3/5
僕がセツナに向かって投げた雪玉は、彼女の背に命中して、ぱらぱらと崩れた。
彼女はびくっと身体を震わせた後、またあの不機嫌そうな目で僕を睨んだ。セツナから仕掛けてきたというのに、どうしてあれほど嫌悪のこもった目を向けられなければならなかったのか今でもわからない。
セツナは両手に持っていた雪玉を二つとも僕に向かって投げてきた。二つともそれほど飛ばずに、僕の胸の下あたりに命中して、虚しく弾けた。
そのとき、セツナの目元が少し笑っていたのを僕は見逃さなかった。
セツナと二人で雪遊びをしたことはそれまでにも何度もあったけど、雪合戦をしたのはこのときが初めてだった。雪合戦が二人でできる遊びではないことを小学生当時の僕はなんとなく理解していたし、それに、女の子のセツナに雪玉を投げつけることに少し抵抗があった。しかし僕はそういう感覚と同時に小学生なりの好奇心も持ち合わせいて、雪合戦がどれほど楽しい遊びなのか一度試してみたかった。
雪合戦をしようと言い出してみたものの、セツナがあらゆる雪遊びの中で何よりも雪合戦をやりたがらないだろうとは僕も予想していた。だからセツナが顔を顰めたときはすぐに引き下がったけれど。
僕と外で遊んでいるときにセツナが笑ったのは、そのときが初めてだった。
僕に雪玉を命中させたとき、彼女は初めて笑った。
雪合戦をしているときにだけ、彼女は笑ったのだ。
セツナが珍しく乗り気になっていることがわかると、僕のほうまで嬉しくなって、さっきよりも張り切って雪玉づくりに勤しんだ。
それからの僕たちはお互いに一心不乱に脇目も振らずに何にも構わず、雪玉を投げ合った。雪玉がセツナに命中したりしなかったり、セツナの雪玉を避けたり避けなかったりして、純粋に雪合戦を楽しんだ。戦いは徐々に激しさを増していき、一対一のはずなのにそこでは常に雪玉が飛び交っていた。
僕は時々声を上げたり笑ったりしていたが、セツナは終始無言だった。セツナが僕と遊んでいるときに言葉らしい言葉を吐くことは少ない。しかしこのときのセツナの挙動はいつもよりも軽やかで、目元もずっと笑っていた。セツナが僕との遊びで楽しんでくれていることが嬉しくて、こんな時間が永遠に続けばいいと思った。
そのときの僕にはまわりが見えていなかった。小学生なのだから当然かもしれない。雪合戦に興奮していたから当然かもしれない。それは仕方のないことだったのかもしれない。視野の極端に狭くなった人間が気付かぬうちに重大な罪を犯してしまうことは、仕方のないことなのかもしれない。
「いっ……!」
僕が投げた雪玉が、セツナの頬のあたりに命中した。しかしその雪玉はセツナに当たっても砕けずに、形を保ったまま地面に落ちた。セツナはか細い悲鳴を一瞬上げて、自分の左目を手で押さえながら、膝を折ってその場にへたり込んだ。
僕は一瞬息が詰まるような寒気を感じた。背骨に雪を押し当てられたような感覚だった。セツナのもとに駆け寄って、セツナの背中をさすりながら「大丈夫?」と声をかけた。セツナは右目を抑えたまま、全く動かなかった。
僕はセツナの背中をさすりながら、セツナがこうなった原因が自分にあることを認めつつあった。よりスピードが速く、よりコントロールが利く雪玉を作るためには、雪玉をしっかりと固める必要があることに僕は雪合戦の途中で気づいて、それからは念入りに雪玉を丸く固めるようにしていた。硬くて小さい雪玉はよく手に馴染んで投げやすかった。僕はどうすればより精度を高くしてセツナに雪玉を当てられるのかだけを考えていた。その雪玉がセツナの顔面に当たったときに何が起こるのかなんて、全く考えていなかった。
それに、僕は事態を甘く見ていた。甘く見ていたからこそ徐々に自分の罪を自覚することができていた。しばらくすればセツナの痛みも引いて、またセツナと一緒に遊べるだろうと思い込んでいた。
だから、セツナの右目を抑えている手袋の隙間から、ぽたり、と雫が落ちてきて、その雫が白い雪を鮮やかに赤く染めた光景を見たときは、僕の頭は雪のように真っ白になった。
セツナの目から、血が出ている。
僕のせいで、セツナが目から血を出した。
僕が狼狽えている間にも、セツナの指の隙間から絶え間なくぼたぼたと血液が落ちてくる。雪が赤く染まっていく。
その後のことはあまりよく覚えていない。セツナの血液によって雪が赤く染まったあの光景が鮮烈すぎて、他の記憶がかき消えてしまった。たぶんセツナの家のインターホンを押して、セツナの母親を呼んだのだと思う。そしてセツナは病院に連れていかれた。僕も病院についていったのかどうかはわからない。おそらくついていかなかったと思う。自分で自分の責任をとることなんかできなかった。目から血を流すセツナをそれ以上見ることは僕にはできなかった。
次にセツナを見たのは、それから二日後だった。母親と二人で、セツナの家に謝りに行った。セツナの母親は、悪意はなかったんだしただの不幸な事故だからと、すんなり僕たちの謝罪を受け入れ、許してくれた。
セツナは自分の部屋のベッドに座って、本を読んでいた。大きな眼帯が右目を覆っていた。セツナは顔が小さいから、眼帯だけで顔の三分の一くらいが覆われてしまっていた。僕が部屋に入るとセツナはゆっくりと本から顔を上げて、僕を見た。
「こ、こっ、こんにちは……」
「…………」
「その、一昨日は、ごめん。……ごめん、なさい」
「別に……」
「……その、目、大丈夫だった?」
セツナは、幸いにして、と言っていいのかわからないが、大事には至らなかった。右目は失明していないし、眼球に傷がついて視界が制限されると言ったようなこともなかった。しばらくすれば、セツナの目は元に戻るらしい。
「もう、雪合戦はしないほうがいいよな」
なんとなく気まずくて、僕は部屋の扉のそばに突っ立ったまま動けずにいた。セツナも本を開いたままの姿勢で顔だけこちらに向けていた。本を閉じないでいるのは、あまり長く話していたくないという意識の表れかもしれない。
「……したくないの? 雪合戦」
「えっ」
「昨日の雪合戦、楽しくなかったの?」
「……セツナは、楽しかったの?」
僕が言うと、セツナは目を逸らして黙り込んでしまった。セツナの真意が読めなかった。セツナは雪合戦によって目を傷つけられたのに。自分の眼球に向かって雪玉が一直線に飛んできて、次の瞬間には強烈な痛みとともに視界が真っ暗になってしまう体験をしたはずなのに。
「セツナがまた雪合戦したいって言うなら、僕は付き合うよ」
「……うん」
息を吐くように頷いて、セツナは本を閉じた。そのまま毛布を被って、僕に背を向けて横たわった。
「……じゃあ、またな、セツナ」
僕は最後までセツナの背中を見ながら、部屋の扉を閉じた。またな、とは言ったが、正直セツナとはもう会いたくなかった。セツナの顔を覆う大きな眼帯を見るたびに、罪悪感が自分の胸をじくじくと痛めつけてくるから、できるだけセツナの顔を見たくなかった。
しかし、その次の日には、僕は否が応でもセツナの眼帯を目にしてしまうことになる。
*
「つまりお兄さんは、自分が投げた雪玉によってその女の子を傷つけてしまったことを今でも気に病んでいるから、雪が苦手なんですか?」
「まあ、それもあります」
もし僕の雪にまつわるトラウマがそのひとつだけだったなら、僕はここまで雪を忌避していない。雪の降った日には少し気分が落ち込むくらいで、一日中寝込んでしまうほどにはならないだろう。
「それも、ってことは、まだ何かあるんですか?」
「その前に、お茶を入れましょうか」
僕はテーブルの上の空になったラーメンのどんぶりを流し台に運んで、冷蔵庫を開けた。お茶を入れようと思ったがよく考えたらこの家にお茶なんてなかった。もうこの際だからと思って、僕は冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
「え、この真昼間からお酒ですか?」
雪女はグラスに注がれた黄色い液体を不思議そうに見た。
「今日はここに泊まっていくんですよね。だったらもういいじゃないですか」
彼女は納得したようなしていないような顔で曖昧に微笑み、おずおずとビールを啜るように飲んだ。
昔のトラウマを掘り起こしている内に半ば自棄になって酒が飲みたくなってきたのもあるが、僕はこの雪女を試す意味でも酒を持ちだした。
彼女は少し躊躇いつつも酒を飲んだ。
僕と二人きりの部屋の中で、彼女は酒を飲んだ。
僕の目の前で、彼女は理性を手放した。
やはり彼女は僕が抱えているものに気づいているのだ。そんな彼女にこの話の続きを聞かせる意味はあるのだろうか。いや、そんな彼女だからこそこの話を聞かせる意味があるのかもしれない。
今日会ったばかりの人を相手に、酔いが回った状況でないと、こんな話はできない。
僕がこの話をするのはきっと、彼女が最初で最後になるだろう。
僕の罪についてはもう語り終わった。この先は、その罪によって僕が背負った業についての話だ。
今なお僕の人生を大きく歪ませている、僕が背負った業について。
その全てを、雪女に向けて吐き出そうと思う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます