震えるほどアットホームな職場



 差し入れのコーヒーはすっかり冷め、朝食のビスケットはすでになくなっていた。このフロアに聞こえるのは、筆を走らせる音、ため息と舌打ち、貧乏ゆすりなどレパートリーに富んでいる。

 彼等の管理者である保安官は一向に現れず、職場には不満が更に募っていった。


「あの、これもお願いします。」


 身体を前に少し倒し、それでいて腰を丁寧に低く、足を閉じながらピップはイシュメールへ追加の未決書類を持ってきた。

 一度引き受けてしまえばその次に頼み込むのがとても容易に思えてしまうのは人間心理の厄介なところだ。イシュメールは、目元を何一つ動かさず、署名欄に判子とサインを入れた。


「スタッブとスターバック、フラスクはまだか?もう昼前だぞ。」


 腕時計を睨んだイシュメールはピップへ問いかける。彼自身もこの後に仕事が詰まっており、声がピップ以外にも響き渡っていた。


「わ、わからないです。」


 不機嫌さを表すイシュメールに、ピップは目をあちらこちらへと動かし、覇気のない声で返してしまう。全く聞き取れなかったので、イシュメールは身体を前に出した。しかし、それは逆効果に発揮されてしまった。

 眉間の皺をさらに寄せた凄んだ顔が近くなったせいで、ピップは涙目となる。


「おい、もう一回言え。」


 彼にとっては、何の悪意もない同じ質問のつもりであったが、相手には違う意味として届いてしまった。お前自分の仕事も満足にできないのかである。

 ピップはすっかり怯え切えてしまい、震える口びるを早く動かした。


「分からないです。すいません、すいません。」


 ピップは頭を下げ謝罪を繰り返す。目の前の猛獣から早く逃げ出したい恐怖心でいっぱいだった。イシュメールは苛立ちを募らせ側頭部を抑える。欲しかったのは、現状に対する回答であり、謝ってほしいわけではなかったからだ。


 とても頼りなさげにピップはすいませんと再度太い唇を揺らす。イシュメールは、これ以上彼を詰問したところで意味がないのだと悟り、呆れてものも言えなくなってしまった。一連の流れを見たアリスは、ピップへ助け舟を出す。彼女は静かに手を合わせて歩み寄り、眼光はイシュメールを捉えていた。


「あ、じゃあ。私が探してくるわ。」


 渡された書類にサインを入れながらイシュメールは、一瞥もせず答えた。せっかくの好意を無駄にしがちである。


「いい、俺が行く。お前じゃ無理だ。」


 立ち上がると同時に帽子を被り、イシュメールはデスクを片付け始めた。

 ピップは何も言えず口をあんぐりと開けている。出て行こうとするイシュメールにアリスは無駄な呼び止めを行った。


「どこ行くの?」


 デスクの引き出しから、銀色に光る星形のバッチを彼は取り出し、それを左胸のポケットへと付けた。保安官のバッチである。所作業を続けながら答えた。


「酒場だ。」


 警棒や弾などを収納できるホルスターをベルトに装着すると、自動拳銃の点検を行う。帝国軍の愛用品である拳銃は、引き金の前に弾倉が付いており、開いた排莢口にクリップを押し込む形で弾を装填するのだ。イシュメールは、ハンマー部をカシャカシャと引き延ばして正常に動作しているか確かめると、腰の後ろ側に銃を回し込んだ。

身支度をしている中、イシュメールはアリスへ一つ頼みごとをした。


「クイークが来たら外出中だと伝えてくれ。」


 その言葉を聞き、アリスはため息をつきながら彼の背中を見送った。

 ピップは口を開けたまま苦笑いし、アリスへ申し訳なさそうに顔を伺う。自身の上長達が迷惑かけてすまないと心の中で謝っていた。


「その顔やめて。」


「すいません。」


 アリスは、変顔をするピップに対し、冷たく言い放った。ピップもすぐに顔を下に向け、申し訳なさそうに返事をする。これ以上は暴発寸前だと感じたピップはそろりそろりと自席に戻っていった。


 イシュメールが保安局を出たすぐ後のことだった。入れ違いになる形で、浅黒い陽気な男クイークが無遠慮に他部署へ入ってきた。ヨレヨレのシャツを見て、アリスの顔はますます冷たくなる。


「イシュ、飯食いに行こうぜ。」

 

 アリスはクイークの無駄に元気な笑顔に眉根一つも動かさず書類に筆を走らせる。ここの空気感を少しぐらいは察して欲しい。気楽な捜査局員に何人かの保安官代理人は殺意を抱いた。


「あれ、いなくね?」


 首をかしげてキョロキョロと周りを見渡すクイークに、アリスは舌打ちする。


「お、おう。なんだよ、アリスさんよ。イシュメールどこ行ったんだ?」


 不機嫌な彼女に気づいたクイークは、アリスへ質問を投げた。ピップは気が気ではなくチラチラと見てしまう、先ほどの態度とは打って変わり、下手に出た対応だ。アリスは、何も言わずひとさし指で廊下を示した。


「それじゃ分かんねえって。」

 

「さぁ。」


 冷気を与えるような低い声が法執行部へ響く。アリスは、クイークと目を合わせず黙々と仕事を続けた。これ以上話しかけたら許さんという気迫さだ。


「おう。」


 理由は分からないがクイークもさすがにこれ以上怒らせるとまずいと判断し、静かに捜査局へと戻っていった。今日は何かと誰かしらに怒りを買うクイークであった。


 イシュメールのいない部屋に、アリスは再度大きく深呼吸した。




■■■


お読よみいただきありがとうございました。


もし面白いと思ったら、

★評価とフォローをお願いします。

執筆スピードが上がります。


また、誤字脱字の指摘、アドバイス等ありましたら大歓迎です。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る