第5話 十二月、初霜(上)

 カランカランとドアに掛けられたベルが鳴る。


「……おや。お久しぶりですね」


 目を細めながら寺岡を出迎えたのはもう七十代後半か八十を越えたくらいに見える老人だった。

 よっこらしょ、と苦しそうに声を漏らしながら立ち上がり、曲がった腰をうんと伸ばすような動作をする。

 それでも背筋が伸びきることはなく、右足を引きずるように歩いてカウンターに立った。


「マスター……、かい?」


 衝撃のあまり寺岡は言葉に詰まった。

 マスターとおぼしき男性は答える代わりに人懐っこい笑みを浮かべた。


「コーヒーをお淹れしましょう。この時期ですから、ホットにいたしましょうかね」


 穏やかな口調で話しながら、マスターはコーヒーカップを手に取った。

 手が震えるのか、カップがカチャカチャと小刻みに音を立てる。


「季節はもう、冬ですね。寺岡さんはお変わりありませんか?」

「あ……ああ。つい最近まで妻の実家に行っていたんだ」

「ほう。奥さまとよりを戻されたんですか」


 マスターの声は自分のことのように喜びを孕んでいる。

 寺岡は苦笑し、緩く首を横へ振った。




 元妻から連絡があったのは、前回「風美鶏」を訪れた直後だった。

 離婚後は一人で暮らす父親の世話をするため生家に戻っていたらしいのだが、いよいよ寝たきりになってしまったのだという。その介護を手伝ってはもらえないかとSOSを送ってきたのだった。


 過去には寺岡の親の面倒を見てもらったこともある。

 その恩を返すつもりで元妻の所へ手伝いに行ったのだ。




 数年ぶりに顔を合わせた義父は別人のようにやせ細っていた。

 それでも自由が利かなくなった身体はずしりと重たい。ベッドから車椅子へ移動させるだけでも、寺岡の体にはじっとりと汗が滲んだ。


 妻を説得し、義父を施設に入れられるまでの約二ヶ月間。気まずいながらも元妻と昔のように共に暮らした。

 そして、ようやく一段落ついたので久々にこの街へ帰ってきたのだ。

 そこまで話すと寺岡はやれやれと溜め息を吐いた。




 本当はここへ来るつもりはなかったのだ。

 前に小万知食堂の定食が出てきてから、寺岡の記憶の中にはこの場所が薄気味悪いものとして刻まれていた。


 ある時、話題に困った寺岡が食卓を囲みながら妻にこの店のことを話したことがあった。

 その時にふと思い出して放った「そういえば、タッパー返しそびれたな」の一言に妻の顔色が変わったのだ。


「返してらっしゃいよ」

「いや、でも……」


 あんな不気味なところ、お前だって行きたくないだろう? そう問いかけようとした寺岡の言葉は早々に遮られた。


「でもじゃないでしょ。借りたものは返す。当然のことよ?」


 説教を聞きながら、そういえば妻のこういうところが苦手なんだったと思い返す。結局、返しに行きなさいと言う妻に逆らうことはできず、こうして「風美鶏」へやってきたのだった。




「これ、前は返しそびれて済まなかった」


 リュックからタッパーを取り出してマスターに手渡す。

 受け取ったマスターは、おや? とタッパーの中身を覗き込んだ。


「あいつがな、空っぽで返すなんてって……」


 ポリポリと頬を掻きながら言い訳をする。

 タッパーには妻が作った筑前煮が詰められていた。


「ありがたく頂戴します」


 マスターはにこりと笑って里芋を口へ運んだ。

 何度もこの店に来ているが、何かを食べるマスターを目にするのは初めてかもしれない。


「奥様は料理上手な方ですね。とても丁寧な調理をされる方です」


 不意打ちで妻を誉められ、寺岡は目を丸くした。

 妻が料理をできるのは当然のことだと思っており、それが上手いとか下手だとかは意識したことがなかったからだ。


「ところで。しばらく会わないうちに随分と様子が変わったみたいだが、何かあったのかい?」


 苦し紛れに話題をすり替えると、次はマスターが苦い顔をした。


「あー……えぇ。少し病気をしまして」


 寺岡はそれに「うんうん」と頷いて話の先を促す。

 すると、マスターは意を決したように口を開いた。


「私事なのですが、今年いっぱいでここを閉めようと思うんです」


 突然の告白に寺岡はわずかに目を見開いた。


風美鶏ここを閉めて悲しんでくださるのは寺岡さん、あなたくらいのものですよ。

 寺岡さんのような方がいてくださることは本当に嬉しいのですけれど……」


 申し訳なさそうなマスターの口ぶりに、寺岡は返す言葉が見つけられなかった。

 ここで自分以外の客が来ているところに出くわしたことはない。中途半端にしたまま放棄してしまった草刈りも、その後誰かが引き継いだ様子はなさそうだった。

 不気味だと思って避けてはいたが、いざ閉店と聞くと何とも言えない物悲しさがあった。


「それで、ですね。もし第四土曜日がお暇でしたらこの店に来ていただけませんか?」

「……ああ、構わないよ」


 予想外な提案に思わず頷いてしまった。


「では、その時に私の秘密をお教えしますよ」


 マスターは儚げな笑みを浮かべた。


「あぁ、そうだ。今日は『いつもの』、召し上がっていかれませんか?」

「……ん。今日は何を作ってくれるんだ?」


 不気味だとばかり思っていたが、もう食べられなくなるのだと知ると俄然興味が湧いてきた。

 怖いもの見たさとでもいうのだろうか。

 寺岡は前に来た時にそうしたように、グリム童話の本を手に取るとカウンター席に座った。

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