87# Re:エピローグ・スカイフィールド
ローファスとフォルが正式な婚約を結び、数日後。
夜。
王都の上空に、隠密結界により不可視化した飛空艇イフリートが停泊していた。
甲板にて、ローファスとリルカが並んで夜空に浮かぶ月を眺めていた。
「…月、綺麗だね」
「そうだな。三日月じゃないのが残念だ」
「三日月…? 好きなの?」
「好きと言うか、一応ライトレスの紋章だからな」
「あー、そう言やそうだね」
二人の間で交わされる何気無い会話。
しかし、二人の間には何処かぎこちなさがあった。
「…」
暫しの沈黙の末、ローファスは意を決した様に口を開く。
「先日、フォルと婚約した」
「…うん、知ってる。良かったじゃん」
リルカの返事は、淡々としたものだった。
ローファスは眉を顰める。
「…やはり、見ていたのか。時計塔でのやり取りを」
「あー…まぁ」
リルカは気不味そうに目を背ける。
ローファスは時計塔にて、複数の気配を感じ取っていた。
いずれも魔力探知に反応は無く、飽く迄も感覚的なものであり、敵意らしきものも感じられなかった為、捨て置いていた。
「なら、聞いていたとは思うが…」
「ストップ」
ローファスの言葉を、リルカが強張った顔で制止する。
「それ、もしかして私の告白に対する返事?」
「む…あぁ。まあ、そうなるが」
リルカはばっとローファスから距離を取る。
眉を顰めるローファス。
「…おい?」
「言わないで。聞きたくないって言ったじゃん私」
「そうはいかん。俺は…向けられた好意に対しては誠実でありたい」
「何それ、マジ似合わない。良いじゃん不誠実で。今までのままで。私が良いって言ってるんだから良いじゃん」
「駄目だ、せめて話を——」
「聞きたくない!」
リルカは耳を塞ぎながら走り出すと、手摺を乗り越えて甲板から飛び降りた。
「おい、リルカ!?」
驚き、手摺から身を乗り出して甲板から下を覗き込むローファス。
リルカは風の魔力を足場にしながら、高速で空を駆け、飛空艇から離れていた。
一先ず無事が確認出来た事に安堵しつつ、ローファスは興味深く虚空を走るリルカを観る。
ローファスは空を高速で移動する術を持っていない。
正確には、浮遊する手段は幾つかあるが、高速で飛ぶ手段を持たない。
魔人化するかデスピアを用いればその限りでは無いが、それはそう気安く使える手段ではない。
しかし、リルカが空を駆ける姿を見て、どうやら頭が硬くなっていたらしい、とローファスは思い直す。
思い返せば、エルフ王も同様の手段で空を高速で駆け回っていたし、ヴァルムも雷の魔力を足場に宙に立っていた。
別途で推進力が必要な浮遊に拘らず、駆けるという手段を取れば、出せる速度は身体強化の練度次第。
「魔力の足場を…任意の座標に展開…」
ローファスは暫しぶつぶつと呟きながら、即席で術式を組み立てる。
足場を作るタイミングが少しでもズレれば、足を踏み外して落下する。
しかしローファスは、虚空を駆けるリルカの姿を、その魔法を直に見ている。
「…問題無い」
練習無しのぶっ付け本番、しかしローファスは魔法の申し子。
魔法の失敗など、あり得ない。
ローファスはリルカを追うべく、甲板を飛び降りた。
*
衝動的に飛空艇から飛び降りたリルカは、引っ込みが付かなくなりそのまま空を駆け、ローファスから逃げた。
しかし間も無く、魔力探知にて巨大な魔力反応——ローファスの反応を察知する。
ローファスが追って来ている事に気付いたリルカは、更に速度を上げる。
しかし、それに合わせる様にローファスも速度を上げた。
「——もう! 放っておいてよ! なんでついてくるの!?」
「貴様が逃げるからだ」
「ロー君が悪いんじゃん! 聞きたく無いって言ってるでしょ!」
リルカは更に加速し、最高速でローファスを引き離す。
元よりリルカの持つ風属性は、加速や飛翔に優れた面を持つ。
如何に暗黒で再現しようとも、その優れた特性までは模倣出来ない。
それに、熟練のリルカと違い、ローファスは今回が初の使用。
速度に明確な差が出るのは当然の事。
ローファスの姿が視認出来なくなった時点でリルカは魔力遮断と視覚遮断を用いて透明化し、ゆっくりと王都の市街地に降り立った。
そして未だ復興中の、壊れかけの無人の住居に入り、身を潜める。
一先ず今晩はここに潜み、飛空艇に戻るのは夜が明けてからにしよう。
少し時間を空ければ、ローファスも——
ふと考え、リルカは頭を振るう。
ローファスが諦めるとは考え難い。
いつまでも逃げる訳にはいかず、いつかはローファスと向き合わねばならないだろう。
でもそれは、少なくとも今では無い。
なんの心の整理も付いていない。
ローファスがファラティアナを選んだ以上、もう自分を選ぶ事は無い。
そんな事は分かっている。
しかし、感情がそれを受け入れられない。
リルカは崩れ掛けの壁を背に、その場に座り込む。
ローファスとはこれっきり?
それは嫌だ、絶対に嫌だ。
だから、このままの関係でいようと言った。
進展も無ければ後退も無い。
停滞、現状維持。
それがお互いにとって良くない事なのは、リルカも分かっている。
それでも——
「こんな事なら、自分の気持ちになんか気付かなきゃ良かった…」
気付かなければ、こんなに苦しい思いをせずに済んだ。
ローファスとも、友人として変わらぬ関係でいられた。
何故、気付いてしまったのか。
それは他でも無い、アベルの身に宿ったもう一つの人格に煽られたから。
あれさえ無ければ——あいつの所為で…。
そこまで思考が及んだ所で、リルカはそれを振り払う様に頭を掻き毟り、俯く。
「最低だ、私…」
自己嫌悪に陥り、涙ぐむリルカ。
その刹那、リルカの足元の影がとぽんと波立った。
「——!?」
直ぐにその場から飛び退こうとするが、それよりも早く影から現れた手が、リルカの腕を掴んだ。
「い!?」
「——漸く捕まえたぞ、リルカ」
影から現れたのは、他でも無いローファスであった。
リルカは咄嗟に、ローファスの手から逃れようともう片方の手でポカポカと殴る。
「信じらんない! なんでこんな所まで追い掛けて来てんの!?」
「なら逃げるな」
「逃げるよ! 聞きたくないって言ってるじゃん!」
言いながらも、リルカは繰り返しローファスに手を上げる。
それは魔力の込められていない細やかな殴打。
ローファスからして何の痛みも無いが、最終的には業を煮やした様に振るわれた手を掴み取った。
「リルカ」
ローファスはリルカを真っ直ぐに見つめ、静かに呼び掛ける。
両手を押さえられる形となったリルカは、涙目で目を背けた。
「…ロー君は、そんなに私との関係を終わらせたいの?」
「今の関係を、と言うならそうかもな」
「…そんなに、私の事嫌い?」
「は? 何を言っている」
「だってそういう事じゃん! なんで今まで通りじゃ駄目なの!? なんで——」
また暴れ出したリルカに、ローファスは面倒そうに目を細め、口を開く。
「俺の妻になる気はあるか」
ローファスの言葉に、リルカはぴたりと動きを止めた。
リルカはおずおずとローファスを見上げる。
「えっと…ごめん、よく聞こえなかった」
「…俺の妻になる気はあるか、と聞いている」
「…はい?」
リルカは理解出来ないといった様子で首を傾げる。
「え、ファーちゃんと結婚するんでしょ?」
「学園の卒業と同時に籍を入れる予定だ。それまでは婚約という扱いだな」
「えっと…? うん? 私とファーちゃん、両方がロー君の奥さんになるって事?」
「リルカ次第、ではあるが」
「あー…ちょっと待って、意味分かんない」
「なんでだ」
思わず突っ込みを入れるローファス。
リルカは眉を顰める。
「いや、だってさ…それ、ファーちゃんは良いって言ってるの?」
「フォルからの提案だ。と言うか、時計塔でのやり取りを聞いていなかったのか?」
「いや…私は遠視で見てただけだし。会話の内容までは知らないよ。でも、その…キス、してたし。上手くいったんだろうなー、と」
「お前なぁ…」
呆れ顔のローファスに、リルカはスッと目を細める。
「…じゃあ何。ロー君は、ファーちゃんに言われて、ここに来たと。私は、ファーちゃんの
その目に剣呑さを宿し、じっとローファスを睨む様に見るリルカ。
そのいつに無く刺々しい雰囲気に、ローファスは若干気圧されつつ、首を振って否定する。
「違う、そうではない」
「何が違うの? ファーちゃんに言われなきゃ来なかったんでしょ」
「フォルからリルカを嫁候補にしろと言われたのは確かだ。お前に妻にならないかと問うた裏に、その一件があったのも事実。だが…元よりお前からの好意に対して、有耶無耶にしたまま終わらせる気は無かった」
「…好意に対して誠実でありたい、だっけ? じゃあロー君は、私やファーちゃん以外の、他の女の子から好きって言われたら応えるって事? それ、私達に対して不誠実じゃない?」
「……リルカ。お前、思ったより面倒な女だな」
「めんどっ…!? はあ!?」
ぼそりと、心底億劫そうに呟いたローファスに、リルカは心外だとばかりに顔を赤く染める。
ローファスは溜息混じりにリルカから片手を離すと、その腰に手を回し、ぐっと身を引き寄せる。
「えっ…ちょ、ロー君…!?」
突然密着する程に引き寄せられ、別の意味で頰を朱に染めるリルカ。
リルカは羞恥から目を背けた。
「ちょ、急に何すんの…こんなんで誤魔化されると——」
「——俺は貴族だ」
「…うん?」
唐突なローファスの言葉に、リルカは首を傾げる。
ローファスは続ける。
「俺はライトレス侯爵家の嫡男であり、次期当主だ」
「う、うん。知ってる、けど」
「侯爵家の嫡男として、世継ぎを残す義務と責任がある。そして、ライトレス家の繁栄の為ならば、必要であれば今後政略結婚をする事もあるかも知れん」
「…」
黙るリルカを、ローファスは真っ直ぐに見つめる。
「だが、その相手は誰でも良い訳では無い」
リルカは、少し揺れる様に、チラリとローファスを見る。
「私は、ロー君的には良かったって事?」
「ああ」
「…私は、ロー君にとって何?」
「浅く無い仲だ。その好意に、応じたいと思える程度には、良い女だと思っている」
「…ふ、ふーん? でも私、二番は嫌だよ。ロー君にとってはファーちゃんが一番なんでしょ?」
「女に順位付けした覚えは無いし、その気も無い。お前はお前だ」
「…そう、なんだ」
ローファスの手の中で、茹蛸の如く顔を真っ赤にしながらもじもじとするリルカ。
「じ、じゃあ、行動で示してよ」
「行動…?」
抱きしめ、想いを伝えた。
これ以上に何を示せと? と、ローファスは困惑した様に首を傾げた。
リルカは少しむくれたようにそっぽを向く。
「…もう、なんで分かんないかな。ファーちゃんにはしてたじゃ——」
呟くように話すリルカの唇を、ローファスは口で塞いだ。
それは、ごく僅かな接触。
「…すまん。今はこれしか思い浮かばん」
謝罪するローファスに、きょとんとしたリルカ。
リルカはじっとローファスを見据えると、口を開く。
「えっと、ごめん。いきなり過ぎて全然分かんなかった…もう一回良い?」
神妙な顔でそう口にするリルカ。
雰囲気もへったくれもないなと、ローファスは呆れ気味に溜息を吐いた。
*
翌朝。
ローファスとリルカは飛空艇に帰還した。
文字通り朝帰りをした二人に、《緋の風》の面々は色々と察しつつも敢えて触れないでいた。
甲板に並び、朝日を眺めるローファスとリルカ。
そこにシギルとホークが現れ、まるで気遣う様に朝食として帝国産の缶詰を置いていった。
中身はスッポンのスープ。
えらく精力の付きそうなチョイスに、ローファスは呆れ顔、リルカは「これは仕方ないよね」と吹き出して笑っていた。
そんなやり取りをしつつ、ローファスはふとリルカを見る。
「そう言えば、結局答えを聞いていないぞ」
「…答え?」
「俺の妻になるのか?」
リルカは「ああ」と笑みを浮かべ、一言で答える。
「嫌」
「……うん?」
リルカの口から出たのは、まさかの拒否。
ローファスは聞き間違いかとリルカを見る。
「ロー君と結婚でしょ? しないよ私」
「…」
どういう事だと固まるローファス。
「…しない、のか?」
「うん、しない」
「俺の勘違いか? 俺とお前は、互いに好意を示し合ったと思うのだが」
「うん。私ロー君の事、超好きだよ。昨晩はロー君と結ばれて幸せでした」
ぽっと頬を染めながら、にんまりとそう口にするリルカ。
ローファスは意味が分からず、首を傾げる。
「…好き合っているのに、婚姻は結ばないのか?」
「うん。だって貴族の奥さんとか面倒そうじゃん。責任とか求められる事とか多そうだし、良い生活は出来そうだけど、なんか不自由そうだし」
「…ほ、ほう」
酷く困惑するローファス。
それは貴族として生きて来たローファスには考えも及ばぬ価値観。
そういうものなのか、と理解出来ない様子で首を捻るローファスに、リルカは近寄り、その首に手を回す。
「だから、私はロー君の…愛人、になるのかな? ロー君の一番のお嫁さんがファーちゃんで、一番の愛人が私」
己を指差してにっと笑うリルカに、ローファスは呆れた様に肩を竦める。
「一番、か…随分と順番に拘るのだな」
「そりゃ、普通は好きな人の一番でいたいもんだよ。ファーちゃんみたいに、好きな人の側にいれればOKって娘もいるけど、私は違う」
「…それで、一番の愛人か?」
「そっ! それともロー君、貴族辞めて《緋の風》に入る? 一緒に世界を回りながら、ダンジョン制覇ってのも面白そう。それなら結婚しても良いよ」
「それも悪くは無さそうだが、駄目だな。俺はライトレス家を継がねばならん」
「でしょ? だからこれが一番、お互いにとって丁度良いんだよ」
リルカは背伸びし、ローファスの頰に口付けをする。
ローファスはまあそれもありか、と納得する。
爵位を持たないリルカを正規の妻とするとなると、上級貴族たるライトレス侯爵家との格差的な問題が生じてくる。
ローファスが気にせずとも、周囲がそれを良しとしない。
階級社会という、王国に根差した価値観は、身分差の色恋に否定的である。
故にリルカが選んだ愛人という立場は、ある意味最も角の立たない選択でもあった。
フォルの様に貴族になるという、無理難題を熟す必要も無い。
と、ここでリルカはふと、ローファスを見た。
「…所でロー君」
「なんだ」
「昨日は良い雰囲気だったから、敢えて言わなかったんだけどさ」
「…?」
改まって言うリルカに、ローファスは何事かと眉を顰める。
「なんかさ、キスするの妙に慣れてなかった?」
「…」
ピシリと、ローファスは固まった。
「多分だけど、私やファーちゃんが初めてじゃないよね?」
「いや…」
ローファスは、気不味そうに目を逸らす。
リルカはそっとローファスの頬を両手で優しく包み込み、微笑む。
「相手、誰?」
笑顔から発せられる、背筋の凍る様な冷たい声。
ローファスはこの時、初めてリルカが恐いと思った。
その後の追求により、ローファスはこれまでの女性遍歴を洗いざらい吐かされる事となる。
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