第26話 高鳴り3
彼は、憐を乗せてドライブをした。有明から豊洲方面へ曲がり、勝どきから銀座へ。そのまま有楽町を抜け、内堀通りへ。そして、国道1号線に乗った。
「憐って『月』のサビまで聴いたの?」
彼は夕食の話の続きをした。
「ううん。聴いてないよ。あれイントロで終わっちゃったから」
そうなのかと思った彼は、憐に『月』を聴いてもらおうと思った。車のCDデッキに手を伸ばすと再生ボタンを押した。すると意図したものと違い『アネモネ』が流れ始めた。
アネモネ(Anemone) By Westball Family Band
(注:作詞作曲を著者が行なっております。ネットでバンド名と曲名を検索いただければ、音楽も同時にお楽しみいただけます。詳しくは 「崩壊」 参照)
大好きな あなたのことを
忘れることに しました
気がつけば 青春はすべて
溢れるくらい あなたでした
どっちを向いても あなたに続く道
わざと外れてみても あなたへの道でした
「ぇっひっ……。うっ……」
憐は急に泣き出した。
「ごめんね。最近涙もろくて……」
憐の答えに、彼は窓の外を見ていた。彼の目にも涙が溜まっていた。口を開くと涙も出てしまいそうで、彼は答えられなかった。静かな車内で、彼らは過去を悲しんでいた。戻せない時間と、過ぎた年月を。
僕は憐が、あのメールを読んでくれていたのだと思った。2009年10月、彼が音楽から身を引く前に送ったメールを。それに添付されていたMP3ファイルを。
同時に、憐は待っていたのではないかとも。彼がいなくなってからずっと、彼が迎えに来ることを……。
「憐。東京タワーを見に行こうか」
彼は憐と東京タワーが見たかった。あの日、海ほたるから探した東京タワー。車は国道1号線を左折し、東京タワー通りに入った。
「わあ! きれい!」
憐が声をあげた。
彼は車を停めた。車内に座ったまま見上げる東京タワー。それはオープンカーの特権だった。
「智博。月と東京タワーが重なってすごい。本当にきれい」
「憐のLINEのアイコンの月って、琉音ちゃんのことだったんだね。やっと分かった」
「ご名答! さすが智博。あんまり気づかれないんだよ?」
憐は、東京タワーと月の写真を撮っていた。
「今日はきっとそういう日だったんだね。月の導き。私、そう思うんだ。琉音の偶然と、
『月』の偶然と、満月の偶然」
「うん」
彼は、憐の言葉に頷いた。そして2人はしばらくの間、東京タワーに重なる満月を見上げていた。
「憐の車、ワールドポーターズの駐車場って何時までだっけ?」
「1時までには出さないと」
「ならそろそろ行こうか」
時刻は22時50分を回っていた。車はまた1号線へと戻っていた。
「憐。後ろ見てごらん。ここも東京タワーがきれいに見えるスポットなんだよ」
憐は振り向いた。
「わあー! 本当だ! 道の真ん中に、ビルに挟まれた東京タワーが立ってる!」
慶應義塾大学の角を曲がるまで、憐は見惚れていた。
彼は高速道路を使わず、一般道をのんびりと走った。憐との時間を惜しむように。見慣れた1号線も、今夜だけは違って見えた。そして東神奈川を抜けると、車はみなとみらいに入った。
「憐。あと1時間くらいあるから、30分だけみなとみらいをドライブしてもいい?」
「うん」
彼も、憐も、少し寂しそうだった。彼らは走りながら過去を旅した。お互いに少しずつ記憶を繙きながら。
「憐とみなとみらいにもよく来たよね」
彼がいうと、
「たくさん来たね。ロイヤルパークホテルにも泊まったし。ここは智博との想い出の宝庫かも……」
憐は少し寂しそうだった。
「山下公園で写真撮ったの覚えてる? うちのお袋と憐のお母さんと4人で。あの時の憐の服装、好きだったんだー」
「どんなの着てたっけ?」
「なんか、シュッとした大人の色気。途中から憐、古着に行っちゃったからさ」
「あったね。私、古着にはまってたね」
彼は古着の憐より、大人っぽい憐の方が好きだった。でも、厚木や福生と、彼は憐と古着店を巡った。
「ワールドポーターズにも何度も来たよ。俺、記念ポストカードかなんか貰った記憶があるもん」
「あ、それ覚えてるかも。入り口で配ってたやつでしょ?」
憐が答えた。
「智博、クイーンズのカフェで話したよね。覚えてる?」
思えば、彼らはオーストラリアでの出来事を全く話さなかった。一言も。憐のこの言葉が、唯一オーストラリアにつながるものだった。
山下公園を抜け、やがて赤レンガ倉庫が見えてくると、彼らは黙った。ワールドポーターズに差し掛かっていた。
彼の脳裏に『月』が流れた。終わりゆくドライブとともに。
ワールドポーターズに着き、彼は車を停めた。空気は一段とひんやりしていた。
「憐、着いちゃった」
「うん。着いちゃったね」
「憐。俺、すごい嬉しかったよ。憐とまた会えて」
「私も。ありがとう。ご馳走までしてもらって」
彼らは離れたくない気持ちを押し殺しながら、社交辞令を交わしているように見えた。そして、彼は憐を駐車場のエレベーターまで送った。
「智博。ありがとう。こんなに素敵な夜を」
誰もいない静かな駐車場は、無機質だった。2人は向き合っていた。
「うん。俺も憐に会えてよかった」
すると、憐は、恥ずかしそうにうつむいた。そして小さな声で言った。
「智博も変わってなかったよ。ありがとう。変わらず、素朴な、優しい人」
その瞬間、彼は彼女を抱き締めていた。沈みゆく、物悲しくもきれいな夕陽。窓から差し込むリズモアの寮で、憐がくれた言葉だった。
「いつかオーストラリアに行きたいね。私、あそこからまたやり直したい」
「うん」
そう答えると、涙ぐむ憐の頭に優しくキスをした。
「ああ。憐の髪の匂いがする。憐の匂い」
彼の心が、憐で満たされていくのが分かった。それは代替のない世界。周りのことも、世界のことも、過去も未来も、何もかもが近づけない世界。世界中の、いや、宇宙のすべての星がぶつかってきても、傷ひとつつけることのできない、完璧な世界。
「ああ……。憐がいて僕がいるこの世界。そうか……。憐がいるから僕はいるんだ」
1999年の、成田空港での再会。あの日と同じだった。彼の心から、憐への感情があふれていた。失い、求め、悔やみ続けた日々。真っ暗だった世界から、やっと解き放たれるように。
夢から覚めた僕は、朝食の時に聞いた話を思い出していた。憐に会いたくて、リビングへと走った。部屋には『蒼い星』のテープが、音もないままに回っていた。
その夜、僕はベッドで憐を抱きしめた。憐を離したくなかった。夢の世界の2人のことを思い出すと、涙がこぼれそうになった。
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