マリウスの幕話1


随分長く眠った感覚だ。程よく身体が痺れている。

これほど気持ちよく寝れたのは久々だった。


沈む瞼をぎりぎりのところで踏みとどまらせ、起き上がろうとする。

しかし、自分の上に堆積物が乗っており、圧が掛かって思うようには動けなかった。

股間の湿り気と窮屈さを強要される居心地の悪さに、不快感を覚える。今すぐここから出たい。


身体が節々が痒い。風呂に入ったのはどれぐらい前だったか。

まて、ここはどこだ?俺の住んでる場所ではないのか?


自分の記憶を探ってもここが何処なのか分からなかった。

中々動かない手足を無理やり動かすとガシャガシャと何かが列をなして崩れる音が鳴った。自分の胸元を見ると、木材の廃棄が敷かれている。


堪らず軽く咳き込むと、口の中に何かがグネグネと動き回る感触がする。

それは、毛のような生温かさがあり、舌が触れるたびにビクビク反応する。


「ブハッ!」


振舞いも尊厳も捨て、吐き出すように口に入ってるものを外に出した。それが何かを理解する前に、自分の口から飛び出てきたものを見て絶句してしまう。

カサカサと黒い甲虫が驚いて住所から去っていく。人間の温度を利用して巣を作っていたのだ。身体中の鳥肌が立ち、嫌悪感と共に寒気が走る。

吐いた勢いで、頭や腕にいた甲虫も一目散に散っていった。


「なんだ、クソ。」


俺は悪態をつくも、腐敗臭が漂うこの場にいるという状況は何一つ変わらない。

夢であってもこの記憶は抹消したい。

早くこの場から離れたいという一心で俺は、自分の上に積み重なっている瓦礫とゴミの類を掻き分けて這いずり出る。

この身体はどうなっている。魔術を行使しようにも全然応えてくれない上に、非力な腕と筋肉ではないか。


目の前に塞がるゴミを退かすことで、手を傷つけてしまい、久しく感じる痛みに顔を顰める。ふとその時、違和感を感じ、作業を止め掌を見つめる。

自分の手が白き美しい肌ではなく、賤民共と同じオレンジに薄みが掛かった黄色なのだ。そんな嘘だ。馬鹿な、これは現実な筈ではない。そう思って、幾ら目を瞑っても一向に夢が覚める気配はなかった。

これが何を意味しているのか、それを理解し始めている自分が憎たらしいとさえ感じ始めていた。


軽い動悸と吐き気をを抑えながら、風が通る方へ手を動かし続けると、開けた場所に出た。

貧民街のゴミ溜め場に似ており、悪臭が酷くやたら寒さを感じる。

自分の身体を見ると、ボロボロの布切れ一枚しか纏っていない。服と呼べる代物ではなかった。他者と比べたら惨めな人生を歩んでいると思っていたが、さらに惨めな格好になるとは。


腐った山を抜け出し、ゴミの上をトボトボと歩く。太陽の光に照らされキラリと光る破片が地面に散らばっている。普段なら踏みつけても何とも思わないこれが恐怖を俺に与えてくる。


裸足でこれ以上進むのは危ないと思ったが、息を飲んで歩みを進めた。

腕から伝う血が風に刺激されて、締め付けられるような痛みを感じる。

俺は一体何をしているんだ。何故こんな目に合っている。

自分の行動に自問自答をし、空腹と喉の渇きを逸らしながら、俺は歩き続けた。

しばらく歩いていると、割れていない小さな手鏡が転がっていた。


それを拾い上げ、自分の姿を映すと愕然とした。真っ黒な髪と瞳、痩せこけた頬に波打った鼻、浅い目元、乾燥した唇と、卑しき民族の顔立ちがそこにはあった。

目を大きく開くと鏡もそれに呼応して大きくなる。こいつは誰なのだ。俺は、俺の顔はどうなっている。


「ハァハァ。うぉえ。」


尽きない疑問に、動悸が酷くなり、俺はその場で膝をつく。荒くなる呼吸を整えようと深呼吸をするが、上手くいかない。息が詰まり意識が薄れていく。胸に圧迫される痛みは増していくばかりだ。

苦しい。誰か助けてくれ。死ぬのか俺はここで。

そう思った瞬間、頭に何かが流れた。


「ねえ、キモイからあっち行ってくんない?」


俺を蔑む女の声が聞こえた。脂汗が満遍なく額にこびりついた顔を後ろに向けると、俺と同じ黒髪の少女が立っているではないか。

服は自分ほど汚く、異臭を放つものではないが、ボロボロなのは変わりなかった。

突然の事に驚き、言葉を発することも出来ず、ただ呆気に取られてしまう。

少女は見つめられていることに気付くと、露骨に不快そうな表情を浮かべる。


「うわ、くさ。」


少女は自分の鼻を小さく摘まみ、上擦った声で呟いた。

惚ける俺に眉をひそめて、彼女は指をさして要求を突き付けた。


「その鏡、いらないなら寄越して。」


平民以下の女に指図されるのはとても癪でイラツキを覚えたが、渡すことにした。自分はすでに目の相手をどうこうする力を持っておらず、とにかく今は誰とも関わりたくない気持ちが強かったからだ。

ゆっくりとゴミ山から立ち上がると不思議なことに過呼吸が治っていた。話しかけられたことで、冷静になれたらしい。


「ん。どうも。」


目的の物を渡すと、お礼が返ってくる。

目の窪みが深い少女が初めて笑みを見せてくれた。目のクマが何故だか俺と似てる気がしていて調子が崩れる。

普段の俺ならここで嫌味の一つや二つは言っていたが、この時ばかりは何も言う気になれなかった。


「おい。」


わざわざ自分から立ち去ろうとしてやったというのに、このアマは俺の腕を掴みやがった。

何の用だと振り返ると、奴は自分の着ている布切れの一部を千切って、こちらに差し出してくる。意味が分からず惚けていると、痺れを切らして、無理やり俺の胸へと押し付けてきた。

目の前の少女は早くしろと言わんばかりの目つきで睨み続ける。ほんとなんなんだ。


「怪我してるでしょ。私の家はあっちだから。」


彼女は、南西の方角を指し示す。俺が埋もれていた向こう側から来たらしい。

あぁと俺が生返事をすると、少女は舌打ちし、俺の腕を引っ張っていく。


「お、おい。」


抗議の声を上げるが、少女は止まらない。


「一緒に来なさい。消毒ぐらいはしてあげるから。貴方もアスカ人でしょ。よしみで助けてあげるんだから感謝しなさいね。」


俺は引き摺られる形で、少女の後に続く。

暫く黙ったまま歩き続けていたが、少女の方から唐突に声をかけてきた。


「そうだ。私ユキ。あなた名前なんていうの?」


独特な美しさを醸し出す黒髪を揺らしながら、彼女が訊いてきた。一瞬躊躇してしまう自分に驚く。


「俺は。」


お節介な少女が一緒にいるのも相まってか、目に映る巻雲は、晴れた空をより青く染めていた。

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