました。


 周りを木々に囲まれた中に、ぽっかりと空いた芝生があります。忌まわしい場所であり、目的の場所でもありました。上には遮る木々がないせいか、月明かりが差し込み舞台のような趣きでした。


 あの夜も、ちょうどこんな感じだったのでしょう。


 私はと言えば抵抗するのに精一杯で、夜空を眺める余裕もありませんでした。あの頃は見れなかった夜空を眺めながら空き地の中心へと向かいます。


 目を下に向けると雑草に混じって名も知らぬ花が群生していました。月を見上げるように咲いているのです。きっとあの夜も、私の代わりに花は月を見上げていたことでしょう。


 その中の一つに目が留まりました。


 しゃがみ込んで、花と目が合うように近づきます。


「ああ、やっと……やっとなのですね」


 私はそっと花に手を伸ばします。


 触れるだけでゆらりと揺れる細い茎、淡い赤に色づく花びらは、やわらかな手触りを返してきます。


 花の中央。


 そこには男の顔がありました。


 黒みを帯びていた肌は、今では土気色に変わっています。葬儀の時に見た肌の色そのものでした。髪は一切なく、丸坊主になった男は目をつむり、静かに眠っているような表情をしています。


 男のこめかみの部分に触れると、花とは違って硬い感触が返ってきます。すうっと顔の輪郭を撫でるように、顎の部分まで指を動かしました。男は目を開けることなく、静かに眠ったままです。


 私は再びやわらかな花びら、そして細い茎へと指を移動させていきます。親指と人差し指で茎をつまむと、ぐっと力を入れ花を引きちぎりました。


 花に声はありませんでした。


 ただ切断される音を残したのみで、後には首を切られたような茎と葉だけが残っています。


 私の手の中に花があります。


 中央には男の顔がありました。


 花に声はありませんでしたが、男には苦悶の表情が刻まれていました。眉間にきつくしわを寄せ、口を大きく開き、絶叫の様相を表しています。けれど目を開けることはなく、目尻に深いしわを刻み、力いっぱい目を閉じているようでした。


「痛いのですか?」


 男が答えることはありませんでした。


 私は指先に力を入れ、関節にゆっくりと力を込めて曲げてゆき、指を集めていきます。やわらかな花びらが形を変え、指が硬い顔を覆っていきます。五指の全てが顔に触れても、私は力を緩めることはありません。


 耐えきれなくなったのか、ついに顔は砕けました。砂の塊が耐えきれず、一気に崩壊するように、粉々に砕けたのです。


 それでも私は手の力を緩めることなく、きつく握りしめ、夜空を仰ぎました。月の輪郭がはっきりしていて、夜空にぽつんと異物が浮いているようでした。そのうち、月は支えを失ってこちらに落ちてくるような気さえするのです。


 手の痛みを感じて、現実に引き戻されました。力を解くと、自然に指は開いていきます。


 指の間をさらさらと粒子が流れていきました。残骸は細かく砕け、灰のような物になっていました。


 灰は糸となって指の隙間を落ちていき、地面に辿り着く前に風にさらわれていきました。


 手のひらには散り散りになった花びらと灰の小山が残っています。


 もう片方の手でもって、それらを払うと、両手を顔から離して何度もはたきました。私はそれぞれの手をじっくり見つめます。幸い汚れにはならなかったようで、手は綺麗なままでした。それでも、払いきれなかった汚れが残っているようで、私はすぐにでも家に帰って手を洗いたくなりました。


 早歩きで、この場を後にします。


 この地では、とある言い伝えがあります。


 死者の魂は四十九日の後、人知れず花として咲き、一夜のうちに散る。散ることで魂は浄化され極楽に導かれるというのです。


 決して信じていたわけではありません。


 ですが、どうしても男のことを許せず、こうして毎晩探し回っていた次第です。あの男の魂が浄化され、極楽に行くことを思うと、居ても立っても居られなかったのです。


 私はあの空き地で手籠にされました。

 あの男だけは許せなかった。


 鳥居の下まで来ると、階段を上ってくる男の影が見えます。たしかマキノと言った名だったでしょうか。はげ上がった頭を左右に揺らしながら上ってくると、こちらの気配に気づいたようで顔をあげます。


「おや、奥さん。こんな時間に何かご用ですか」

「いえ、雑草を刈ろうと思いまして。今までこちらのお掃除に顔を出せずにいましたでしょ? ですから、その下見にと思いまして」


「へえ、そうですか。こんな時間に?」

 さすがに言い訳にしては無理があったでしょうか。慌てていたもので、半ば本当のことを織り交ぜて答えることになってしまいました。


「こんな時間だからですよ。ほら、あんなに月も綺麗」

「ほお、たしかにそうですな」

 ごまかせたとは思えませんが、マキノさんに追求する気はないようです。本当のことを話したところで信じてはもらえないでしょう。


「そういえば、オヤジさんもそろそろ四十九日でしたっけ?」

「いいえ、お義父様の法要はもう済んでしまいまして」

「おお、そうでしたか。そりゃ失敬」


 マキノさんは髪のない頭を手でたたき、ぱちんと音をさせて謝罪しました。


「そういえば、ご存知ですか?」

 マキノさんは頭を上げます。


「本殿の裏には花が咲いているんですよ」

 突然、胸を刺される思いがしました。


「あら……そんなんですか」

「そうなんです。あの花をオヤジさんに供えてやるのもいいですなあ」


 一瞬、何を言っているのかわかりませんでした。


 しばらく無言でいるとマキノさんが不思議そうな目をして、こちらを見ていることに気づきます。


「うふふ」

 思わず笑いがこみ上げ、こらえることができません。背中を丸め、袖で口を隠しますが、それでも私は笑い続けました。


「あれれ? 何かおかしなこと言いましたか?」

 マキノさんは頭頂部をぽりぽりとかいて、首をひねります。他のことを考え、必死に笑いを沈めることに努めました。


「いえ、すいません。思い出し笑いです。マキノさんのことを笑ったわけではありませんよ」

「はあ、そうですか」

 納得させることはできそうにありませんので、ごまかすことにしました。


「引き止めてしまって、すいませんでした。これからは、掃除の方にも加わりますので、その際はよろしくお願いいたします」

「いえ、こちらこそ」


 無理やり話を切り上げ、別れの挨拶で締めくくります。道を譲って先にマキノさんを通し、私は石段を下りていきます。


 それにしても、思い出しただけで笑いがこみ上げてきます。


 だって、あの男の遺影の前に、あの男の顔がある花を供えるなんて。


 こんな珍妙なことは他にないでしょう?

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月を見る花 月井 忠 @TKTDS

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