第6話 十二月、初霜(下)

「お待たせ致しました」


 よいしょ、と身を乗り出したマスターが出してくれたのは、ラーメンと餃子とチャーハンのセットだった。


「これは……?」

「召し上がればきっとわかりますよ」


 マスターに促されるまま、寺岡はラーメンを一口すすった。

 昔ながらのシンプルな醬油ラーメンだ。素朴だがとても懐かしい、学生時代を思い出すような……。


来々軒らいらいけんのまかないセットか!」


 寺岡はポンと手を打った。

 来々軒は寺岡が高校生の頃にアルバイトをしていたラーメン屋だ。


 来々軒には近所でも評判の可愛らしい看板娘がいた。その看板娘を目当てで寺岡はアルバイトをしていた。

 下心だらけの寺岡に対しても店主は優しかった。気のいい人で、腹を空かせてアルバイトに来る寺岡に毎回このセットを用意してくれていたのだ。


 その店も十年ほど前に閉店してしまったので、もうこの味を口にすることはできないと思っていた。

 懐かしい味と匂いに誘われてあの頃の記憶が蘇ってくる。寺岡の目には自然と涙が滲んできた。


「そうだ。お義父とうさんの味だ……」


 縁あって寺岡は来々軒の看板娘と結婚した。それがどんなに幸運なことであったか、今の今まで失念していた。


 部活終わりの同級生たちもたびたび来々軒を訪れていたから、妻のことを知っていた。

 結婚を報告した時、彼らの驚きようといったらなかった。それなのに、今は……。


「俺は本当に馬鹿な男だなぁ」


 チャーハンをレンゲで掬って口へ運ぶ。鶏ガラの味が効いた、寺岡のための少し濃い味付けのチャーハン。

 これを作っていたのが妻だったと知ったのは結婚してからだった。


 学生の頃のような食欲がなくなったことを惜しいと思ったのはこれが初めてかもしれない。


 出されたセットをどうにか食べ切った寺岡は、ようやく一息ついた。

 風美鶏の店内で流れているレコードは、当時来々軒で流していたラジオからもよく聞こえていた洋楽の曲だった。


「この曲! なんてタイトルでどんなこと言ってるのかもわからないまま真似して歌ってたよ」


 半世紀も前のことなのに、つい昨日のことのように鮮やかに思い出せる。

 嬉々として思い出を語る寺岡につられたように、皺だらけの顔をさらに皺くちゃにしてマスターは相槌を打った。

 そして、ひとしきり思い出話を終えると寺岡はポツリと零した。


「マスター、本当に悪かった。小万知食堂の定食がそのまま出てきて気味悪いなんて思ってさ、手を付けずに帰ってしまって……」

「いいんですよ。あの後、少し反省したんです。誰だって急に記憶の中のものを目の前へポンと出されたら驚きますよね」


 困ったような、寂しそうな顔をするマスターを前にして寺岡は罪悪感に苛まれた。

 定年退職して以来、友と呼べる相手はいないと思っていた。しかし、こうして他愛もない話ができるマスターこそ、その相手なのではないだろうか。

 少し不思議なところがある友人。そう考えるとマスターに対して抱いている親近感にも合点がいく。


「店を閉めた後はどうするつもりなんだい?」


 寺岡が問い掛けると、マスターはゆっくりと首を横に振った。


「そのことはまだ……」

「……そうか。

 俺はなぁ、俺はきっと後悔してたんだろうなぁ。今までいくつも馴染みの店が閉まるとこを見てきた。そのたびにそこの店の人間がどうなったか気にしながらも誰に聞くこともできないで、時間だけがいたずらに過ぎてしまった。できればマスターとだけはそういう風になりたくないんだよ」


 切実な寺岡の訴えかけに、マスターは静かにうなだれた。


「わかりました。春先にでも、何かお伝えできることがあれば連絡します」


 それで満足でしょう? マスターの口調はそうとでも言いたげなものだった。

 なぜ急にそのような態度になったのかはわからない。きっと言いづらい事情があるのだろう。

 寺岡の妻との関係がそうであったように、誰にでも他人に話せない事情のひとつやふたつ必ずあるものだ。


「今月の……、第四土曜日だったな。どのくらいの時間に来ればいい?」

「そうですね、夕飯の頃はいかがでしょう?」

「ああ。わかったよ。

 その前にでも時間ができたら顔を見せに来るから。体には気を付けてな」


 寺岡は手帳とボールペンを取り出して第四土曜日の日付を赤丸でぐるぐると囲んだ。

「その日」が十二月二十四日だと気付きはしたが、それもただの偶然かもしれない。寺岡はコートを羽織ると風美鶏を出た。


 凍てつく風が頬を撫でる。その時、はらりと白い粒が空から落ちてきた。

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