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「雪合戦しようよ!」
翌日のことだった。自分の家の玄関の扉を開けると、満面の笑みのセツナがそこに立っていた。昨日見た通り右目には眼帯をしていたが、いつもと違ってマフラーで口元を覆っていなかった。
「え、なんで……?」
「わたしがトウキと雪合戦したいからだよ!」
初めてセツナに名前を呼ばれた。セツナがちゃんと僕の名前を覚えてくれていたことに感動している余裕はなかった。
セツナの雰囲気が、昨日とはあまりにも異なっている。
セツナが僕の前でこんな笑顔を見せたことは一度もない。こんなに楽しそうに笑ったことは、ない。
まるで別人のようだった。
「早く早く! 雪合戦しよ!」
「わかったよ……」
いつもと立場が逆転していた。僕はセツナに戸惑いながら玄関を閉めて、急いで外に出る準備をした。防寒具で身を固めてから外に出ると、僕が玄関の扉を開けた瞬間にセツナが雪玉を投げつけてきた。
「なっ、いきなり何すんだよ」
「雪合戦はもうとっくに始まっているんだよ! ほら、トウキも早く雪玉作らないと」
「いや、セツナ、目はもういいの?」
「よくないけど、わたしが雪合戦したいから雪合戦するの!」
「ダメだよ。この先一生目が見えなくなってもいいの?」
「それは、嫌だ、けど……」
セツナはバツが悪そうに顔を伏せてもじもじしていた。昨日までのセツナは、こんな風に自分の感情を躊躇なく表に出すような人間ではなかった。
「今日は雪だるま作ろうか。この前は結局作れなかったし」
僕が提案すると、セツナはぱっと表情を明るくして、大きく頷いた。
僕とセツナが雪合戦をしていたあの日から目立った雪は降らず、道路上はある程度雪かきが進められていて、家の前で雪遊びをすることはできなかった。僕たちは少し歩いて住宅街を抜けて、開けた場所に出た。一面の銀世界がそこに広がっていた。
セツナは休むことなく積極的に雪玉を転がしていた。上機嫌に鼻歌を歌いながら、せっせと雪玉を転がしている。いつもの気だるげな空気は全くない。
僕も雪玉づくりを手伝って、最終的に僕の背丈とそう変わらないほどの大きな雪玉が二つできた。雪だるまだから最後にはどちらか小さいほうの雪玉を大きい雪玉の上にのせなければならないが、比較的小さい雪玉でも小学生が二人だけで持ち上げることは不可能だった。持ち上がらないことがわかると、セツナは雪玉に向かってタックルを仕掛けた。大きな雪玉はあっけなく崩れ、セツナはそのまま雪の中に倒れた。セツナは雪の上で仰向けになって、真っ青な空を眺めながら、愉快そうに笑った。大きく口を開けて高らかに笑った。天真爛漫な少女の笑い声だった。僕はそのとき、セツナと一緒に笑うことができなかった。
セツナは天真爛漫じゃないはずなのに。
冬休みの間、セツナは毎日じゃないにしろ頻繁に僕の家を訪れて、僕を遊びに誘った。僕がセツナの家まで出向くことはなくなった。
冬休みが終わって小学校が始まってからも、セツナの振る舞いの変化は顕著だった。セツナは教室で本を読まなくなった。物静かで無表情だったセツナが活動的で表情豊かになって、クラスでも友達が増えたようだった。
セツナが別人のように変わったきっかけが僕にあることはわかっていた。僕がセツナの右目に雪玉を当てたから、セツナの性格が変わってしまった。
僕がセツナを変えてしまったのだ。
あらかたの雪が解けた四月ごろ、セツナの右目の眼帯が外れた。右目に目立つような傷痕は残っていなかった。僕はそれを見ても、全く安堵できなかった。
その頃から、僕はなんとなくセツナを避けるようになっていた。眼帯はもうないのだからセツナを見ても罪悪感に胸を痛めることはないはずなのに、僕はセツナを避けてしまっていた。
明るくなったセツナは進級してからもどんどん友達を増やしていって、ただ家が近所にあるだけでクラスも違えば性別も違う僕とは自然と疎遠になっていった。
ただ自然と、僕とセツナの繋がりは薄まっていった。異性の幼馴染なのだから、歳を重ねるにつれて距離感が変わっていくのは、仕方のないことだった。
僕がセツナを気味悪がっていたわけでは、断じてない。
「ねぇトウキ、せっかくだから一緒に帰ろうよ」
あれからかなりの年月が経って、その日は中学校の卒業式だった。別れを惜しむ友達も、記念撮影をしてくれた母親も置いて、セツナは僕と二人きりで帰ろうとしていた。
僕はセツナの誘いを受け入れた。高校が別々になってしまう友人に別れの挨拶もせず、僕は早々にセツナと二人で帰った。
しばらく歩いていると、気付けばあたりは薄暗くなっていて、しんしんと雪が降っていた。卒業式のときには、体育館の窓から差し込む陽光に目を細めていたくらいだったのに、急に曇るなんて。
「雪、降ってきたな」
「…………」
セツナは黙っていた。三月でもまだ雪は解けていなくて、道路以外の地面には一面の銀世界が広がっていた。まわりには誰もいなくて、僕たち二人だけが氷雪の中に閉じ込められたような気がしてくる。
鞄の中から折り畳み傘を取り出すと、セツナが僕に身を寄せてきた。小さな折り畳み傘の中に、二人で入る。
「おかしいな。今日は一日中晴れの予報だったのに」
徐々に雪は激しさを増していき、視界が霞むほどになっていった。セツナは下を向いて押し黙ったまま、不意に僕の服の袖をぐいっと強く引っ張った。
「……どうした?」
「……さ、さむ、い」
「え?」
「さ、寒くて、うごけ、ない……」
セツナが顔を伏せて、弱々しく呟いた。
僕は自分の鞄を胸の前で抱きかかえるようにして、背中にセツナを背負った。セツナの手や足は氷のように冷たかった。セツナを背負って暗い吹雪の中をゆっくり歩き、おそらく田んぼの倉庫であろう場所に入った。セツナを床に下ろしてから、倉庫のシャッターを閉める。
「雪がやむまでここで待っていようか」
「……ん、これ、あげる」
セツナが灰色のカイロを僕に差し出した。僕とセツナは壁際に寄り添って座って、手の中でカイロを擦りながら、白い息を吐きだし続けていた。シャッターの閉まった倉庫は真っ暗闇で、天井付近の換気窓から差し込む弱い光しかなかった。
ここまでセツナをおんぶしてきた僕だが、正直もうセツナのことを気遣っている余裕はなかった。本当に尋常でなく寒かった。後にも先にも、このときより寒さを感じた経験はない。外の吹雪は倉庫の壁を叩きつけるように揺らしていたし、卒業式に行ってきただけだから鞄の中に食料もない。倉庫に来てから二十分が経つ頃には、僕は本気で命の危険を感じ始めていた。
「…………」
セツナはずっと黙っていた。今更ながら、なぜ自分がすんなりとセツナの誘いに乗ったのから不思議に思えた。いつもの僕なら、セツナと二人きりで帰ればこういう気まずい沈黙が発生することを予期して断るはずなのに。
卒業式という大事な日を、僕はセツナと過ごしてしまって良かったのだろうか。中学時代の思い出はそれなりにあった。その思い出のどのページにもセツナは登場しないのに、中学生活最後の日に僕はセツナと二人でいる。
考えれば考えるほど、自分がどうしてセツナについてきたのかわからなくなる。
「寒いよぉ、トウキ……」
セツナが寝言のようにぼんやり言いながら、僕の首の後ろに腕を回して、抱きついてきた。身体全体を密着させてきた。
「カイロよりトウキのほうがあったかいねぇ」
僕は仰向けになって、セツナが僕の身体に上から覆いかぶさるような体勢になる。
普段の僕ならすぐにセツナの身体をどけて自分が過ちを犯さないようにするのかもしれないが、そのときの僕はそうすることができなかった。命の危険を卑近に感じるほど寒くて、セツナの言う通り人の体温はカイロよりも温かくて、その温かさに縋りつくことしか頭になかった。
僕は愛をもってセツナを抱きしめていたのではない。ただ純粋な生存本能でもってセツナを抱きしめていた。
だがセツナの側はそうではなかった。
「……ねぇ、こんなときにこんなことを言うのはずるいのかもしれないんだけど……」
「…………」
僕はセツナの首元で大きく息を吸い込んで吐いた。そこで初めて、セツナの身体がぶるりと震えた。
僕の身体はさっきからずっと震えっぱなしなのに。
そういえばセツナは今の今まで震えていなかった。
「ねぇ、わたし、トウキのことが好きなんだよ。幼稚園児だった頃から、ずっと」
「……ああ」
セツナの告白を受けても僕はどうでもいいと思ってしまった。死ぬか生きるかの状況で幼馴染に告白されても、それは些事にしかならない。
「だからさ、ハグよりももっと身体があったかくなるようなこと、しようよ」
「……なんだ、それ」
「わたしに言わせるの?」
薄暗闇の中で、セツナがおもむろにタイツを脱ぎ始めた。スカートのホックを外して、セーラー服のスカーフも外した。
顔を赤らめたセツナが、恍惚とした表情で僕を見下ろしていた。
さすがの僕も、少しは狼狽えた。だけど、生存本能によってそういう欲も無意識に活性化していた僕はすぐにセツナを受け入れる体勢に入った。
僕は手足を一切動かさず、セツナだけが着々と準備を進めていった。自分のものと僕のものの準備を進めていくセツナを、僕はただぼんやりと見上げていた。
こんなにもあっけなく、僕の貞操は奪われてしまうのか。セツナはこんなにも躊躇なく、自分の貞操を僕に差し出すのか。
なんだか夢を見ているようで、視界の何もかもが非現実的だった。
そのとき、もしも僕があの日セツナの右目に雪玉を当てていなかったら、中学生活最後のこの日、僕はセツナと何をしていただろうかと考えた。
きっと、今僕の目の前の光景とは全く別の世界が広がっていたはずだ。
「じゃあ、いれるよ」
ひとりだけで準備を済ませたセツナが、ひとりだけで、僕のものを使って行為を始めようとした。
そして、僕とセツナがひとつになった瞬間。
僕の下半身は一瞬にして凍り付いた。
凍り付いて、全く動かなくなってしまった。
あまりに突然の出来事で、すぐには理解が追いつかなかった。
あるいは、自分の失ったものの大きさの計り知れなさを理解したくなかったのか。
外の吹雪はもう収まっていた。換気窓から差し込む陽の光が、体育館で見たものと同じくらい強くなっていた。
セツナの絶望的な表情が、その光に照らされていた。
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