お弁当

 僕が幼稚園に通っていた頃、住んでいた家は大阪の下町にある文化住宅の2階、奥から二番目の2Kの部屋だった。小学校2年生までここで過ごすことになる。


 玄関を開けると上りかまちがあり、その先の格子状のガラス張りになった引き戸を開けると一つ目の部屋。入って左手に、引き戸にくっつけるように食器棚。食器棚には赤地に白の千鳥模様の布が垂れ下がっている。その横に天板が開閉できるようになっている机があり、部屋の真ん中にはエンジ色のカーペット(棚の千鳥模様に似た柄)が敷いてあって、その上には四角いちゃぶ台が置かれていた。玄関の右横には人一人分くらいの幅しかない台所と、黒に銀が縁取られた取っ手がついたナショナルの白い冷蔵庫。そこで母はいつも料理をし、四角いちゃぶ台でご飯を食べていた。

 奥の部屋は押入れとテレビ、それから弟が寝てるベビーベッドがあって、さらに奥にトイレと風呂場があった。よくある文化住宅の間取りそのままだ。


 幼稚園に上がる少し前に弟が生まれ、病弱だったため、母親がつきっきりになっていた。子供心に大人しくしてようと思っていたのか、母曰く僕は「泣かない手のかからない子」だったようだ。生まれた時から夜泣きも全く無かったようで、とにかく楽だったと。

 幼稚園に入園すると、初めの頃は母も毎日送り迎えをしていたのだが、弟の病状芳しくないこともあって、しばらくすると時々1人で登退園する日もあった。今では考えられないだろうが、自分以外にもちょくちょくそういう子はいて、途中までその子たちと一緒に帰ったりしていた。

 年長にもなるとほぼ毎日1人で登退園していたが、寂しいと感じないように色々工夫して、行き着いたのは「喋りながら帰ること」だった。今でも仕事中とか独り言が多いのだが、その癖はこの時にストレスを逃す手段として身についた。


 弟は病弱で入院がち、妹は生まれたばかり。僕が母のお荷物になるわけにはいかないと子供ながらに感じて、わがままを言わないようにしていた。


 そんなある日、母が風邪をひいた。

 いつものように朝起きると、母の声に元気がない。

「早よ着替えや。それからお母さんちょっと風邪ひいたみたいやから、今日一人で行ってな」母は張りのない声でそう言うと台所に向かい、朝ごはんを作ってくれた。その流れのまま、弁当も作り始めた。


 僕が通っていた幼稚園は1日おきで給食と弁当が切り替わるシステムで、この日は弁当の日だった。母はあきらかにふらついていて、動きも鈍く、辛そうに僕の弁当を作ってくれていた。

 幼心に僕は母に対して申し訳ないと思ったし、弁当いらんって言おうかなとも思い出して・・・というのは表面上だけだったのかもしれない。朝ごはんを食べ終わって食器を台所に持っていき、その時母はにんじんを切っていた。それを見て僕は以前にクラスメートの弁当が可愛かったのを見て羨ましくなったことを思い出し、次に僕の口をついて出たのは「にんじん星形にして」だった。

 この時自分が発した言葉、未だに信じられないのだが、内観してみると、明らかに弟と妹に対する嫉妬が混じっている。母は当時2人にかまいきりで、僕は大人しくチラシに落書きするしかなく、心中は母に無視されているような気分になっていて孤独感で一杯になっていた。

 その抑圧した感情がこんなタイミングで出てしまった。

「お母さん風邪やねん。めんどくさいこと言うな」母は力無い声で僕を叱った。当然だ。僕も言ってしまってからすごい罪悪感に襲われて、渡された弁当を鞄に詰める時も、一人で幼稚園に行く間も、幼稚園に着いた後もずっと今朝のことが思い出されて苦しくなっていた。本当になんてことを言ってしまったんだろう。お母さんは病気でしんどいのに。どうしよう、どうしようとずっとグルグル考えていた。

 その日は時間の経つのが早かった気がする。すぐに昼休みになった。僕の足取りは重い。しんどい中弁当を作らせてしまった事とわがままを言ったことの罪悪感が腹の真ん中に居座って体が動かしにくい。

 一ヶ所に集められた弁当たちの中から自分の弁当を持って席に座り、電撃戦隊チェンジマンの包みを開くと、同じくチェンジマンの絵がプリントされたステンレスの楕円の弁当箱が出てきた。僕はこの弁当箱が、と言うよりチェンジマンが好きだったので、水筒もお道具箱もチェンジマンだった。

 今朝の顔色の悪い母の姿が思い出される。息苦しい気持ちと共に蓋を開けた。

 にんじんは星型だった。

 滅多に無いプラスチックのかわいい楊枝に刺さったりんごと苺。

 大好きなゆかりご飯。

 小さいハンバーグ。

 ウインナー。

 しょっぱい卵焼き。


 僕の大好きなものばかりの弁当だった。いつもよりご馳走だ!僕はすごく嬉しくなって、でも無くなるのが勿体無くて、ゆっくりゆっくり食べていった。星型の人参はなるべく長い間弁当箱の中にいて欲しいから、本当にちびちび、ちびちびとかじるように食べた。バターで炒めてあっていつもよりすごく美味しかった。この時の僕は相当感動したのだろう。今も思い出すと、当時の空気感までリアルに沸き起こってくる。


 本当に嬉しかった。申し訳ないとも思った。でもやっぱり嬉しくて、いつも持っていた孤独感は消え去っていた。

 この日は帰る時も一人だった。でもいつもの寂しさは無かった。早く家に帰ろうと足取りも軽い。帰ったらお母さんにありがとうって言おう。晩御飯ももっと行儀よく食べて、お風呂の100数えるのもちゃんと言えるように頑張って、そして図鑑を見ながら寝よう。


 

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