二、


 もくまの暮らすこの時代、明治二十年頃というのはまだまだ江戸時代の名残が彼方此方に残っている、そういう時代なんでございまして、自動車なんて今みたいに走っているはずもなく、馬や牛が交通の手助けをしている時分。

 

 今じゃ汚いのなんのって信じられないかもしれませんが、道端に糞なんてなのは当たり前なんでありますね。まだまだ長閑な時代だったんです。


 そんな時代ですから、先程かかった液体についてもくまは、きっと糞が雨で溶けてそいつが自分にかかったんだろう。そう思っていた訳でございますが、しかしいやはやどうしたものか、その液体どうもそう簡単な代物ではないようで、それはなぜかといいますと、行きつけの銭湯の番台の態度があきらかに違うときたもので…


 「あい、いらっしゃいませ、ああこれは珍しい、こんな別嬪さんが雨の中わざわざ来るなんてね、他にお客はいないんだ今は貸切だよ、存分に羽根を伸ばしておくんなさい」


 (なんだい、番台の野郎、俺が別嬪だと?とうとう狂っちまいやがったかなあ…)


 「ああ、ゆっくり入らせて貰うよ」


 「おいおい!お嬢さん冗談はいけえねよ、そっちは男湯だ!女湯はこっちだよ」


 「おいおい、番台!おれは男だぜ、何言ってやがんだい、どこに目付いてんだよ!」


 「あいやいや、お嬢さん、そりゃ冗談が過ぎるよ、あんた誰がどう見たって女だ、そこの鏡で見てみなよ、こりゃ相当な別嬪が写っているじゃないかい」


 なに馬鹿言ってやがんだい、もくまはそう思いながらも、言われた通り壁にかかった鏡を覗いてみる。



 「ん、えーーー!!!」


 

 と、大きな声が出てしまうのも仕方ない、鏡に写るのはなんとも麗しい絶世の美女!今の今までむさ苦ししくて脂臭い中年男の顔と体であった自分がうら若き乙女の姿になっているではないか!

 

 もくまはあまりにも驚いたので腰を抜かしちまいまして、その場に崩れ落ちる…その途中で、なんの因果かお尻の穴に箒の柄がスポッ、と、はまってしまった。


 「ぎゃーー!!」


 「お、お嬢さん、大丈夫かい」


 かぷーんはお尻が痛いのと、自分が女になっているのとで、もう何が何だか分からない。

 大きな奇声を上げながら、お尻に箒を挿した状態で銭湯中を行ったり来たりしてしまう。


 「ぎゃー!女!ひー、お尻がー」


 「こらこら、お嬢さん危ないよ、一旦落ち着きなさい」


 女、お尻、女、お尻と騒ぐもくまと、どうにか落ち着かせたくて頑張る番台の攻防、その尋常ではない騒がしさは表通りまで漏れ響きまして、それに気付いた武家風の男が銭湯の暖簾をくぐってやってきたのであります。


 「おーい、番台、どうしたんだい?」


 「おー!これは、五十嵐さま、どうもこうもありゃしないんですよ、あの娘さんが気が狂っちまって…あの通りなんですよ」


 「ほぅ、えらい別嬪さんだ、しかしお尻に付いてる物はいただけないな、ガハハ」


 「ええ、今は誰も居ないからいいですが、ずっとこうしていられたんじゃ商売になりませんよ」


 「ハハハ、それはそうだ、よし、ここは私に任せなさい」


 いかにも頼もしく、威厳を備えたこの五十嵐なる男、元々は幕府直参の旗本の長子、時代は変わっても、この辺りでは今でも有名なお武家様で通っているのでございます。

 

 そんな五十嵐が何をしたかというと、奇声を上げて駆け回るもくまの前にすとんと立って、一声、「エイッ!」と大きな声を発した。

 それだけなんですが、不思議ともくまは落ち着きを取り戻したのであります。

 

 嘘のようですが人智を超えた能力を鍛錬で身につけていた武士が、まだ明治の時代には生きていたんです、その人達を所謂、達人、名人なんて言っていたんじゃないかと、個人的には思うんですが…

 

 そういうことは、今回は置いておいて、皆さまお疲れのご様子でございますから、一旦小休止といきましょう。

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