朽ちる夜、君の瞳に薄明が芽吹く 後篇
幼稚園の年中だった。他人の気持ちが分からないと気が付いたのは。
けど、意味が分からなかった。
人付き合いが苦手だった。
それだけじゃない。
頭が悪かった。
好きな男の子にブスと言われた。
顔が悪かった。
運動会でいつも足を引っ張っていた。
運動が苦手だった。
ダメなところや苦手なところはとても多かった。
だけど、母親が自分に優しくしてくれた。普通であればいいと言ってくれた。
だから、努力した。せめて普通であればと。
努力だけは少しだけ苦手ではなかった。
「大丈夫だと思っていたのに」
夜が訪れた。
星々が
「どういう……状況なの」
窓辺のベッドに横たわる佳月は己の現状に戸惑う。
両手両足を失い、全身の肉が腐り、首あたりは骨になっていた。どうみても、死へと向かっているような状況だった。
「私はリッチ、不死者なんでしょ? どうして……」
アウローラは悲しそうに目を伏せる。
自らに言い聞かせるように淡々と言う。
「不死者よ。だけど、肉体を失って朦朧とした意識のまま宙を漂うことはあるのよ」
「肉体を、失う……」
まるで今の自分のようではないか。肉が腐り、骨が崩れて、消えていく。
朽ちていく佳月。
「わたしたちリッチは、いえ、リッチだけではないわ。
「精神で?」
「そう。だから、生きたいっていう活力がないとだめなのよ。その精神を収める器、肉体を維持できなくなる」
「……へぇ」
なら、自分の肉体は朽ちて当然だろう。もともと生きる意味さえ分からず、あの缶ビールが積み重なった部屋で
佳月はどうでもよさそうな表情をする。
淡々と事実を語っていたアウローラが両目を吊り上げる。
我慢はもう、無理だった。
「どうしてよ! 生きたいって願望がなかったら、そもそもリッチになってもきみは目覚めなかったし、目覚めたとしても数日で朽ちていたのよ! しかも、特別な力だって発現した。あれは、己の願望そのもの。生きる支えのはずなのよ!」
「……なに、怒ってるの?」
「怒っているにきまってるじゃない!」
アウローラは叫んだ。
佳月は力なく微笑む。腐った頬の肉がぐじゅりと音を立てて、ベッドに落ちた。骨が見える。
「私はあなたの気まぐれ。できなかったゲームを消化するための遊び相手でしょ?」
「ッ!」
アウローラは佳月のそのはかない表情を見て息を飲んだ。
そしてまた、「ああ」とうなだれた。
理解してしまった。無理だと。
今の佳月はすでに生きる活力がないどころか、そもそも
経験で知っている。もう、無理だと。
朝が来る頃にはもう佳月は朽ちてしまうのだと。
蒼が煌めく東雲色の瞳から雫をこぼしたアウローラは、けれどそれでもキッと顔を上げた。
結局、アウローラは負けず嫌いなのだ。悪あがきをするのだ。
アウローラは佳月の骨となった片方の頬を慈しむ様に触る。
エルダーリッチとして使える力の一つで、佳月のとても心残りを探し当てる。小さくてもいい。それさえあれば。
「ッ」
とても小さかったけど、一つだけあった。
「ねぇ。後悔はないのかしら? 仮死状態になれば、よほどのことがないと目覚めない。目覚めるとしても数百年後。今の時代でやり残したことはないの?」
懇願するような声音に佳月は微笑む。
「ない、よ。なんか、もう、どうでもよくなったし」
「本当に何もないのかしら? 謝りたい相手は?」
「………………いるかも?」
「ッ!」
諦観を浮かべていた佳月の儚い表情が、わずかばかり揺らいだ。
もうこれしかない、とアウローラは祈るように尋ねる。
「誰っ?」
「……母さん」
「お母さまっ? お母さまに謝りたいのかしら!?」
アウローラは強く願う。
どうか、ここで頷いてくれと。そうすれば、佳月が母親に謝るまでは生きる理由ができる。
肉体を取り戻す。
「……やっぱり、いいや。無理」
「ぇ」
けれど佳月は目を細めた。
「どうせ私は死んだ身だし、それに母さんに合わせる顔がない。合わない方がいいや」
「……そう」
今度こそ、手が尽きた。
アウローラはうなだれ、そして受け入れた。どうしようもないのだと。
だから、アウローラは佳月の胸に触れ、問いかける。
「お願い。最期にきみを教えてちょうだい。覚えておきたいの。わたしの遊び相手を。その人生を」
「……いいよ。つまらないけど、過去話程度なら」
いつの間にか全てが骨となった佳月はあまりに儚く美しく微笑んだアウローラを見て、あるはずのない眉を上げた。
静かに頷く。
そして佳月は話し出した。
ダメな自分を。
母親が好きだったから、普通だと思って欲しかったから頑張ったことを。
人の気持ちはわからないから、何度も失敗して、傷ついて、そのたびに経験を積み重ねて。パターンを学んで。
頭が悪かったから、頭がいい人に尋ねて。寝る間も惜しんで勉強して。
顔が悪かったから、それでもいじめられない程度にできる限りケアなどをして。顔が普通だったり、いい人の引き立て役となって。せめて普通の仲間に入れてもらうようにして。
頑張って、頑張って、頑張ってきた。耐えてきた。
ちょっとしたやりたいことも見つかって、そのために大学にも行って。
だけど、普通なら行くであろうと思い行った成人式で、どうしようもなく成長している
頑張り続け疲弊していた心がついに悲鳴を上げて。
酒に逃げて、部屋に閉じこもって、母親を傷つけて。
取り留めなく佳月は話した。
話しているうちに、胸の骨も朽ちて残りが首だけとなってしまった。
それでも話すことはできた。
「どうしようもないよ……覚えている価値なんて本当にないよ」
「そんなことはないわ……本当にそんなことはないのよ」
自己嫌悪に満ち溢れた佳月の言葉に、アウローラは首を横に振る。
骨となった顔を撫でながら、雫を垂らす。
最も暗い時間とされる夜明け前。
もう、それも終わり。時間はなかった。
「泣いてる……」
「当たり前よ。半年も一緒に過ごしたきみと会えなくなるのよ。寂しいわよ。寂しいに、決まってるじゃない」
アウローラは佳月の首を持ち上げ、壊さないように優しく抱きしめた。
そうして数分か、もしくは数秒か。アウローラは黙ったまま佳月を抱きしめ続けた。
そして夜が朽ち、窓から見える空の果てが東雲色に輝き始める。
暗く澄んだ蒼が煌めき、徐々に橙色が掛かる
それに気が付いたアウローラは抱きしめていた佳月の顔を持ち上げた。
「ねぇ、佳月」
「どう……した……の?」
アウローラは、蛍の光のごとく掠れた声音で問い返す佳月の瞳の奥底を見つめた。
その奥底は夜のごとく闇色に染まっていた。
もう、東雲色の瞳はなかった。
それを見たアウローラは涙を拭い、困ったように、けれど祈るように微笑んだ。
「ありがとう」
アウローラと向かい合う佳月は窓の外の空は見えなかった。
けれど、確信した。
アウローラの蒼が煌めく橙色が掛かる淡紅色が、その東雲色の瞳こそが、今の空なのだと。
薄明に染まる空なのだと。
――グォォー!!
そして同時に家である化け物が朝の気配に目覚め、移動を始める。
窓から、風が入ってきた。
「あ」
部屋に散らばっていたそれが、アウローラばかり映っている数々の写真が風に舞う。
朝日の照らされ美しく微笑むアウローラの周りを舞い散った。
綺麗だった。
カメラが宙に現れベッドに落ちた。
瞳の奥底。
夜が朽ち、薄明が芽吹いた。
パシャリ。
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朽ちる夜、君の瞳に薄明が芽吹く イノナかノかワズ @1833453
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