「いつもの」 〜丘の街の不思議な喫茶店〜

牧田紗矢乃

第1話 六月、雨宿り

 雨が降り始めたのは、寺岡てらおかがバスを降りて歩き出したのとほとんど同じ頃だった。

 ポツポツと地面に落ちた雫がアスファルトにまだら模様を描く。それに伴って風が雨の匂いを運んできた。


 バスは百メートルほど先のY字路を左に曲がり、住宅地へ吸い込まれるように姿を消した。

 寺岡の家はY字路の右側にある長い上り坂の先にある高台の一角だ。バス停から歩くと十五分はかかる。

 それまでの間に降りが強くならなければいいのだが。そんなことを考えながら寺岡は急ぎ足で坂を上った。


「今日で最後だって言うのに、つくづくツイてないな」


 息があがって歩を緩めた寺岡は愚痴を零す。その横を頭上にカバンを掲げた高校生が駆け抜けていった。

 高校生の後ろ姿を見送った寺岡は、持っていたビジネスバッグを頭上に持ち上げた。つられて真似してみたものの、到底雨よけにはなりそうもない。


 若い学生がやるならまだしも、おじさんがやると随分と滑稽な格好だ。

 次第に強くなる雨足に走り出そうとしたが、足は既に鉛の棒のようになっていた。




 定年を迎えた寺岡は今日が退職の日だった。

 職場では花束をもらい、同僚や部下から感謝の言葉も向けられた。けれど、それだけだ。

 家に帰れば普段と変わらない一人きりの生活が待っている。そのことが尚更に寺岡の足を重くした。


 坂はやっと三分の二まで上ったかというところ。

 びしょ濡れになったスーツは重く体にまとわりついている。

 お祝いの花束は新婚の後輩に引き取ってもらって正解だったようだ。


 ゼーゼーと肩で息をしながら足を止めると、右手側の腰ほどの高さがある草の中に小さな看板があるのが目に入った。

「喫茶」という文字は辛うじて読めるが、その先は滲んでいてよくわからない。


「こんな所に喫茶店なんてあったか?」


 毎日朝と晩に通っているというのに、寺岡はその存在を今の今まで知らなかった。

 しかし、よく見ると看板の先には車一台がやっと通れるかどうかという細い砂利道が奥の方へと続いていた。


 次第に強さを増す雨は、すでに土砂降りと言って遜色ない激しさになっている。

 家まではあと五分ほどだろうが、周囲はアスファルトに当たって跳ね返された雨粒で白く煙っていた。

 時折すれ違う車も視界が利きにくいらしく、寺岡のすぐそばまで迫ってようやく慌てたようにハンドルを切って避けていくようなありさまだ。


「……休憩させてもらうか」


 身の安全を考えて寺岡は砂利道へ足を踏み込んだ。

 看板の朽ち具合から見るに営業していない可能性が高い。それでも、建物が残っていれば軒先で雨宿りするくらいはできるだろう。


 水溜りを避けながら砂利道を進むと、白い壁に赤い三角屋根の建物が現れた。

 入り口のところには小さな屋根が張り出しており、両脇には寺岡の胸くらいの高さの壁もある。

 その一メートル四方くらいの空間は、雨除けにはもってこいの場所だった。


 カバンに入っていたハンカチを取り出して濡れてしまった眼鏡のレンズを拭く。髪や服の袖からも水がぽたぽたと滴り落ち、寺岡の足元には小さな水たまりができた。

 一息ついて余裕ができた寺岡は、喫茶店の入り口に視線を向けた。

 ドアの上の外壁に直接「風美鶏」と書かれている。これが店名のようだ。


「かざ……み、どり、か?」


 寺岡がその文字とにらめっこしていると、内側からドアが開かれた。


「いらっしゃいませ。酷い雨ですね。どうぞ、中で雨宿りしていってください」


 人がいるなど思いもしなかった寺岡は心臓が止まりそうなほど驚いた。

 現れたのは寺岡より十ほど若く見える細身の男だった。


 ほとんど白髪の髪を後ろへ撫で付け、上はYシャツに黒いベスト、腰にはエプロンを巻いている。

 この店のマスターだろうか。


 人の良さそうなマスターは足元に置かれていた寺岡のビジネスバッグを手に取ると、「遠慮なさらず」と笑顔で促しながら店の中へ入る。

 寺岡は警戒しつつもその後に続いた。

 店内にはゆったりとしたジャズが流れ、コーヒーの香りが鼻腔をくすぐる。静かで落ち着ける、まさに昔ながらの喫茶店といった雰囲気の心地よい空間だ。


 マスターはハンガーとタオルを持ってきて、ずぶ濡れになった寺岡にジャケットを脱ぐよう勧めた。

 その気遣いに礼を言い、全身を拭いた寺岡はカウンターの席に着いた。


「それにしても難儀でしたね。これだけ濡れたらクリーニングにも出さないといけないですし……」

「いや、その心配はないよ。今日で定年退職だから」


 自嘲気味に返した寺岡の前に、ほのかに湯気が立ち昇るコーヒーカップが差し出される。

 そこにはスティックシュガーが一つとコーヒーフレッシュが二個添えられていた。


「どうぞ、『いつもの』です」


 寺岡はドキリとした。

 出先ではブラックコーヒーばかり飲んでいる寺岡だが、自宅で淹れるのはこれと同じ砂糖一杯とコーヒーフレッシュ二個のコーヒーだったからだ。

 自分の子供たちでも知っているか怪しいことを、なぜ初対面のこの男が知っているのだろう。


 寺岡は気味が悪くなった。

 そんな寺岡の心情を見透かしたようにマスターは不敵に笑う。


「そんなに警戒しないでください。職業柄、お客さんの顔を見たらなんとなく『こういうのが好きそうだな』っていうのがわかるんですよ」


 なるほど。長年こういう場所で働いているとそういう勘が強くなるのか。

 寺岡は感嘆して小さく唸る。


「……し、しかし。こういうものは女子供が飲むものだろう」


 コーヒーフレッシュがマーブル模様を描くのを見つめながら、罰が悪そうに小さく声を漏らした。

 それを聞いたマスターは静かに首を横へ振った。


「そうやって先入観で善悪を決めようとするからおじさんは若い子に嫌われるんですよ」


 マスターの言葉で寺岡は苦い顔になった。

 随分と痛いところを突いてくれるものだ。


「私も人のことを言えた義理じゃないんですがね」


 小さく肩をすくめてぼやく姿に親近感が湧く。

 その後、寺岡は雨が止むまでマスターと話し続けた。

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