第9話 事件発生1-4

「おい、奏太。もう帰るのか? まだ一セット終わったばかりじゃないか」


「悪い。ちょっと今、兄貴の実験を手伝っていて、本当は今日も抜けられなかったんだ。高橋に断ろうとしたら、要件だけ伝えて電話を切っちまうしな。莉緒ちゃんが留守番を引き受けて送り出してくれたから、少しだけみんなの顔を見て帰るつもりだったんだ」


「俺のせいかよ。でも、ちょっとだけといいながら、着替えをしっかり持ってきて、ウルトラ級の技を決めたのは誰だ?」


 奏太よりは小柄で、元体操部だった高橋圭吾が奏太の胸を小突いた。

 誰とでもすぐに打ち解ける奏太は名前で呼ばれるが、県警勤めの父に厳しく育てられた高橋は名前よりも苗字がしっくりくる。

 なんでも、高橋の父親はサイバー捜査官を務めているそうで、ネットの裏側に潜む犯人を探りあてると日本中どこにでも足を伸ばして逮捕に駆けつけるらしい。

 パルクールを始めた息子に、お前がもし泥棒になったら、捕まえるのが難しいだろうなと、シャレにならない冗談を言ったのだとか。


「念のためにシャツを持ってきて正解だったよ。この施設を見たら大暴れせずにはいられないって」


「だよな。廃工場がパルクールに使えるんじゃないかと奏太が言ったときにはどうかと思ったけれど、公園みたいに他の人を気にせず堂々とやれるのがいい。高低さもあるし、障害物もばっちりだし、しかも格安レンタルプランまで探してくれたから大助かりだ。お前の技に憧れて入部した奴もいるんだから、少しでも参加してくれよ」


 部員たちからも、最高の練習場所を見つけてくれてありがとうと礼を言われて、奏太は気分が良くなり笑顔を返す。奏太の実技を見て興奮も覚めやらぬパルクールクラブに入りたての部員からは、実験が終わったらぜひ技を教えて欲しいと熱心に頼まれたりして、奏太は照れながらオッケーをした。

 流行りのカッコ良さを求めて入った部員には、実技よりも、奏太がさりげなく出した名前の方が気になったようだ。


「莉緒ちゃんて誰? 奏太の彼女?」

「僕も気になった。送り出すっていうことは同棲してるのか?」


「いや、一緒に兄の実験を手伝っている子なんだ。同じ大学の同級生だよ」

「かわいい子? 専攻は何?」


「素顔がかわいい感じの子かな。歳は二歳下なんだけど飛び級したんだって。合成生物学を専攻していて、新しい人工皮膚を開発した天才少女だよ」


 莉緒を紹介してもらおうと思っていたのか、莉緒の外観を説明しているときには、みんなの目はきらきらと輝やいていた。ところが、天才と聞いた途端に瞳が左右にさまよう。

 まるで手の届かない女性には興味が無いか、諦めたというように「フーン」と意気消沈したトーンの相づちがはもった。

 これが普通の男の反応なんだろうな。

 奏太は、莉緒が兄の研二を追い求めるしかない状況を理解した。


「じゃあ、俺帰るわ。実験がひと段落したらまた連絡する」

「おお、待ってるぞ」


 高橋と仲間たちの声を背にして、奏太はバス停へと歩いた。

 歩きながら、ここに来る前のことを思い出す。奏太がてっきり合コンパーティーに出かけると信じた莉緒は、奏太の中身を見てくれる女性を探すつもりなら、パーティーなんかで見つけたらだめだと必死で説得しようとしていた。

 親身になって案じてくれる莉緒があまりにもかわいくて、本当は男女の出会いを求めるパーティーではなく、パルクールに行くことを話したかった。

 でも話せばきっと、莉緒がケンディーに、休日は何をしているのかと尋ねたときのことを思い出すかもしれないと思って、寸でのところで止めた。


 例え研二が、自分の日常をビデオカメラで撮影中に、テレビに映っているパルクールを見て、やりたいと呟いたのがケンディーに誤入力誤されたと説明していたとしても、どうしてそのとき奏太が趣味でやっていることを黙っていたのかと疑問を持つはずだ。本来なら隠す必要がないことなのだから。

 四六時中一緒にいる人に、バレてはならない秘密を持っているのは非常に神経を使う。

 特に、いいなと思っている子の前で、事実を隠そうとすればするほど、嘘をつかなければならないことに罪悪感が増す。

 加えて莉緒が好意を寄せる兄の研二を演じなければならないなんて、被虐心をもっていない奏太には最悪のシチュエーションだ。


「兄貴じゃなくて、俺をみればいいのに」


 ふと呟いてから、慌てて辺りを見回し、誰もいないことを知って胸をなでおろした。

 いくら莉緒が気になるからと言って、ケンディーの秘密を知られたら、研二の研究が危険だと取られて中止になりかねない。

 スポンサーは莉緒の兄なのだ。この実験が終わるまでは決して気を許してはいけない。

 奏太は雑念を振り払うために走り出した。


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