第25話 高鳴り2

 そこから今日で6カ月、12月29日火曜日の9時30分。


「おはよう。すっかり季節が変わってしまって、もう年の瀬だね。元気にしてる? なかなか調整がつかないまま、日が過ぎてしまって……。急なんだけど、今夜時間ができて、会えるかな? と思い……。ごめんね、急だよね……。予定あるよね?」


 憐からの誘いを受けた彼は目を疑った。彼は半ば諦めていたから。それはちょうど朝の9時半だった。


「おはよう! 今夜大丈夫だよ!」


 彼は返事をした。すると、すぐにLINEが返ってきた。


「本当に? 急なのにありがとう。夕方、5時半頃から大丈夫ですか? 横浜とかでも平気?」

「了解! オッケーだよ!」

「ワールドポーターズで待ち合わせとかどうかな?」

「オッケー! ワールドポーターズの前に路駐して待ってるよ」

「うん。ありがとう。何年ぶりかな。あまりのおばちゃんぶりに引かないでね」


 彼らはそう約束をした。


 彼も僕も憐に会える喜びに震えた。世界がパッと明るくなったような、久しぶりに感じる感覚。胸の高鳴りは、彼の全身へと響いた。


 封印していた憐の顔が思い出される。会いたかった感情があふれてくる。忘れる自由、失う自由。今、彼の目の前には閉じたはずの扉があり、そのノブに手をかけているのだ。


「この扉の向こうには、憐がいる」


 開けたくて探した日々、忘れようと遠ざかった日々。壁一枚を挟んだ向こうの世界には憐がいる。想像ではない、本物の憐が。


 冬のまたたく星に太陽は追い出され、気づけば月が彼を待っていた。緊張しながら駐車場へと向かい、オープンカーに乗り込む。そしてヘッドライトが照らす道を、思い出が詰まるみなとみらいへと走り出した。


「憐。着いたけど、どの辺にいる?」

「正面にいるよ?」

「正面って階段?」

「桜木町に続く2階の歩道橋があるところ。その下あたりにいるよ? どんな車?」


 彼らはそんなやりとりをしながら、お互いを探した。彼は車から降りて、歩道へ向かおうと振り返った。その視界の中に、壁の前でスマホを覗き込む姿が入った。とてもゆっくりと、それはスローモーションだった。


 息を呑んだ彼は、言葉もないまま歩き出した。彼女も顔を上げ、こちらを見た。


 憐だった。


「憐。久しぶり。もしかしたらって思ったら、やっぱり」

「智博。久しぶり。すごい緊張する。変わりすぎてて、見つけてもらえなかったらどうしようって思ってた……」 


 憐は何も変わっていなかった。それは、若い頃と少しも変わらない憐。僕が元の世界で毎日会う憐とも、全くと言っていいほど変わらなかった。


「えー! これ智博の車? すごいじゃん!」

「カッコいいでしょ!」


 彼は嬉しかった。やっと、この車に憐を乗せてドライブができる。それは彼の夢見た世界、絶対にあり得ないと思っていた光景。


「憐。ご飯食べてないでしょ? 何か食べたいものある?」


 そう言いながら、彼は車の屋根を開けた。


「うわー、すごい!」


 憐は言った。そう言うと、


「うーん。なんだろう」


 憐は決めかねていた。


 彼女の横顔は昔と変わらない、彼の大好きな憐そのままだった。照れた時の目の動き、恥ずかしがった時の眉間のシワ、すべてが一緒だった。彼は憐に見惚れた。


「お台場に行ってみようか」


 彼は車を走らせた。


「あの時、覚えてる? 俺が突然連絡した時」

「覚えているよ。すごいびっくりした」

「あの時さ。俺、憐に会ったと思って、緊張しちゃって。鶴見駅でその人が降りた後、追っかけたんだけど、見つけられなくて」

「そんなに似てたんだ」


 憐は少し笑った。


「本当に憐にそっくりで、俺焦っちゃってさ」

「私も会いたかったな。その私の分身に」

「瓜二つだったよ」

「でも、その人のおかげでまた会えたんだね。もう二度と会わないと思ってたから」

「俺もそう思ってた。そう考えると、不思議だよね」


 高速道路を降り駐車場に着くまでの間、彼らはそんな話をした。お互いの生活に立ち入らないように注意をしながら。そして、彼はアクアシティの駐車場に車を停めた。


「お台場に来るの、すごい久しぶり。智博は、よく来てるかもしれないけど」

「いや、俺もあんまり来ないよ。たまに写真を撮りに来たりするくらいかな」


 憐と歩くお台場は、20年ぶりくらいだった。まだ開業して1年目の、ヴィーナスフォートによく遊びにきた。パジェロミニで。


「うわー。なんか本当に久しぶり。前もここら辺歩いたよね」


 憐の言葉に、僕は懐かしさを感じていた。あの日2人で歩いたのは、彼ではなくて僕のほうだったから。


「今夜はあんまり寒くないね」


 彼が言った。


「明後日から大寒波が来るって言ってたよ」

「え、そうなの? 俺、今日からかと思ってた」


 2人は笑った。


 彼らはレストランを探した。新型コロナウイルスによる外出自粛要請の影響で、お台場はすいていた。


「お台場は自粛してるね。みなとみらいのほうが人が出てた気がする」

「それを言ったら、私たちもみなとみらいにいたし……。耳が痛いよ」


 憐の言葉に、苦笑いを浮かべた。


 彼は自身のことを語った。仕事で独立し、フリーランスで働いていること。「WESTBALL FAMILY」という音楽レーベルを立ち上げ、楽曲配信をしていること。一度だけ、好意を抱いた人ができたこと。


「そうだったんだ」


 憐は少し寂しそうに答えた。


 歩き回っても店を決められなかった彼らは、店舗マップを見ることにした。


「憐は何がいい?」

「そうだねー。どうしようか」

「あ、インド料理、タイ料理もあるよ。ここ覗いてみようか」

「うん」


 彼らはアクアシティの中を見てまわった。自粛中ではあったが、お店はどこも営業していた。


「俺この魚介パスタ食べようかな」


 海鮮料理が好きな彼は、ショーケースを見て言った。その言葉が懐かしかったのか、それを聞いて憐が微笑んだ。そして、2人はペッシェドーロに入った。憐が席を外している間に、店員がメニューを持ってきた。


「おかえり。コースと単品を見比べてみたんだけど、コースのほうがおトクかも。コースでもいい?」

「うん。コースでいいよ」


 憐は笑顔で答えた。彼は店員を呼ぶとコースを注文し、そして口を開いた。


「やっと、マスクのない憐が見れる」


 老いを恥ずかしがった憐は、車の中でも外さなかった。


「恥ずかしいな。おばちゃんになったの見せるの」


 憐は少しうつむきながらマスクを外した。


 あの頃のままだった。彼と僕がリズモアで惚れた憐は、何一つ変わっていなかった。昔のまま、そのままの憐。


「変わってないよ。昔と同じ。好きだったあの頃のままの憐だよ」


 彼は言った。彼女は恥ずかしがって、またうつむいた。


 前菜を食べながら彼らは話した。昔の想い出を。彼の代わりに僕が行ったスノボのことも。


「憐、ニンジン嫌いだったよね」

「よく覚えてるね。智博にはいつも食べてもらってたね」

「そうだったね」

「智博は好き嫌いないもんね。肉の脂身が苦手なんだっけ?」

「うん」

「でも、脂身は食べる必要ないよ」

「憐って、他に何がダメだったっけ? ピーマン? ナス?」

「ううん。それらは大丈夫。グリンピースはあんまりかな」


 2人はお互いを思い出そうとしていた。


「なんか最近、食が細くなっちゃって。あと魚介系も、あんまり食べれなくなっちゃった」


 彼は、憐の体が心配になった。


 前菜のマリネに入っているタコを見せながら、


「智博、食べれる?」

「うん。ここに置いといて」


 彼は答えた。それは懐かしい光景だった。


 やがてリゾット・ポルチーニが運ばれてきた。一通り話が終わった2人は、少し休んだ。


「それで、憐、君はどうしていたの?」


 彼が聞いた。


 自分のことを語りたがらなかった憐は、ゆっくりと口を開いた。


「私ね、結婚したんだ」


 彼は驚かなかった。何年も前から彼はそれを祈っていたから。


「2009年にプロポーズされて。2010年に」


 それは彼の転換期と不思議と一致していた。まるで、2人で決め合ったように。お互いに新たな道へとスタートしたように見えた。すると憐は、今日誘ってきた経緯について話し始めた。


「今朝ね、何となくLINEを見てて。智博との約束、時間ができたけど、当日だしって迷ってたの」


 彼はリゾットを皿に取り分けながら聞いていた。


「そしたら、何か押しちゃったみたいで、急に曲が流れてびっくりして」

「曲?」


 彼は聞いた。


「うん。智博のLINEの曲、『月』ってあるでしょ? あれ」

「うん。うちのバンドの曲」

「実は私、娘がいてね。琉音るねっていうんだ。私がつけたの」


 それはフランス語で「月」を意味した。


「あの曲、憐のことを思って書いた曲なんだよ」


 彼は言った。目を逸らしながら。彼の目には涙が滲んでいた。


「サビでさ、俺、憐のことを歌ってるんだ。憐をとなりに乗せて走りたくて。今日みたいに……」


 本当は思ったすべてを言いたかった。でも、言うと泣いてしまいそうで、彼は最初の言葉でやめていた。




 月(Tsuki) By Westball Family Band

(注:作詞作曲を著者が行なっております。ネットでバンド名と曲名を検索いただければ、音楽も同時にお楽しみいただけます。詳しくは 「余生」 参照)


 僕はとなりに 彼女を乗せて 走り続けるから

 今はまだ 何もないけれど もう少しだけ

 こっちを 向いていて 欲しいだけ

 それだけ それだけさ




 彼はずっと、憐と一緒に人生を歩みたかった。彼女のとなりで。


「ほら見て、アマゾンでも売ってるんだよ」


 彼は笑い直してスマホを見せた。


「これは2013年にリリースしたんだ」


 画面の発売年を見て彼は微笑んだ。


「2013年? それ琉音の生まれた年と一緒……」


 彼女の言葉に、彼は驚いた。そして僕も。娘の月と琉音ちゃんが同い年だなんて。名前といい、年といい。異なる人生を歩んだ、2人の憐の不思議な関係に。


「私ね、琉音と、この『月』のつながりに驚いて……。ホント今日、急に琉音が母のところに泊まることになったから、今日はそういう日なのかなって」


 彼は黙って聞いていた。


「私ね、シングルマザーなの。夫婦関係うまくいかなくて。琉音が生まれてすぐに家を出ちゃったんだ」


 彼の心に、痛みのようなものが走った。


「離婚が成立するまでは、3年くらい掛かっちゃったんだけどね。それからは、琉音のことで忙しくしちゃってて。そんなこともあって、智博との時間も作れなくって」


 言葉が見つからなかった。ただ苦しかった。憐には人並みの幸せな暮らしを、彼はそう願い、ほかの誰かに託したはずだった。温かな家庭で、不自由のない生活。憐は幸せに暮らしているはずだった。彼は、一方的にそう信じ込んでいた。


「こちら、大山どりのもも肉のグリルでございます」


 彼は、言葉が見つからないまま、鶏肉を取り分けた。憐はやはり食が細くなっていた。彼は憐の分まで頬張った。憐の人生を狂わせてしまった罪を、償うかのように。


「あー。話したら楽になったー。すごい緊張してたから」


 憐は明るくなった。


 食後、彼らはお台場を歩いた。歩きながら昔のことを話した。別れた後、一度だけ憐がライブに来てくれた時のことを。その時、彼の母親と対面したことを。


「あの時、智博のお母さんが声をかけてくれて。涙を流しながら『憐ちゃん、来てくれてありがとうね、ありがとうね』って、私なんかに。私ももらい泣きしちゃって……」


 憐は目を潤ませた。


 彼らはお台場海浜公園から、ウエストパークブリッジを渡り、ヴィーナスフォートのほうへと歩いた。


「昔、憐が泊まった時、お袋がいなくて、憐が料理したことがあってさ。親父、普段はその料理を食べないくせに、その時は、うめえうめえって食ってさ」

「やだ、今ならまだしも、あの頃のなんて。なに作ったんだろう」

「トマトチキンソテーだった気がする」


 父親は、母親が作ったら絶対に食べないそのメニューを、その時だけは美味そうに食べた。


 ヴィーナスフォートまで来ると、懐かしさが込み上げてきた。開業してまだ1年目のヴィーナスフォートは、トレンド入りするデートスポットだった。


「ここに来た時、あそこの駅前でCMの撮影をしてたの覚えてる?」


 彼が聞くと、


「え。そんなことあったっけ?」


 憐が答えた。


 あれから20年。彼らの記憶の多くは消えていた。でも、彼らは記憶を重ね合って、必死に蘇らせようとしていた。


「顔洗う時、手で泡を作るやつやってるの?」

「よく覚えてるね。智博とは、一緒にお風呂に入ってたもんね。やってるよ。もう癖だね」

「あの技は、いつ見てもすごかったなー。手をシャカシャカしたら、ムクムク泡のかたまりができるんだから。見てて気持ちがよかった」


 それは夢の世界の憐が、エステティシャンの資格を取るときに覚えたものだった。憐は、目の細かい泡を立てる名人だった。元の世界では見たことがない、こっちの憐だけの特技。


 そして、彼らはテレポートブリッジを渡った。


「智博、時間まだ平気?」

「うん。サービス券あるから、あと30分くらい大丈夫だよ」


 時刻は21時38分だった。


「それなら、少しお茶しようよ」


 彼らはスターバックスへと入った。


「智博、何にする?」

「うーん。何にしよう。憐は何にするの?」

「私はカフェラテにしようかな」

「なら俺もカフェラテ」

「分かった。私が持って行くから、智博は座ってて」


 彼はテラス席へと向かった。


「お待たせ」

「ありがとう。そういえば、憐の好きな色って、アオだったよね」


 緑色に輝くレインボーブリッジを見ながら、彼が言った。


「よく覚えてるね。智博ってホント記憶力いいね。実はね、琉音の琉もアオって意味があるんだよ? 琉璃色の」

「そうなんだ」


 僕は『蒼い星』を書いた時のことを思い出していた。


「俺、憐の携帯番号だって言えるよ?」


 彼は誇らしげに言った。


「えー! 智博、ホントスゴすぎ! 今の時代、番号を覚える人なんていないのに」

「忘れるわけないじゃん? 多分、死ぬまで覚えてると思う」


 僕も同じだった。それはきっと、死ぬまで忘れないと思った。


 彼らはカフェラテで温まりながら、夜空を見上げた。


「智博、月がきれいだよ。今日は満月なんだ」


 憐が言った。

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