南方遠征編

100# 南の統括者

 王国には、広大な領地を有する貴族家が幾つか存在する。


 北方のステリア辺境伯、西方のガレオン公爵、東方のライトレス侯爵。


 そのいずれもが広大な土地を有する、大貴族と称される名家。


 それら大貴族に数えられる中に、ギムレット伯爵家も存在する。


 付けられた渾名は——《南の統括者》。


 しかしギムレット伯爵家は他三家と異なり、広大な土地を有している訳では無い。


 王国の南方の地は、領地が何分割にも分けられ、数多の貴族達によって統治されている。


 当のギムレット伯爵領もその中の貴族家の一つであり、特別広い領地を有している訳でも無い。


 にも関わらず、“統括者”などと呼ばれている理由——


 それはギムレット伯爵家が、南方の貴族達の纏め役であり、伯爵家に止まらない強大な発言力と影響力を有しているからに他ならない。


 事実、南方の貴族達の多くは、領地経営に関して、ギムレット伯爵にアドバイス——とは名ばかりの指示を受け、それを実行している。


 その形態は、正しく領主が地方の代官役人に指示を出し、統治するかの様。


 領地こそ分けられているものの、南方の地の経営は実質的にギムレット伯爵家が行っているといっても過言では無い。


 故に、統括者。


 爵位こそ伯爵であるが、その発言力は実質的には侯爵家以上——王家ですら無視出来ない程。


 名実共に、ライトレス、ステリア、ガレオンに肩を並べる大貴族が一家である。



 しんしんと降る雨。


 それを尻目に、ある男は手鏡を片手に口髭を整えていた。


 髭の先をくるりと丸め、ミリ単位で形を調整する。


 その拘りの強さは生来のもの。


 時刻が11時を回り、振り子時計がボーンと音を発す。


 それと同時に、扉が開かれた。


 使用人に通されて入って来たのは、身なりの良い衣装に身を包んだ小太りの男だった。


「タロンです。ここに参りました。ギムレット伯爵におわしましてはご機嫌麗しゅう」


 にへらと笑い、頭を下げる自らをタロンと名乗る小太りの男。


 髭を整える男——ギムレット伯爵は、狐を思わせる程に切長の双眸を、小太りの男——タロンに向ける。


「…別に麗しくはありませんよ、タロン卿。きっかり五分の遅刻です」


「は、五分ですか…しかし約束は11時の筈…」


「五分前行動は物事の基本でしょう」


 ギムレット伯爵に鋭い目を向けられ、タロンは頭を下げる。


「は、これは失礼を。しかし先日五分前に参りました時には早過ぎる、時間通りに来いとの仰せでしたので」


「今日は五分前の気分だったのです」


 それは誰が聞いても、限り無く自分本位で無茶な理屈。


 しかしタロンは、慣れた様子で頭を下げる。


「左様でしたか。以後、気を付けます」


「ええ、気を付けて下さい。次は五分前には来る様に」


「は、必ずや」


 これは毎度のやり取り。


 タロンは次はきっと早過ぎると言われるのだろうな、と考えながら、しかし約束した以上は五分前に来ねばと静かに息を吐く。


 ギムレット伯爵の気紛れは今に始まった事では無い。


 それこそ、出会ってから振り回されてばかりである。


「時にタロン卿。持って来ましたか」


「ええ、勿論。ここに」


 タロンは懐より書類を取り出し、ギムレット伯爵に差し出す。


 それを受け取り、まじまじと眺めると、ギムレット伯爵は思い直した様に書類を突き返した。


「ふむ、今のは違いますね…もう一度」


「は、はぁ…——ここに」


 書類を返されたタロンは、生返事を返しながらももう一度同じ様に書類を差し出す。


 ギムレット伯爵は再度それを受け取り、満足そうに頷く。


「宜しい」


「相変わらずですな…」


 どうやら、自身の書類の受け取り方に納得がいかなかったらしい。


 ギムレット伯爵は、納得出来ない事はとことんやり直す。


 それがどんなに些細な事であろうと、人目を憚る事無く。


 度を越した拘りの強さ、常軌を逸した完璧主義。


 それがギムレット伯爵家現当主——ベルナード・グシア・ギムレット。


 “南の統括者”とはギムレット伯爵家を指すものではなく、ベルナード個人を指す渾名。


 たったの一代で王国南部の数ある貴族を纏め上げ、一勢力の長と目されるまでに至った——紛う事無き傑物。


 そんなギムレット伯爵は、タロンより受け取った書類に目を通していく。


 それは南方貴族達の領地の経営状況の詳細が纏められており、その情報量は膨大。


 それをギムレット伯爵は、ペラペラと捲りながら凄まじい速度で目を通していく。


 そしてある貴族の書類で目を止めた。


 貴族としての年月の浅く、それ以前は騎士だった男が治める領の経営状況。


 資料を見る限り、領の経営自体は一見して上手く回っている様に見える。


 商業も栄え、税収も他の領より多い。


 しかしギムレット伯爵は、その内に潜む不自然さを見逃さなかった。


「…タロン卿。ここの領地を治める彼——名は確かハンドレイ男爵でしたか、成り上がりの」


「え、ええはい。ハンドレイ男爵が何か?」


「随分と羽振りが良さそうですね。ここの領地はこれといった特産物は無かった筈です。それとも新たな産業の開拓でもしたのでしょうか? 私はその様な報告を受けてはいませんが」


 眉を顰めるギムレット伯爵に、タロンは首を傾げる。


「さて…私の調べでもその様な動きは無かった様に思えますが。王国法に抵触する程の重税を課している訳でもありませんし」


「…増税をしている訳でも無いのに税収が増えている、と。奇妙な話ですね。因みに増えた税の用途は?」


「えー、ハンドレイ男爵家は確か…」


 タロンは懐より、ギムレット伯爵に手渡したものよりも更に分厚い書類の束を取り出し、ペラペラと捲る。


「…増えた税収分は、主に商業関係に使われている様です。他には近隣領主との交際費、領内の防衛費等…特におかしな点は無いようです」


「商業に、近隣…成る程」


 情報を聞いたギムレット伯爵は、深い溜息を吐く。


「…彼がハンドレイ男爵と成り、私にアドバイスを求めて来た日、言った筈ですがね——余計な事はするなと」


 ヒリつく空気。


 声こそ穏やかなものだが、ギムレット伯爵から確かな苛立ちを感じ取り、タロンは顔を強張らせる。


「お、仰る通りです、はい…しかし、領の経営自体上手くいっている様ですし、大目に見られては…」


 タロンはギムレット伯爵の言葉に同意しつつも、ハンドレイ男爵に助け船を出した。


 ギムレット領の隣領の領主であり、今やギムレット伯爵の側近として知られるタロン。


 そんなギムレット伯爵との繋がりの強いタロンは、ハンドレイ男爵より密かに袖の下を受け取っていた。


 ギムレット伯爵に宜しく伝えて欲しい、と。


 しかしそんなタロンの言葉は、ギムレット伯爵の額に青筋を立てさせた。


「経営が上手くいっている…? 本気で言っているのですか、タロン卿」


「も、申し訳ありません…!」


「何が悪いのか理解していない言葉だけの謝罪など、なんの意味もありません」


「物分かりの悪いタロンめをお許しを…」


 ギムレット伯爵に睨まれ、平謝りをするタロン。


 必死に頭を下げるタロンに、ギムレット伯爵は溜息を吐く。


「…貴方のその情報の収集と、それらを精査する能力は買っていますが、相変わらず経営学には疎い様だ——タロン卿」


「は…しかし、税収が増えるのは良い事なのでは?」


「税とは謂わば領民の血。無尽蔵に湧き出る泉ではありません。増税も無しに、どうして税収が増えるのです? ハンドレイ領の人口がここ最近で爆発的に増えたとでも?」


「いや、そんな情報は…ありません」


「であるなら、金の動きが不自然です。表立った増税をしていないだけで、別の形で徴収しているのでしょう」


 髭を整えながら、詰まらなそうに言うギムレット伯爵。


「…騎士上がりが思い付く手法ではない。経済の知識がある者から入れ知恵でもされたのでしょう。商業に金が流れているのを見るに、恐らく商人でしょうね。しかし目先の利益しか見えていない。先は長く無いでしょう」


「そ、そこまでですか…?」


「別途の徴収をどの様な形でしているのかまでは分かりませんが、領民には少なからず金銭的皺寄せがいっているでしょう。それは不満として蓄積されます」


 やるにしてももっとじっくり時間を掛けて少しずつ、それこそ領民が気付かぬ様にやらねば——ここまで早急にやれば流石に領民も気付く。


 昨日まで買えていたパンが今日は買えない——そんな事、どんな馬鹿でも分かる事。


 下手くそめ、とギムレットは内心で毒吐く。


「…まさか、領民の反逆が起きると?」


 声を震わせるタロンに、ギムレット伯爵は鼻を鳴らす。


「魔法を扱う貴族や騎士団を相手に? まさか。領民はそこまで馬鹿ではありません。起きるのは移住です——近隣の領への」


「移住、ですか…しかし果たして、生まれ育った土地を捨てるでしょうか」


「捨てますよ、若い世代——働き手は特にね。確かに、最初は中々踏ん切りが付かないかも知れませんが、一人でも動けば、それを境に少なく無い働き手が動く。すると…」


「…老人しか残らなくなる」


 目を見開き、絶望的な面持ちで呟くタロンに、ギムレット伯爵は肩を竦める。


「その結論は些か極端過ぎます。流石にそこまでにはならないでしょう。しかし、働き手の何割かは減るかも知れません。働き手が減れば必然的に税収は落ちる」


「…!」


「目先の利益しか見えぬ愚者に、経済の立て直しは無理です。故に、先は長く無い。元より私の言葉通りに出来ない者など、南方には不用」


 ギムレット伯爵はじろりとタロンを睨む。


「以後、ギムレットは貴公との交流の一切を断つ——そう、ハンドレイ男爵に伝言をお願いします、タロン卿」


「は、はい」


「それと、ハンドレイ男爵領の近隣領主に移民の受け入れの準備をする様にと伝令を回して下さい…私がハンドレイ男爵を見限ったとも、ね」


 冷酷に言ってのけるギムレット伯爵に、タロンは凍える様に身震いしながらコクコクと頷く。


 少し自分の意に沿わぬ事をしただけでそこまでするのか、とタロンが戦慄していると、その内心を察したギムレット伯爵は目を細める。


「…人の上に立つ者——貴族は完璧でなければなりません。失敗は一度足りとて許されない。故に、失敗したに貴族である資格は無い。近々、男爵領が一つ空席になるでしょうね。次は優秀な…貴族と呼ぶに相応しい人が来ると良いのですが」


 言いながらも、ギムレット伯爵は髭を整え続けている。


 タロンは話を変えねばと軽く咳払いをした。


「時にギムレット伯爵。今日は随分と熱心に髭を整えておいでですが…何処かへお出掛けで?」


 問われたギムレット伯爵は、機嫌良さげに笑って見せる。


「今の所出掛ける予定はありません。が、今日はいつも以上に完璧であらねばと気合いを入れているのですよ」


「おや、それはまたどうして」


「本日は間も無く、来客の予定がありましてね」


「は、来客ですか」


 只の客にしては随分な気合いの入れ様だな、とタロンは首を傾げる。


 と、ここで振り子時計の針が12時の五分前——11時55を指した。


 その瞬間、扉がノックされる。


 使用人の「到着されました」という声が響いた。


 ギムレット伯爵は機嫌良さげに口角を上げ、今まで整えていた口髭をピンッと伸ばす。


「宜しい、通しなさい」


 タロンは少し焦る。


「あ…タロンめは席を外した方が宜しいでしょうか」


「いえ折角です。タロン卿も同席なさい。良いですか、これから来るのは——完璧な貴族です」


「完璧、ですか…」


 ギムレット伯爵に完璧と言わしめる、そんな貴族が存在するのか。


 タロンはハンカチで冷や汗を拭いつつ、その目を扉に向ける。


 間も無く扉が開かれ、使用人に通されてある貴族の男が入って来た。


 その男の歳は若く、成人して間も無いであろう。


 黒髪に黒衣と、闇を思わせる程に黒尽くめ。


 その中で、怪しく輝く翡翠の左眼。


 その出立を見て、タロンは足が震えた。


 タロンは知っている、その出立を。


 直接見た事は無いが、その特徴だけは聞き及んでいた。


 王国屈指の武闘派。


 王国東方の広大な領地を支配する大貴族。


 己の様な弱小貴族、関わる事など生涯無いと思っていた。


 そんな雲の上の存在が、今タロンの目の前に居た。


 ギムレット伯爵は不敵に笑い、両手を広げて口を開く。


「ようこそ、我が屋敷に。足元の悪い中よく来てくれましたね——ローファス・レイ・ライトレス殿」


 歓迎する様にローファスに近付こうと足を踏み出した所で、ギムレット伯爵はぴたりと動きを止めた。


「…違いますね。すみません、もう一度。あ、ローファス殿はそのままで結構…動かないで! そのままで…」


 その場に佇むローファスを残し、ギムレット伯爵は再び両手を広げ、その手の角度の調整を始める。


 タロンは、あのライトレス家相手にもそれをやるのかと見ていられず、両手で顔を覆った。


「ようこそ…違うな。いらっしゃい…もっと違う…」


 何やらボソボソ言いながら、ギムレット伯爵は何度も両手を広げては閉じてを繰り返す。


 そしてギムレット伯爵は一人満足した様に頷くと、仕切り直す様に不敵な笑みを浮かべた。


「ようこそ、我が屋敷に。足元の悪い中よく来てくれましたね——ローファス・レイ・ライトレス殿」


 最初と全く同じ台詞、全く同じ姿勢を披露するギムレット伯爵。


 来て早々目の前で繰り広げられた謎の茶番に、ローファスは「なんなんだこいつは…」と怪訝に眉を顰める事しか出来なかった。

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