第24話 高鳴り1

「パパ、起きて! 朝だよ! パパ!」


 僕は月に起こされた。


「パパ、今日は満月なんだよ?」

「へー、そうなのか! よく知ってるねー!」

「さっきテレビで言ってたよ」


 月は満月になると喜ぶ。自分の名前の由来が一番光り輝く日。そういう時、星は決まって悔しがった。そして、月を羨んだ。


「智博。おはよう」


 リビングに行くと、憐がコーヒーを飲みながら窓の外を眺めていた。朝日を浴びながら物思いにふける彼女に、僕は見惚れていた。


 ああ。僕の好きな憐の仕草。その瞼の揺れが、横顔が。僕が前を向けるのは、そんな君を見ていたいから。


 純粋に僕はそう思った。彼の世界を見てきた僕には、そうとしか思えなかった。それは、もう二度と見たくないと思う最悪の世界。


「朝ごはん用意するから少し待ってて」

「うん」


 僕は子どもたちの相手をした。1年とは早いもので、もう2020年12月29日火曜日。今年も終わろうとしていた。


「いただきます」


 僕はそういうと、箸をとった。今日の朝ごはんは和食だった。


「あのね。昨夜、智博の夢を見たの」


 憐が言った。


「俺の夢? どんな?」

「なんか、すごい久しぶりに会うことになってて、私すごい緊張してるの」


 僕は納豆をかき混ぜながら聞いた。


「智博は2人乗りのオープンカーに乗ってて、お台場に夕食を食べに行くの」


 僕はふと夢の世界を思い出した。


「その後、ドライブして、東京タワーに連れてってくれて。見上げると満月なの。それがとってもきれいで。朝起きて私、泣いちゃった」


 憐は少し照れながら言った。


「私もドライブ行きたい!」


 月が言った。


「あっちの世界。今はどうなってるんだろう」


 僕はもう、2カ月近くも夢の世界へ戻っていなかった。彼との繋がりは、もう途絶えかけていた。


 朝食の後、僕は年越しを前に、書斎の掃除をすることにした。いらないものがたくさんあった。


「もしかしたら、あとで役立つかもしれない」


 そう思うと、僕は捨てられない。いらないものはそうやって増えていった。我が家は僕の書斎を除けば、いつも掃除が行き届いていた。憐は掃除が好きだった。


 僕は、ほとんど聴かなくなってしまったCDの棚を整理していた。すると、棚の奥にカセットテープを見つけた。指を引っ掛けると、埃がまとわりついた。取り出して埃を払う。そこには『蒼い星』と書かれていた。


「うわ! 懐かしい!」


 僕は、胸が少し熱くなった。あまり使わなくなったビクターのコンポにテープを挿し、再生ボタンを押した。しかし流れ始めたそれは、僕の望むものではなかった。


「そうか、こっちの世界じゃ、ちゃんとレコーディングしてないんだった……」


 僕は、夢の世界の音源が聴きたかった。アンプチでレコーディングした音源を。僕は椅子に腰掛けると、その音を思い出しながらゆっくりと目を閉じた。




 目を開けると、彼はスマホを開くところだった。スマホに映し出された日付は、2020年12月29日火曜日、9時30分となっていた。それは元の世界と同じ日付であり、ほぼ同じ時間だと思った。


 スマホを開いた彼からは、胸の高鳴りみたいなものが感じられた。僕がそれをもっと深く知ろうとした時、記憶の波が押し寄せた。同期がはじまったようだった。


 彼の高鳴りの理由を確認できないまま、僕は記憶の整理に追われた。2カ月ぶりのせいもあってか、それには少し時間がかかった。


 大きな波長、小さな波長、彼の記憶の質量は、思いの深さで変わる。その波長の中に、にわかには信じがたい大きさのものがあった。


 その波長は、だいぶ古い時期からはじまっていて、今日やっと1つの記憶として形になったようだった。それはどうやら、胸の高鳴りにも関連しているらしく、膨張もそのせいに感じた。


 その記憶は、非常に珍しい天文現象についてのものだった。その現象は、この世界を作る潮流そのものに関わっており、多くのパラレルワールドで同時に起きた事象だろうと思う。エネルギーをまとめるコアな部分の1つ、といってもいいかもしれない。


 この天文現象は、僕の世界でも起きた。しかし、僕には記憶に残るような出来事は起きなかった。もしそれが彼と憐の関係に影響を及ぼしたのだとしたら、このパラレルワールドはきっと特異な世界なのかもしれない。僕はそのつながりに驚き、喜んだ。


 それは、アネモネのレコーディングが進行していた2018年まで遡る。ボーカル録音が始まるちょっと前、1月30日火曜日の出来事だった。


「次は鶴見に止まります」


 電車のアナウンスが流れた。


 頭上の広告を見ていた彼は、ポケットのスマホに手を伸ばした。つり革につかまりながらメールのチェックをしようとした時、彼は息を呑んだ。


 彼の目の前に、憐にそっくりな女性が座っていた。彼の心は一気に高鳴り、一瞬目眩がした。変に思われないよう気をつけながら、彼はその女性を見た。彼女は、本当に憐そっくりだった。


 もう何年も会っていない憐。彼は人違いかもしれないと迷った。話しかけるべきか、やめるべきか。すると、彼女と一瞬目があった。彼は凍りついてしまった。憐と会うだけの、心の準備ができていなかったから。


 しかし、女性はすぐに目をそらした。そして鶴見駅に着くと、何事もなかったように降りていった。


 我に返った彼は、慌てて彼女を追った。鶴見駅の階段を駆け上り、辺りを見回した。しかし、そこに彼女の姿はなかった。彼は確認できなかったことを後悔した。


 翌日も彼は後悔していた。憐に会えていたのなら、こんなに嬉しいことはない。今を生きる本物の憐と、ほんの僅かな時間でも時をともにできたのだから。しかし、彼は実際には確認していなかった。


 目があっても彼女が反応しなかったのは、きっと長い年月が過ぎていたから。憐が僕だと気づかなかったから。きっとあれは憐だったに違いない。彼はそう思おうとした。


 しかし、やっぱりそれでは納得ができなかった。彼はその喜びを、事実として受け止めたかった。懐かしい喜びが体の中で跳ね回り、もうどうしようもなかった。


 気になって仕方がなかった彼は、LINEを開いた。携帯電話の番号を変えてなかった憐が、LINEのリストにいることは知っていた。


 昨夜のことを聞くべきか、彼は迷った。憐の今の生活を思うと、それはためらわれた。しかし確かな証拠がない彼には、憐に似た女性を見つけ出すか、本人に聞いてみる以外に方法がなかった。


「憐。久しぶり。突然のLINEごめん。どうしても気になることがあって。昨夜19時前に京浜東北線に乗ってたら、目の前にすごく似てる女性が座ってて、鶴見で降りていったんだけど違うよね? 彼女はマスクをしていたから、ハッキリしなかったんだけど、すごく似ててドキドキした。突然ごめん」


 無視されることを覚悟で、彼は送信した。そして、憐から返事があることを願った。憐のアイコンは月のイラストだった。


 偶然にもその日は満月で、それもいつもより大きく見えるスーパームーンと、月に2度目の満月となるブルームーン。そして、皆既月食によって赤っぽく見えるブラッドムーンが同時に起きる夜だった。


 スーパー・ブルー・ブラッドムーン。それは非常に珍しい現象で、日本だけでなく世界中のテレビやネットでも話題になった。


 米紙フォーブス電子版の計算によると、満月を100パーセントとすると、スーパームーンの起きる確率は約25パーセント、ブルームーンは約3パーセント、皆既月食は約5.6パーセント。そして、これらすべてが重なる可能性は約0.042パーセント。それは0.1%にも満たない。


 計算上で言えば、満月2380回に1度の現象で、平均して265年に1度しか起こらないことだった。単純に考えても、江戸時代の年数1回分に相当する時間である。


 このスーパー・ブルー・ブラッドムーンは、僕の世界でも同じように話題になり、テレビやインターネットのトップ記事となっていた。


「智博。久しぶりだね。びっくりしたよ。京浜東北線に乗ってた女性は私じゃないよ? そんなに似てたなんて、見てみたかったな。智博は元気にしてる? 懐かしいね。こちらはすっかりおばちゃんになっちゃったよ」


 翌日2月1日木曜日、それは憐からの返事だった。憐だと思っていたその女性は別人だった。彼は信じられなかった。自分が憐を見間違えるわけがないと。


 憐と同じ空間にいられたと思ったそれは、ただの思い込みだった。彼はそんな思い込みを満たすために、憐に迷惑をかけた気がした。憐はきっと、結婚相手に隠れて返事をくれているのに。彼はそう思うと、申し訳なかった。


 しかし僕は彼とは違い、その不思議な流れに喜びを感じていた。憐の元気そうなメッセージに安心し、その文面に懐かしさを覚えた。やっと、憐を感じられたのだ。この世界の憐を。僕ももう二度と、この世界の憐とは会えないと思っていたから。


 僕はその女性が月からの使者で、265年に1度の魔法を使い、憐と彼を結んでくれたのだと思いたかった。それはきっと、潮流のエネルギーが起こした事象なのかもしれないとも。


 それから数年、彼らは誕生日の時だけ連絡を取り合っていたようだった。彼は憐の生活を壊したくなかった。きっと憐には家族がいるから。


 3年が過ぎた、2020年6月28日。彼の誕生日。


「Happy birthday !! おめでとう! 今年は健康で良い年になるといいね! リハビリ頑張ってる? 私も見習って少しだけど走ってみてるよ!」


 憐はメッセージを送ってきた。憐の話は、彼女の誕生日に彼が書いた内容への答えだった。


「ありがとう! もう体はだいぶ良くなって、ジムが再開したから通ってるよ! 走ってるの? すごいじゃん! 少しの運動でも、健康に必要だから良いと思う!」


 新型コロナウイルスの影響で、世界は一変していた。緊急事態宣言が発せられると、彼の通うジムは閉鎖された。生活環境も大きく変わり、彼らは未曾有の中にいた。


 その日のやりとりは、珍しく長く続いた。憐が返してくる言葉に、彼は昔を思い出した。憐の選ぶ言葉、文章、それは昔と変わらないものだった。彼女の気持ちが途切れないように、言葉を選びながら答えた。憐とつながっているその瞬間が、何よりも愛おしかった。そして最後に、ドライブに誘った。星に願いを託すように。


「ありがとう。いつか機会があったら行こう。でも、おばちゃんだから恥ずかしいな」


 憐は答えた。


「そんなことないよ。憐はきっと今もきれいだよ」


 彼はそう返信した。僕もそうだと思った。

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