第2話 八月、夕涼み
怪しげな喫茶店に出会ったあの日から間もなく二ヶ月が過ぎようとしていた。
季節は夏真っ盛り。
セミの鳴き声が体感的な温度を二割増しにしているような気がする。
ずいぶんと鳴き声が近いと思って見回してみると、網戸の端に止まって鳴いているではないか。網戸を指で弾くとセミは短く鳴いて逃げるように飛び去って行った。
うだるような暑さの中でアイスコーヒーを淹れようと戸棚に手を掛けた寺岡は小さく舌打ちをした。
数日前に豆を切らしていたのだ。
日に何杯もコーヒーを飲むほどのコーヒー中毒ではないが、一度飲みたい気分になるとどうにも落ち着かなくなる。
これまでは仕事の帰りに豆を買いに行っていたが、退職してからというものその習慣が崩れてしまっていた。
ちょうどその他の食料品も買い出しに出なければいけないタイミングだったこともあり、陽が落ちる夕方を狙って坂の下にある行きつけの店に買いに行こうと心に決めた。
スーパーでの買い物を終えて行きつけのコーヒー屋へ向かった寺岡はがっくりと肩を落とした。
店はシャッターが降り、そこには張り紙が一枚。
“誠に勝手ながらしばらく休業いたします”
いつ張り出されたものなのか、紙には雨染みができ、ところどころが破れていた。
この様子だといつ営業再開するかもわからない。かといって勝手のわからない店にふらりと立寄ろうと思えるほど寺岡のフットワークは軽くなかった。
「これだからおじさんは、って言われるんだろうなぁ」
自然と思い出されたのは丘を上がる途中にあった不思議な喫茶店のことだった。
前はいきなり好みを当てられて不気味に思ってしまったが、時間が経つほどマスターの人懐っこい笑顔の印象の方が強くなる。
どうせ帰り道の途中だし、あそこで豆を売ってもらうことにしよう。
額に浮いた汗をハンカチで拭って、寺岡は長い坂道を上り始めた。
二か月ぶりに入る喫茶店への脇道は、もはや雑草に覆われて判別もできないほどになっていた。
そんな状態でも寺岡は迷うことなく草を掻き分けながら歩いて行くことができた。
それはこの通りを通るたびに無意識のうちに喫茶店へ入る脇道に視線を向けていた証拠でもある。
だが、寺岡には気にかかることがあった。
「まさか、あそこも休業してたりしないだろうな……?」
外観を見た限りだと、あそこは住居にできる部屋があるようには見えなかった。
その上に誰かが通った様子もない荒れた道。客が入らないなら営業を続けることもないだろう。
嫌な予感がますます募る。
纏わりついてくるやぶ蚊を手で払いながら進んでいくが、羽音で手足に痒みを感じるような気がしてきた。
「……何ヶ所か刺されたかもしれないな」
買い物帰りに寄る場所ではなかったと後悔しながらも進み続けると、急に草むらが拓けた。
そこには以前と変わらない姿で「風美鶏」の建物があった。
寺岡は恐る恐るドアを引いてみる。すると、ドアはすんなりと開いた。
「いらっしゃいませ」
カランカランとベルが鳴り、マスターの明るい声が寺岡を出迎える。
変わらず営業していたのだ。
安堵しながら寺岡はカウンター席に着いた。
「あー、マスター。『いつもの』」
「お買い物帰りですか」
寺岡の持っていたスーパーのレジ袋に目を落としながらマスターが尋ねてきた。
「コーヒー豆を切らしたからついでに買いに出たんだがね、行きつけの所が臨時休業で……」
「それは災難でしたね」
「ここで出してるコーヒーがあるだろ? それの豆をいくらか売ってもらえないだろうか」
「ええ。もちろんですよ」
マスターはにっこりと微笑んで小さな紙袋に小分けになったコーヒー豆を何種類か取り出した。
「いつもの豆はこちらでしたね」
それぞれに貼られたラベルを確認して、そのうちの一つを寺岡に差し出した。
銘柄はずばり寺岡がいつも買っているものだった。
「一度お邪魔しただけなのに、よく覚えていられるね」
「見ての通り、お客さんも少ない店ですから……」
自虐的に笑うと、マスターは大きめのグラスを手に取った。
氷がグラスにぶつかる涼しげな音が響き、スティックシュガーが一つとコーヒーフレッシュが二個添えられたアイスコーヒーが差し出された。
夕方とはいえ空気はまだ熱を孕んでいる。
買い物に歩いて火照った体に冷たいコーヒーが染み渡った。
「そうそう。夕飯にと思って作ってみたんですが作りすぎましてね。もしよかったら貰っていただけませんか?」
そう言いながらマスターは冷蔵庫から円柱形のタッパーを二つ取り出した。
「ひとつあれば十分なので、味見して気に入っていただけたら持って帰ってください」
片方の蓋を開け、小鉢に丸く盛り付ける。
アイスクリームのような見た目だが、冷蔵庫から出てきたということは別のものだろう。
寺岡は手渡された割り箸を割って「それ」を口へ運ぶ。
ほのかな甘みとイモの香りが口の中へと広がった。
イモ以外の具材の入っていない、シンプルながら舌触りの滑らかなポテトサラダだった。
「ほう……」
思わず感嘆の声が漏れる。
そして、二口目を頬張った寺岡の脳裏に一人の女性の顔が浮かんだ。
「これはすごい偶然なんだが」
そう前置きしてぽつぽつと寺岡が語り始める。
「もう五年以上前になるか。週に二、三回通う居酒屋があってな。七十過ぎの婆さんが一人でやってる店なんだがそこのポテトサラダが絶品だったんだよ。どうやって作ってるのか何度聞いてもはぐらかされて、結局教えてもらえないまま店を閉めちまった。そこの味にそっくりだよ」
寺岡の話をうんうんと頷きながら聞いていたマスターはふふふと笑った。
「きっと、寺岡さんにレシピを教えたら奥様に同じように作るように言うんじゃないかって心配されて秘密になさってたんでしょうね」
「……ポテトサラダなんてイモを茹でて潰すだけだろ?」
「とんでもない」
マスターは大げさな身振りで寺岡の言葉を否定する。
「詳しい作り方はお教えできませんが、結構手間が掛かってるんですよ」
「そ、そうか……」
やや不満げながら、寺岡は引き下がった。
「教えてもらったところで作ってくれる家内はもういないんだけどな」
自嘲気味に言うと、寺岡は残っていたグラスの中身を一気に煽る。これが酒であれば格好もついたのだろうが、あいにく砂糖とフレッシュの入ったアイスコーヒーだ。
なんだか締まらない気分のまま尻のポケットで押し潰されていた財布を取り出す。
「いくらだい」
「六百五十円です」
マスターの返答を聞いて寺岡は眉をひそめた。
「それは豆だけの値段だろう?」
「あぁ、アイスコーヒーとポテトサラダはオマケですからお代は結構ですよ」
「あのなぁ……」
頑として譲らないマスターに渋い顔をする他なかった。 寺岡は千円札をカウンターに置くと釣りは受け取らずに店を出た。
薄闇に包まれた坂道を歩きながら、寺岡は二年前に出て行った妻のことを思い出していた。
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