68# 新歓合宿Ⅲ
ウェーブの掛かったプラチナブロンドの髪の少女——王国第一王女アステリア・ロワ・シンテリオは、息を切らしながら森の中を駆け回っていた。
野営用のローブは所々が破れ、内の制服も泥で汚れていた。
アステリアの背後には、大口を開けて狂った様に迫る巨浪の魔物——大狼ジェヴォーダン。
その巨躯で木々を薙ぎ倒しながら、一直線にアステリアを喰らわんと狙っている。
大狼ジェヴォーダンは、班員達と野営の準備をしている所に突如として現れた。
そして、他の班員には見向きもせずにアステリアに襲いかかった。
アステリアは、優秀な魔法使いである。
王家譲りの高い魔力量と、優秀な魔法の素質、そして強力な光属性。
魔法の技術も、王国軍の魔法師団の魔法使いに引けを取らない程に高い。
その実力の高さは、国王より“魔物討伐という名”の外出を許される程。
しかしながら、今回は非常に分が悪い。
相手はダンジョン《大狼砦》のフロアボスたる大狼ジェヴォーダン。
フロアボスは、ダンジョンの難易度によってその強さに大きな開きがあるが、それが例え低難度であったとしても、腕利の探索者が徒党を組んで挑む程である。
間違っても学生がどうにか出来る存在ではない。
それは例え、学生にしては優秀なアステリアであったとしても。
「…く、なんで私ばっかり…!」
アステリアは足場の悪い腐葉土の上を走り、転げ回りながらも逃げていた。
他の班のメンバーは逸れてしまい、行方知れず。
とはいえ、ジェヴォーダンはどういう訳かアステリア以外には目もくれていなかった為、恐らく無事であろう。
光魔法による目眩しも何度か試したが、ジェヴォーダンが怯む様子は無い。
何度か攻撃魔法も浴びせ、手応えはあるものの、ジェヴォーダンは傷を負いながらも速度を落とさず向かって来る。
より高威力の魔法となると、詠唱や魔法陣の構築など、それなりの時間と準備を要する。
追われている状況では、とてもでは無いが発動出来ない。
「く、何で参加してないのよレイモンド…!」
アステリアは、悔しげに自らの婚約者の名を口にする。
家同士が決めた婚約。
アステリアはレイモンドに対し、恋愛的な感情を持った事は無い。
しかしながら、レイモンドの高潔な人間性と、その高い実力は評価していた。
ガレオン公爵家特有の、魔物と契約し、召喚獣として従える力。
その上、レイモンド自身も並外れた魔法の腕を持っている。
そんな婚約者がこの新歓合宿に参加していてくれたなら、例えフロアボスだろうと単独で撃破して見せただろう。
しかし、レイモンドは不参加。
他の上級貴族の子息達と同様に、レイモンドやその友人四人も新歓合宿には参加していない。
この新歓合宿でフロアボスを抑えられるのは、恐らく上級の魔法使いで構成された教師陣くらいなものだろう。
しかしその教師陣も、居るとするならば《餓狼の森》の入り口付近。
上級生が監督役として森に入っているが、所詮は学生。
フロアボスを相手にするには、圧倒的に力不足。
故にアステリアは、他の生徒を巻き込まないよう、森の入り口とは正反対に向けて走っていた。
最早異変に気付いた教師陣が助けに来る事に期待するしかないが、果たして辿り着くまでにどれだけ時が掛かるか。
「下手したら死ぬかもね…」
或いは、下手をせずとも…。
魔力で強化した足で道無き道を逃げ回るが、直ぐ背後には凄まじい勢いで“死”が迫る。
一切の余裕は無く、一歩でも足を踏み違えれば、次の瞬間には冥府の扉を叩いているだろう。
それに、アステリアの体力にも限界はある。
ジェヴォーダンと遭遇してから、アステリアは休む間も無く全力で動き続けている。
アステリアのスタイルは、戦闘を前衛に任せ、後方から魔法を放つ生粋の魔法使いタイプ。
身体強化も習得はしているものの、その戦闘スタイル故に使用頻度が低く、練度も然程高くはない。
かなりギリギリの状態で、慣れない身体強化を休む間も無く掛け続けている為、身体の節々が悲鳴を上げていた。
しかし、身体強化を解く訳にもいかない。
身体強化を解いた瞬間、背後に迫る巨狼に食い殺されるだろう。
「——ッ!?」
そしてここで、運命の悪戯か、突如としてアステリアの前に現れた蜂の群れが一瞬、視界を塞いだ。
それはほんの一瞬、瞬き程の刹那。
されどこの局面での刹那は、文字通り生死を左右する。
蜂に気を取られ、そして地面から突き出ていた木の根に足を取られた。
アステリアは勢いに任せ、横転する。
痛みに耐えながら途切れた術式を繋ぎ合わせ、どうにか身体強化を再発動して上体を起こして顔を上げる。
眼前で、巨狼が大口を開けていた。
「——ぁ」
嘘、死、こんな事で。
幾つかの単語、断続的な思考が、アステリアの脳をよぎる。
確かに、この森に入ってからやけに虫が、特に蜂が多いとは思っていた。
しかし、それがまさか死因になるなんて。
終わり、助からない。
アステリアは諦め、目を瞑って自らの死を静かに待った。
今際の際で、アステリアの脳裏に巡ったのは、走馬灯でも婚約者の顔でも無く——見た事も無い筈の赤髪の少年だった。
*
ほのかな暖かみが身体を包み込む。
いつまで待っても訪れない“死”に疑問を抱きつつ、アステリアは目を開ける。
目に入ったのは、静かに燃ゆる綺麗なオレンジ色の炎と、先程脳裏にチラついたのと同じ顔——赤髪の少年の、安堵した顔。
「ぇ…」
理解が追いつかず、呆然とするアステリア。
赤髪の少年は微笑む。
「全く、なんで森の奥へ逃げてるんだ。お陰で間一髪だぞ…アステリア」
優しげな少年の声に、アステリアは内から熱い感情が溢れて来るのを感じた。
「…アベ、ル?」
それは、熱い感情に引っ張られる様にアステリアの口からついて出たもの。
赤髪の少年——アベルは驚き、目を見開く。
「な——」
まさか記憶が?
そう問い掛けようとした所で、疲労からか緊張の糸が為か、アステリアはアベルの腕の中で眠りについた。
ふわふわと青い火の玉がアステリアの周りを舞う。
『…寝たな』
「ああ…」
『今、アベルって言ったよな?』
「ああ」
『まさか、アステリアも使徒?』
「ああ」
『…あのアベルさん? 俺の話聞いてる?』
繰り返される生返事に、青い火の玉は怪訝そうにアベルを見る。
アベルは、心底安堵した様にアステリアを見つめていた。
青い火の玉は溜息を吐く。
『…邪魔する気はないんだけどさ、ジェヴォーダン忘れてないよね?』
アベルの背後では、お預けを食らったジェヴォーダンが怒り狂った様に吠えていた。
ジェヴォーダンは、怒りに任せてアベルを喰らわんと大口を開ける。
アベルは振り返りもせず、何でも無いかの様に言う。
「忘れてないし、問題も無い」
直後、ジェヴォーダンは火柱に飲み込まれた。
炎に包まれながらも、ジェヴォーダンは構わずアベルに襲い掛かる。
しかし、その牙がアベルに届く事は無い。
火柱は更に勢いを増し、ジェヴォーダンの巨躯を一瞬で黒炭へと変えた。
青い火の玉は感心した様に声を上げる。
『流石、瞬殺じゃん。ノールックでピンポイント放火とか。これでまだ加護を貰ってないとかやべーな』
「茶化すな。それに、このくらい出来るのは知ってるだろう」
『いや、リアルだとたまに強さの基準が分からなくなってさ。まあ、アンブレも瞬殺だったし今更だけど。四魔獣の設定レベルは60とかだっけ? んで、フロアボスのジェヴォーダンは…確か40? 今のアベルのレベルってどれくらいなんだろ…』
「その…レベルというのは何の数字だ」
『んー…強さを表した数字かな?』
「それは、何を基準に誰が付けたものなんだ…少なくとも、豹王アンブレはジェヴォーダンとは比較にならない程強かったぞ」
『いや、どっちも瞬殺だったじゃん…』
話もそこそこに、ここでふとアベルは、研ぎ澄まされた五感で何者かが接近してくるのを感じ取った。
アベルは身体に纏う炎を消す。
『どした?』
「先生方だ。漸く来たらしい」
『おっそ』
「前もこんなものだった。前回はアステリア一人じゃなかったし、ジェヴォーダンを相手にもう少し粘っていたからな」
アステリアは近接戦を得意としない魔法使い。
そんな中で、寧ろ一人でよく持たせた方だとアベルは言う。
アステリアを抱いたまま教師陣を待つアベルは、ふと視線を感じ振り返る。
視界の端、とぽんと、茂みの奥で黒い魚の様なものが跳ねた様に見えた。
『おい、今度はなんだよ』
「いや…今魚が…」
『魚? 森の中で?』
「…そう、だな。気の所為か…」
感じた気がした視線はもう無く、気配も無い。
首を傾げつつも、アベルは今にも訪れるであろう教師達を待った。
ジェヴォーダンが暴れた際に巣でも壊されたのか、やけに飛び回る無数の蜂が羽音を響かせる中で。
*
フロアボスの大狼ジェヴォーダンの出現により、新歓合宿は急遽中止となった。
教師陣により、アベルとアステリアは保護され、森の各地で野営の準備をする新入生達も呼び戻される事となる。
参加者の内、三名の行方不明者が確認され、教師陣と上級生による捜索がされたが、結局発見には至らなかった。
新歓合宿より数日後、ダンジョン付近の立ち入り禁止区域にて、行方不明の生徒達のものと思われる衣類の破片と血痕が発見される。
そして、焼け焦げた大狼ジェヴォーダンを解体した結果、胃袋より身元不明の遺体が三人分確認された。
遺体は損傷が酷く、性別の判別すら困難であったが、状況的に行方不明である三人の生徒であると目された。
本来ダンジョンの外に現れない筈のフロアボスの出現。
そして、第一王女がそれに襲われるという不祥事。
学園側は王家や貴族家からの糾弾を免れなかった。
そんな最中、アベルが単独でフロアボスを打ち倒し、アステリアを救い出したという事実は伏せられた。
公には、教師陣がフロアボスを討伐し、アステリアとアベルを救出したと公表された。
それは、所謂学園側が責任の追求を軽減する為の偽装工作であったが、それと同時に平民のアベルが目立ち過ぎない様にする為の計らいであった。
それらは、学園長とアベルとの話し合いの上で決められたものであった。
*
王立魔法学園、学園長室。
床に付きそうな程のプラチナブロンド長髪、そして同様に床に付きそうな程に伸ばした髪と同色の髭。
それでいて肌は若々しいという、なんとも不釣り合いな印象を受ける壮年の男。
学園長——アインベル・ロワ・アズダール。
アズダール公爵家当主であり、現国王の実弟にあたる人物。
玉座の如き椅子に腰掛ける学園長アインベルは、不敵な笑みを浮かべながら、目の前に座る赤髪の少年を見た。
「アベル・カロット。先ずは感謝の言葉を言わせてもらいたい。此度の提案を受け入れてくれた事、感謝する。君が口裏を合わせてくれたお陰で、学園はどうにか存続出来そうじゃ」
「そうですか。何よりです」
「何故かダンジョン外に現れたフロアボス。犠牲者は三人。それだけでも学園始まって以来の不祥事だというのに、可愛い姪っ子のアステリアまでが死に掛けたとなってはのぅ…せめて騒動を鎮圧したのはうちの教師達であってもらわねば、本気で閉校しかねなかったわい」
「はあ」
今回の件で、アステリアの父親である現国王は冷静さを欠く程にブチ切れていた。
それはもう、即刻学園を取り潰しかねない勢いで。
アベルが口裏を合わせ、教師陣が危機に瀕していたアステリアを救ったと公表した事で、学園はギリギリの所で存続出来ていた。
「本当に悪かったのう、折角ヒーローになれたというのに」
「別に、肩書きに興味は無いので」
「ほうほう。実に君らしい返事じゃな」
学園長の、まるで以前からアベルの人間性を知っているかの様な言葉に、アベルは眉を顰める。
学園長は徐に立ち上がり、魔動式の給湯器でコーヒーを淹れ始めた。
用意されたティーカップは三個、それぞれにコーヒーが注がれる。
「しかし——さて、こうして
学園長は言いながら、コーヒーを自らに一つ、そしてアベルに二つ置いた。
「——
学園長は、アベルと、その横でふわふわと浮かぶ
「…使徒は、あんたの方かよ」
口調を崩し、うんざりした様に天井を仰ぐアベル。
六神たる光神が選定した使徒——学園長アインベル・ロワ・アズダールは、楽しげに笑った。
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