第4話 八月、狐日和

 翌日、寺岡は洗ったタッパーと物置にしまい込まれていた草刈り鎌をリュックに詰めて家を出た。

 長年使っていなかったこともあって鎌には錆が浮いていたが、使えないことはないだろう。何より、ないよりはマシだ。

 同じ理由で頭に載せた昔子供が被っていた麦わら帽子は、サイズが合っておらず半ば浮かんだような不格好な形で頭上に鎮座していた。


 通りから少し入ったところでリュックを下ろし、寺岡は鎌を手に取った。

 伸びきってしまった雑草の茎は硬く、錆びた鎌では一度で刈り取れない。

 もどかしく思いながら二度、三度と鎌を振るって半ば引きちぎるように草を刈った。




 三十分ほど経っただろうか。屈みっぱなしで痛みはじめた腰を伸ばし、背後を振り返る。

 目に入った光景に寺岡はがっくりと肩を落とした。


 ここまでの時間で進んだ距離は二メートルほどだろうか。

 先はまだまだ遠い。このペースだと日暮れまでかかりそうだ。


「……考える暇があれば手を動かせってよく親父に怒鳴られたもんだ」


 ため息混じりに呟いて額に浮いた汗を拭った。

 太陽はジリジリと照りつけている。

 とりあえず目標は五メートル先の木陰だ。


 寺岡は己に喝を入れ、鎌を握り直した。




 寺岡が木陰に辿り着いたのはそれから更に一時間後だった。

 これまで進んできた距離とこの先待ち受ける道のりを見比べてため息を漏らす。


 もう体力は限界に達していた。

 このペースだと一週間近くかかるのではないだろうか。その頃には初めに刈った所がまた伸び始めていそうだ。


「電動の草刈り機でも買うか?」


 草刈り機があればものの三十分か一時間で片付くことだろう。

 誰に頼まれたわけでもないが、中途半端にはしたくないとプライドが疼いた。


 そこへポツポツと雨粒が落ちてきた。

 一気に草の匂いが強くなり、一陣の風が吹き抜ける。

 サーッと雨が打ち付ける音が近付いてくるのがわかった。


「天気雨か……」


 天を仰ぐと寺岡の周りはまだ青空だ。

 休憩しなさいという天のおぼし召しだろうと結論付け、リュックを背負うといつもの如く「風美鶏」に向かった。


「いらっしゃいませ」


 マスターの人懐っこい笑顔に迎えられるのと雨足が強くなるのはほぼ同時だった。


「ギリギリセーフですね」

「ああ……。あと少し遅かったらずぶ濡れだ」

「どうぞ、お掛けください。


 こんな狐日和の日には……と言いたいところですが、生憎大した準備もしていなかったもので」

 マスターは困ったようにいつものアイスコーヒーを差し出してくれた。

 火照った体に冷たいコーヒーが染み渡る。寺岡はそのほとんどを一息に飲みきってしまった。


「……はぁ。生き返ったよ。

 ところで『狐日和』ってのは何だ? 聞き慣れない言葉だが」

「今日みたいな晴れたり降ったりを繰り返すような日のことですよ。天気雨を『狐の嫁入り』と言ってみたり、昔の人は狐と天気を結びつけて考えていたんですかねぇ」

「ふぅん……、マスターは物知りだなあ」


 寺岡は仕事第一の生活を送ってきたため仕事に関係しないような雑学的な話題には疎かった。

 しかし、マスターはその逆のようだ。店の片隅に置かれた背の高い本棚には様々なジャンルの本が並べられている。

 中には洋書もあるようで、寺岡はその一冊を手に取ってパラパラと捲る。


「英語……じゃなさそうだな」

「ドイツの本ですよ。『グリム童話』の初版本です」

「聞いたことがあるな。あれだろ、白雪姫だとかヘンゼルとグレーテルだとか」

「そうです。うちの姉がドイツへ旅行に行った時、記念にと出会った人から譲ってもらったものなんだそうですよ」


 何とかして読もうと頑張って辞書を引いたものです、とマスターは昔を懐かしむように目を細めた。


「隣に日本語版もありますし、お貸ししましょうか」


 寺岡と言葉を交わしながらもマスターは何やら手を動かし続けていた。

 寺岡は原書と和訳本をそれぞれ手に持って席へ戻った。


「何か作ってるのか?」

「えぇ。お昼時ですからね。食べていかれますよね?」


 マスターに言われてようやく時計の針が十二時を回っていることに気が付いた。

 時間を自覚すると途端に空腹感を覚え、それを裏付けるようにグゥと腹の虫が鳴いた。


「もう少しで出来上がりますから、それまで本をご覧になっててください」


 マスターに促され、和訳本とドイツ語の原書を交互に見比べながら文章をなぞる。


「……白雪姫ってこんな話だったか? 継母にけた靴を履かせるなんて……。昔のことだから記憶が定かじゃないが、こんな恐ろしい話じゃなかった記憶があるんだが」

「あぁ。『グリム童話』は版が進むごとに内容が少しずつ変えられているんですよ。うちにあるのは初版ですから、残酷な描写も多いはずです。

 さあ、お待たせしました」


 マスターは本を広げている寺岡を邪魔しないように隣の席に料理の乗ったトレーを置いた。

 食欲をそそる揚げ物の匂いと湯気を立てる白米。小皿にはたくあんが二枚と、蓋のついたお椀もある。


「B定食か!」


 頬を綻ばせ、いそいそと本を本棚へ戻すため席を立った寺岡は、一歩踏み出して動きを止めた。


「……なんで。なんでここで小万知こまち食堂のB定食が出てくるんだ」


 マスターに聞こえないくらい小さな声で呟き、息を飲んだ。

 小万知食堂は寺岡が勤めていた職場の斜め向かいにあった小さな食堂だ。しかも、寺岡が四十代後半に差し掛かった頃には閉店していたように記憶している。

 仕事がある日はほぼ毎日通っていたからパッと見ただけで反射的にB定食だとわかったが、どこかに店を移したとか誰かが店を継いだという話は聞いたことがない。


 本棚からカウンターへ向き直り、元の席に戻るまで寺岡の頭の中を疑問が駆け巡った。


 最初のアイスコーヒーはまだ偶然で済ませることもできる。マスターが話したように長年の経験がものを言ったのだろう。

 次にもらったポテトサラダ。あれもイモを潰して他の具材を混ぜこみながらマヨネーズで和えるという工程を考えれば似たようなものができないとも言いきれない。

 しかし、今回ばかりは。


 よく見慣れた茶碗に、食器を乗せているトレーも同じ。

 おかずの皿には山盛りのキャベツとそこにもたれ掛かるように立つアジフライとニセンチほどの幅に切られた豚カツ。

 これは小万知食堂の女将さんが肉と魚両方食べたいと言った客のために考案した特別メニューが定番化したものだ。

 そこに至るまでの流れは寺岡も目にしてきた。


 ソースは醤油差しに入れられ、同じトレーに乗っかっている。

 駄目押しに、割り箸の袋にはハッキリと「小万知食堂」の文字が印刷されていた。


「マスター……、あんた何者だ?」

「お気に召しませんでしたか? 寺岡さんなら喜んでくださると思ったのですが」


 マスターは相変わらず人懐っこい笑顔を浮かべている。

 その裏に何かがあるように思えてならなかった。


「そうだ。よく考えれば俺はあんたに名前なんて教えてない。まして、これまでどこで、どんな仕事をして、どんな店に行ったかなんて……」


 わなわなと肩を震わせ、B定食の乗ったトレーに視線を向けた。

 フライはまだ揚げたてらしくほんのり湯気が立っている。ところが、寺岡は油の音なんて聞いていないし店内に油の匂いもしない。

 このフライは一体どこから湧いて出たというのだろう?


「A定食をお作りしましょうか?」


 困ったように尋ねてきたマスターに寺岡は強く首を横へ振った。


「悪いが帰らせてもらうよ」


 先ほどまでのワクワクとした思いと食欲はどこかへ消え、リュックを右肩に引っ掛けて寺岡は店を出た。

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